4章 First ensemble / バンド名を決めよう

First ensemble(1)

「はい! これが今の段階で出来上がった分だよ」


 石川が声を弾ませてテーブルに置いたものは、A3用紙にコピーされたバンドスコアだった。一曲分であろう十数枚をホッチキスで留めたものが五束あり、それをクリップで纏めたものが四部。一部は石川が自らの手元に戻し、残りを僕と圭一、そして今日も今日とて無愛想な顔付きでソファに座る土田悠人が手に取った。


 無事に中間考査を乗り越えて一週間が経った六月の始め。僕たち四人はスタジオ『Youth road』のロビーにて第三回バンド作戦会議を開催していた。


「最終的には十二、三曲ぐらいに収めようと思ってるんだよね。本当はもっと作りたいけどアルバム構成のバランスもあるしさ」


 楽しげに語る石川を一瞥したのち、僕はスコアに目を落とした。薄めの雑誌ほどの厚みがあるそれには、彼女が強い意思を持って生み出した旋律が記されている。


 彼女がボーカルを務めるとしたら、僕はきっとリードギターの担当になるだろう。そう考え、自身のパートであろう五線譜に人差し指を置き、なぞっていく。彼女の感情が詰められた数々の音符に触れながら僕は思った。


 これは……相当な難易度なのでは?


「お、それがオリジナル曲のスコアかい?」


 不安の沼に足を飲まれそうになっていると、背後からのんびりとした声が聞こえた。振り返るとスタジオの店主である青木がカウンターを出て、興味津々といった様子で近づいてきている。


 青木雄大。彼が、ソニアのドラムを担当していたユウダイ。


 先日笹崎から聞かされたその事実は、今でも頭の中をフワフワと浮かび続けていた。信じていないわけではないが、あまりにも現実味に欠けた話だったからだ。笹崎がソニアのヒロトであったという過去も、また。


 彼らがソニアの元メンバーだということを知って驚きはしたが、不思議と僕は、その過去を根掘り葉掘り聞こうという気にはならなかった。憧れていた人間に出会えた時の興奮を覚えることもなかった。


 いくら過去を振り返ったところで、彼らはもうソニアモルトのメンバーでは無く、ソニアモルトというバンドも、もう今は存在しないのだ。そして、この先も一生。


 ソニアはあの四人で音を奏でてこそソニアであり、誰か一人欠ければ、それはもう成立しない。笹崎宏人はヒロトなどではなくただの高校教師で、青木雄大はユウダイなどではなく田舎町のスタジオ店主。僕の中ではそれが全てだった。


 だから、彼らにソニアという特別をぶつけることもしなかった。偶然みんな同じ考えだったのか、石川も圭一も悠人も、誰も二人にソニアの話を持ちかけることはなかった。


「ちょっとどんなもんか俺にも見せてよ」


 ソファの背もたれに片手をついた青木は、悠人が持っていたスコアの一束をひょいと持ち上げた。悠人は不機嫌そうに彼を睨んだが、すぐに残された譜面に目を戻す。


 青木は二本の指で背もたれを軽く叩きながらページをめくっていく。ドラム経験者ということもあり、無意識にリズムを取っているのかもしれない。


「なるほどなるほど」


 そして最後まで目を通し終えた彼はスコアを見つめたまま「これはアレだね」と、少し愉快そうに言った。


「なかなかにリードギターが苦労しそうな曲だね」


「ですよね」


 僕は思わず機敏に反応した。一度プロの世界を経験した人間がそんな感想を持っている。自分のような初心者から毛が生えたレベルの人間にとっては、相当な難易度の譜面だということだ。脳裏でズブズブと不安の沼に沈んでいく音が聞こえる。


「大丈夫ですよ」


 しかし、正面に座る石川があっけらかんと僕の煩慮を吹き飛ばした。


「私がリードギターを担当するので」


 随分と自信のある台詞だと思ったのか、青木は分かりやすく面食らう。対して、彼女の実力を知っている僕は、その言葉を平然とした顔で聞きながらも、心の底から胸を撫で下ろした。だが同時に僕の胸中には驚嘆の念も過ぎっていた。


「凄いな石川、こんなハイレベルな譜面を演奏しながらボーカルするなんて」


 それを素直に言葉にすると、石川は鈴を張ったような目をより丸くした。


「へ?」


「え?」


 予期せず彼女から放たれた疑問符を、僕はおうむ返ししてしまう。


「何言ってるの、篠宮くん」と、石川は常識を諭すような口調で続けた。


「ボーカルは君だよ」


「……は?」


 青天の霹靂だ、と脳裏に言葉が過った。そんなもの小説の文中でしか使われないものだと思っていた。しかし、なるほど。本当に当てはまる事態に直面した時には、ここまで自然と思い浮かぶものなのか。


「だから、篠宮くんがボーカルだよって」


 念を押すように石川が繰り返した。一瞬、目の前の光景から切り離されていた思考が舞い戻る。できればこのまま現実逃避に没頭していたかった。


「い、いや、待て」と、僕はスコアをテーブルに置いた。


「そこは石川じゃないのか? 自分が作曲した歌なんだから。俺の声じゃイメージが違うだろ」


「え? いいや? 最初から篠宮くんに歌ってもらうつもりだったけど」


 彼女はさも当然のように言ってのける。そのまま「そういえば言い忘れてたねー」などと暢気に笑みを浮かべた。そんな可能性は僕の中には塵ほども存在していなかったのだが。


「いやいや、俺には無理だって。今でもギターだけで精一杯なのに」


「そんなことないって。練習したらすぐできるようになるよ」


「それなら石川がボーカルしたらいいだろ」


「いやあ、私の歌声だと曲のイメージにマッチしないんだよねえ」


 自分で作った曲のくせに、と心の中で呟きながらも、彼女のあの歌声と、先日聞かせてもらった二曲の音色を思い起こす。するとたしかに、彼女の言葉には納得してしまう。


「僕も修志くんがボーカルをするものだと思ってたけど」


 不意に顔を上げた圭一が悠然と追い討ちをかけてきた。


「お前なあ、他人事だと思って」


「いや、適当に言ってるわけじゃなくて」と、圭一は言う。


「だって修志くん、歌を歌うには良い声質じゃないかな? しっかり高めの声も出るし、それでいてこう、芯が通ってる声というか」


「そうそう! 御堂くんよく分かってるう」


 石川は下手な口笛を鳴らして圭一を指差した。その素振りに若干腹が立ちながらも、人生で始めて送られた評価に少しむず痒い気持ちになる。


 しかし僕はまだボーカル担当を回避する望みを捨てていなかった。もう一つ選択肢があるではないか。ドラムを叩きながらメインボーカルは流石に難しいが、ベースを弾きながらというのは可能だ。


「俺じゃなくて悠人が――」


「俺は音痴だからパス」


 表情を一切変えずにスコアを見つめたまま言い捨てる。あまりにも躊躇い無く答えられてしまったことで僕は言葉に詰まり、言い逃れに失敗した。


「そういうわけで、篠宮くん。ボーカルは頼んだよ!」


「……ギターとボーカルどっちつかずになるかもしれないぞ」


「大丈夫、大丈夫、回数を重ねたら自然と体が覚えていくよ。一緒に練習も付き合うからさ。ほら、鼻垂れ石を穿つっていうし!」


「雨垂れなんだけど……」


 こうして僕は、半ば強制的に、サイドギター兼ボーカルを務めることとなった。

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