What is music to you(10)

 放送の呼び出しに応えて二組の教室にやってきた土田悠人は、一歩室内に入り込んだところで僕たちの存在を認めた。


「なんでお前らが……」


 相変わらず何をしているわけでもないのに不機嫌そうに見える吊り目を丸くして、低い声を漏らす。


「本当にきた」と、呟いた僕の目の前で椅子の跳ねる音が響く。


「ようこそいらっしゃいました!」


 勢いよく立ち上がった石川は、体の動きに呼応した高らかな声を放った。


 その台詞で何かに勘づいたのか、土田は両目をすっと細く戻して眉を顰めた。不愉快を露わにした大きなため息と共に片手で後頭部を掻く。


「帰る」


 そして、喉を潰したように重い声を吐き、踵を返した。


「ちょ、ちょっと待って! 少し話を聞いてよ!」


 引き留めようとする石川に、土田は首だけで振り向く。


「昨日スタジオで店長に話を聞いたんだろ。そういうことだから。俺はバンド組む気なんてさらさら無いんだよ」


 昨日の出来事を知っているということは、あの後青木からも改めて話を持ちかけたのだろう。


 だが土田の意思は固いらしい。僕たちの誘いの言葉を一切聞こうともせず、けんもほろろに教室を出ようとする。


 しかし次の瞬間、その行く手を遮るようにして、廊下に高やかな形の良い人影が現れた。土田の足が止まり、上履きと床が擦れる甲高いゴムの音が鳴る。


「ああ、やっぱりお前たちだったか」


「あ、笹崎先生」


 すっかり見慣れた顔を前にして僕はその名前を口にした。笹崎は片手を掲げて「おう」と、応える。


「二組の教室で土田の名前が出たから、なんとなくそうじゃないかと思ったんだよ」


 彼は土田の顔を見ながら軽く笑う。相反して土田は満面に鬱陶しさを浮かべた。今の一言で笹崎にも一連の話が通っていることを察したようだ。渋面を保ったまま一徹に冷ややかな声を吐き出す。


「すいません。自分は帰るんで、どいてください」


 相手が教師だろうとその態度に変わりは無い。だが笹崎は全く体を動かそうとせず、出口を塞いだまま言う。


「まあまあ、そんな急ぐこともないだろ。あのスタジオは遅くまでやってるんだし、ちょっと三人の話でも聞いてやれよ」


 軽い声調で吐かれたその言葉を受けて、土田の表情は更に不快さに満ちていく。そして一層鋭さを増した声で言った。


「先生には関係無いことじゃないですか。放っておいてもらっていいですか」


 反感を剥き出しにした一言に、教室の空気が張り詰めたような気がした。二度、三度と動く掛け時計の秒針の音がやけに大きく聞こえる。


 しかし笹崎は「そうだな」と、全く動じることなく泰然と続けた。


「たしかに俺には関係の無いことだし、何をやっても余計なお世話だと思うよ」


 だけど、と彼は言った。


「余計なお世話をうんざりするぐらいに焼くのが教師ってもんだ」


 まるで冗談を言うような口ぶりで。けれど、冗談は一切交えていないような眼差しで。


 一向に引こうとしないその姿に、土田は呆れたように顔を背けて小さく舌打ちをした。


「さて」と、そのまま笹崎は教室に足を踏み入れる。


「突然だがここで一つ質問だ」


 両手を広げて、何かしらの学者のように気取った口調で言う。


「諸君にとって音楽とは何かね?」


「……急にどうしたんですか?」


 僕は思わず率直に返してしまった。それは全く藪から棒の問いだった。あまりにも話の脈絡に欠けている。


「いや別に大した意味は無いさ。純粋に気になってな」


 なにやら胡散臭い、と僕は目を薄くする。


「何かしらあるだろう。例えば嫌な事があった時の心の支えだとか、例えば勉強やスポーツに励む時に勇気をもらったり自分を奮い立たせたりする存在だとか」


 笹崎はそう言って僕を見た。


「じゃあ、篠宮。お前にとって音楽ってのは何だ?」


 先ほどの問いを改めて名指しで送ってくる。僕は言葉を詰まらせた。質問自体に脈絡が無かったのも一つの理由だが、何よりその内容の物々しさに気圧された。


 自分にとって音楽とは何か。十七年の人生において、そんなことを考えたことは一度として無かった。音楽とはあまりにも普遍な存在で、当たり前のように日常に溢れていて、いつでも何の妨げも無く享受できているからだ。それは毎日の習慣と同じぐらい当然の存在とも言える。あなたにとって食事とは、睡眠とは何か、と聞かれている気分だった。かといって『僕にとって音楽とは生活習慣です』という答えは間違っている気がする。


「そんなに難しく考えなくてもいいさ」


 笹崎は沈黙を貫く僕に笑いかけた後、圭一の方へと視線を滑らした。


「御堂はどうだ?」


 圭一も不意打ちを受けたといったように目を丸くした。そのまましばし呻る。


「……そう言われると、あまり深く考えたことはなかったですね。楽器も始めたばかりですし。みんなと比べて多くの曲を聴く方でもないので」


 圭一らしく、突然の質問にも真剣に思考を巡らすが、僕と同じように明確な答えは出てこない。


「そうか、まあ急に言われてもって感じだろうけど」


 どうやら質問相手を戸惑わせている自覚はあるらしい。だが笹崎は止まること無く、土田の方へ顔を戻した。


「じゃあ土田。お前はどうだ? お前にとって音楽ってのは何だ?」


「何って……別に……」


 土田もまた返答に窮するように漏らす。


 しかし、その様相は僕や圭一のそれとはどこか違う。問いに対する答えがないのではなく、自身の中に有る答えを言い憚っているように見えた。


「雄大から……スタジオの店長から聞いたよ」と、笹崎は言う。


「スタジオミュージシャンになろうとしてるんだってな。大したもんだよ、今の段階でそれを目指せるだけの実力と気概があるってのは」


 腕を組み、素直に感心するように小さく頷きを繰り返す。過去にバンドを組んでいたという彼は、その困難さを知っているのだろう。


 だがすぐに笹崎は縦に振っていた首を止める。そして次に土田に向けた表情はそれまでと打って変わり、まるでスタート直前の短距離走選手のように厳粛なものとなっていた。


「でも、お前は本当にその道を選びたかったのか?」


「……は?」


 自身が思い描いている将来を疑われているような言葉に、土田は怪訝そうな顔で返す。


「……当然じゃないですか。昔からプロの奏者を目指そうとしてたんすよ。だから――」


「本当に」と、笹崎は土田の言葉を遮った。


「お前にとって『プロ奏者になる』っていう結果だけが音楽をやる上で一番大事なことなのか?」


「……何が言いたいんですか?」


 土田が吐き捨てたものと同じ台詞が僕の脳裏を掠めた。笹崎の言葉はいまひとつ要領を得ない。土田の音楽に対する意思に何か疑念を抱いているようだが、なぜそのような考えに至ったのかが分からなかった。


「バンドを組まずに一人で練習を重ねて、誰かの作品制作やライブをサポートする奏者になる。飯を食っていくために、生活を続けていくために、仕事として他人の音を作り上げるための演奏をする。それはもちろん立派なことだ」


 だけど、と笹崎は続けた。


「それでお前は、本当に音楽を楽しめるのか?」


 とても真剣な声で、真っ直ぐな眼差しで土田を捉える。


「それが本望だって言うならただの俺の思い過ごしだけど、でもお前を小さい時から知ってる雄大の話を聞いてたら、どうもそうじゃない気がしてな」


 どうなんだ、と彼は改めて言った。


「お前にとって音楽ってのは、お前がやりたい音楽ってのはなんなんだ?」


 笹崎は言葉を止めて、その答えを待った。しかしそれはすぐに返ってくることはなく、しばしの静寂が教室に訪れる。沈黙が続けば続くほど、土田が笹崎の言葉を肯定していることが明らかになっていくように感じる。


 しばらく経ち、土田は黙したまま床を睨むように小さく俯いた。そして数秒の間を置いた後、


「――小さい頃」と、おもむろに口を開いた。

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