What is music to you(11)

「夏休みに家族でフェスに行ったことがある……好きな音楽に一日中囲まれて、他に何も考えずに音楽だけを満喫して……ただただ楽しかった。周りの客もみんなが楽しんでいて、見える景色が全部笑顔で溢れかえってた。自分たちが世界で一番幸せなんじゃないかとも思った」


 その瞬間、僕の頭の中では土田が口にした過去の、その光景がありありと浮かび上がってきた。満天には澄み切った群青。一面に広がる青々とした芝生。眼前のステージで溌剌と演奏するアーティストたち。夏の空気を震わせる音の数々。会場に漂う熱気。飛び交う歓声。そこここでリズムに合わせて飛び跳ね、手を突き上げ、体を揺らす観客。その全ての満面には笑みが浮かんでいる。際限無く広がる歓喜。音楽で色付き、輝き続ける世界。


 土田の言葉にこれほどの情報量は無かった筈なのに、なぜか鮮明に想像できた。それはきっと、今まで僕が経験したことのないような強大な感情が、その低く抑揚の無い彼の声に込められていたからだ。


 土田は静かに顔を上げる。その瞳に、僕の身は竦んだ。そこには、石川の内にも灯っていた、音楽に対する真摯で誠実な思いが湛えられている。


「俺もいつかバンドを組んで、プロになって、そうやって誰かに音楽の楽しさを伝えられるような人間になりたい。そういう風に音楽をやりたいって思ってますよ」


 綿々と語るその様に僕は少し驚かされた。ここまで見てきた土田の振る舞いからは、こんな風に胸中を吐露する姿が想像できなかったからだ。彼のことを深く知らないが、らしくないと感じる。


 土田はそのまま声音も表情も変えず続けた。


「その夢を叶えるためには相応の実力がいるから、俺はそれなりに努力をしている。けど周りにはそんなつもりでやってるやつなんていないんですよ。皆が皆、ただ楽器を弾くだけで満足してる。プロを目指すレベルの演奏をしようなんて考えてない。だから俺は――」


「それは前のバンドでの話だろ?」


 笹崎は再び土田の言葉を遮った。


「もしかしたら次は違うかもしれないじゃないか。いきなりプロを目指すとまではいかなくても、お前の本気に応えてくれるやつらだっているさ」


「……そんな簡単なもんじゃないでしょう。俺はもう面倒なんですよ、メンバー内でいがみ合ったりするのは」


 なおも土田は拒絶の意を示す。


「……まあ、そうだな」と、笹崎は頭を掻きながら間延びした声を漏らした。


「たしかに、その経験がお前にどれだけの影響を与えてるかなんて本人にしか分からないし、あんまり勝手なこと言うのは無責任かもしれないな」


 説得を諦めたように見えた彼に替わって、石川が声をかけようと唇を動かしかける。


 しかし、予想に反して笹崎は「けど」と、土田に向かって続けた。


「お前、たしかソニアが好きなんだろ?」


「……は?……まあ、好きですけど、それがどうかしたんすか」


 また脈絡に欠けた問いだ。そういえば昨日スタジオで土田が演奏していた曲はたしかにソニアだったな、とその光景を思い出す。それよりも僕は、笹崎もソニアを知っているということに気を取られた。考えてみれば僕たちよりはよっぽど世代ではあろうが。


 土田の答えを聞いた笹崎は小さく相好を崩した。その微笑みはどことなく嬉しそうな情感を含んでいるようにも見える。そして彼は、


「ソニアのユウキも言ってたぞ」


 と、昂然と口を開いた。


「たった一回の経験で、たった一つの先入観で、残り何千、何万もの可能性を潰すのは勿体ないってな」


 その言葉を受けた土田は二の句が継げずに目を丸くした。そして、僕もまた同様に呆気に取られてしまった。


 なぜ、笹崎がそんなことを知っているのだろうか。ソニアは雑誌やテレビのインタビューはほとんど受けていない。ゆえに裏話のような情報も一切といっていいほど存在しない。彼らが世に残したのは、たった十数個の曲だけだ。


 僕は石川の顔を窺った。視線に気づいた彼女もこちらを向く。その表情も僕と同じように謎を訴える色に染まっていた。どうやらユウキの実の娘である彼女でも知らない言葉らしい。なおさら不可解な思いは膨らんでいく。


 そこで石川は機敏に首を回した。


「あのう……」


 言葉を無くしたままの土田を余所に、笹崎へ声をかける。


「ん、どうした?」


「どうして笹崎先生がそんな……ソニアのユウキの言葉を知ってるんですか?」


「ああ、だってそりゃあ」と、笹崎は事も無げに言った。


「同じバンドのメンバーだったからな」


「……へ?」


「え?」


「ん?」


「は?」


 僕たち四人は同時に間抜けな声を漏らした。まるで時間が止まったように全員の体が固まる。僕は動揺に捕らわれた頭の中で笹崎の言葉を慎重に考察した。


「……あれですか? 学生の時の友人か誰かの話ですか?」


 固まった口をぎこちなく動かして、一番あり得そうな可能性を試しに挙げてみる。もしそれが正解だったとしても驚愕の事実となるが。


「いやいや、そうじゃなくて」


 しかし笹崎は否定し、そのままあっけらかんと言った。


「ソニアで一緒だったんだよ、俺と優希が」


「あ」と、圭一が直後に呟いた。


「先生の下の名前、宏人だ」


「おっ、そうそう、メンバー名はみんな本名から取ってんだよ。っていうかお前らみんなソニア知ってたんだな」


 ――いやいやいや、と僕は脳裏で繰り返す。たしかにソニアのリードギターの奏者の名前はヒロトである。しかし、とても世に溢れているような名だ。それだけで信じようとするのには流石に無理がある。


「いまいち信じきれてなさそうだな」


 笹崎は軽く笑った後で、顎に片手を添えて小さく唸った。


「うーん……あ、じゃあスタジオの店長にも聞いてみろよ。あいつもメンバーだったし」


「はあ!?」


 笹崎以外の誰もが耳を疑うような台詞だったが、その中でいち早く声を上げたのは土田だった。


「店長が? ソニアのメンバー?」


「ああ、あいつドラムだったんだよ。ほら、下の名前もユウダイだろ?」


 笹崎が言うように、昨日スタジオの店主は初めて言葉を交わした際に『青木雄大』と名乗っていた。そして、ソニアのドラム担当の名前はユウダイだ。


 ……たしかに、名前はことごとく一致している。しかし、だからといって信じるには確証が足りない。それだけで信じるには、事の内容が巨大過ぎる。


「――それで」


 その時、隣で吐息を漏らすような石川の呟きが聞こえた。


「お父さんのそんな言葉を知ってたんだ……」


「「「お父さん!?」」」


 笹崎と土田、そして普段は冷静沈着な圭一さえも同時に大声を上げた。無意識だったのか、石川は反射的に片手で口を押さえる。


「――ああ! 『石川』って、まさか!」


 次の瞬間、笹崎が勘づいたように、愕然として目を見開く。


「じゃあ、もしかして……彩音ちゃん……なのか?」


 震えそうなほど弱々しい声で、その名前を口にした。不意に名を呼ばれた石川は少し面食らいながらも控えめに頷く。


「そうか……随分と、まあ、大きくなって……」


 笹崎は僅かに目を細めて、どこか憂いを帯びた優しげな声音で言う。その姿は教師と生徒というよりも、まるで親戚の子供に接する大人のようだった。学校の教師もどこにでもいる只の大人なんだな、と当たり前の事が頭に浮かぶ。


 そして同時に、笹崎のその反応を見て、先ほどの彼の言葉の信憑性が増していくように思えた。石川の父親との繋がりがなければ、ここまで驚き、感慨に浸る素振りを見せることも、彼女の名前が自然と口からこぼれることもないだろう。


 そこから再び教室は森閑とした。ここにいる全員の前に喫驚が堆く積もり過ぎて収拾がつかなくなってしまっている。果たして、誰がどう切り出すのが最も正しいのか。


 黒板の上で動く掛け時計の秒針の音がやけに大きく聞こえる。規則的なリズムを刻むそれが半周しそうになった時。沈黙に終止符を打ったのは石川だった。


「土田くん」と、彼女はゆっくりと口を開く。


「私たちね、今、CDを作ろうとしてるんだ」


 土田は意外そうに細い両目の形を変える。やはり誰でも初めて聞いた時には突拍子のなさに戸惑うだろう。


「私が作曲して、一枚のアルバムを作るの。それと、できれば文化祭でライブもしたいなって思ってるけど」


「……なんでそんなことを?」


 土田は目を細く戻して疑問を投げかける。初めてそれを聞いた時は僕も同じ事を考えた。そしてその明確な答えは未だに明らかになっていない。『生きた証を残す』という漠然とした言葉が吐かれただけだ。今回も適当な言葉ではぐらかすだろうと思い石川の顔を見る。


 しかし、彼女は真剣な目つきで土田を捉えたまま、躊躇いなく言った。


「音楽に関わる全ての人は絶対に不幸にならないっていうことを、証明するためだよ」


 その一言は、昨日の放課後に彼女が口にしていたものと同じだった。


 証明するとは、果たしてそれは誰に向けてなのか。そしてなぜそれを証明しないといけないのか。新たな疑問が沸々と浮かんでくる。しかし僕も、土田も、圭一と笹崎も、それを口に出すことができなかった。彼女が毅然と放った、強い意思が乗せられたその声に狼狽してしまったのだ。


「たしかに土田くんみたいに今の段階でプロを目指してるつもりはない。だけど目標は違っても、私だって本気で音楽に向き合ってるんだよ。本気で音楽をやって、音楽を楽しもうと思ってるんだよ」


 だから、と石川は無意識のうちか、その右手で強く拳を握る。微かに金属と金属が重なる音が鳴った。


「どうかな? 一緒にバンド、組めないかな?」


 純真無垢な子供のように丸っこい声で、彼女は改めて誘いの言葉を手渡した。


 土田からすぐに答えは返ってこない。結局にべもなく断られるのではないかと個人的に憂慮していただけに、意外だなと思いながら僕は彼の顔を窺った。


 依然としてその性格を映し出したような鋭い面持ちで、土田は沈黙を保っている。深く思案するように小さく俯いたままだ。


 二、三度の呼吸を置いたのち、ゆっくりと顔を上げてこちらを向いた。口を結んだまま、石川、僕、圭一と、順に見るように視線を動かしていく。共にバンドを組むことで起こる出来事の良し悪しをじっくりと値踏みしているように見えた。その査定が終わったのか土田は細い両目を閉じる。


 次の瞬間に教室に訪れた音は、わざとらしいほどに深い、一つのため息だった。それを吐き出した張本人である土田は物事に疲れたように小さく項垂れている。


「……分かったよ」


 そして、諦念に満ちた低い声を漏らした。


「とりあえず、そのCDを作ってライブをするってところまでなら一緒にやってやるよ」


 あくまで高圧的な物言いで、不満げな表情を浮かべながらも、彼はバンド加入を承諾した。


「本当!? よかったあ」と、石川は一瞬で声を華やがせる。


「私、早く土田くんと演奏してみたいんだ。昨日スタジオで見させてもらったけど凄く上手だったからさ」


 そのまま彼女は嬉々として土田に詰め寄っていく。その言葉はおだてているわけではなく、本心から漏れ出したような調子だった。


 石川から屈託の無い笑みを向けられたためか、土田は面食らい、照れ臭そうに彼女の顔から目を逸らして教室の窓を睨んだ。刺々しい言動を備えている割には、真っ直ぐに突きつけられる賞賛には弱いのだろうか。


 扉の近くに立ったままの笹崎を見やると、どこか嬉しそうな微笑を浮かべながら小さな頷きを繰り返していた。


「よし」と、その時不意に圭一が椅子に腰をかけたまま口を開いた。


「これで、メンバーが全員揃ったわけだね」


 満足げにいつも通りの涼しげな笑顔を見せる。それを受けた石川は弾むようにこちらへ身を翻した。


「うん! これで正式に私たちのバンドの始まりだよ!」


 そして、満面に喜びを浮かべたまま言う。


「さあ、みんなで精一杯音楽を楽しもう! 音楽は人を幸せにするんだって事を証明しよう!」


 教室に、彼女の麗らかな声が響いた。

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