出会いと始まりの音(7)

 と、そこで蛇口を強く閉めたようにピタリとギターの音が止んだ。そのまま石川は真上の空を仰ぐ。僕は不思議に思い声をかける。


「どうした?」


「……篠宮くん、この時間に帰ろうとしてたってことは帰宅部なの?」


「え?」


 石川は顔を持ち上げたまま問いを返してきた。


「ああ、まあそうだけど」


「そしてギターをやっている、と」


「さっきも言った通り、始めて半年弱だけど――」


「よし!」


 僕が言いきる前に、突然彼女は決然とした声を上げた。同時に視線をこちらへ落とす。首を痛めないかと心配になるほど凄絶な勢いで。


「篠宮くん! バンド、組まない?」


「……は?」


 唐突の一言に呆気に取られ、間の抜けた声を漏らす自分がいた。


「だから、バンドを組みたいです!」


「いや――」


「バンドを組もう!」


 提案から要望、そして強要になりつつあった。


 突拍子も無い申し出に僕は狼狽してしまう。いや、たしかにギターの話をしていたことを考えると、全く脈絡が無いとまでは言わない。だが彼女の口からその台詞が出ることは予想だにしていなかった。


「どうしたの、そんな鳩が機関銃くらったような顔して」


「なんだその恐ろしい間違い」


 しかしそれが言い得て妙と思えるほどに、今日は莫大な非日常の沙汰を喰らわされている。


「で、どう?」


「待てまて。なんでそんな急にバンドを組もうなんて」


「物事を始める理由なんて漠然としたものがほとんどさ。大切なのは始めた後にどれだけ本気を注げるか、だよ」


「いや、そんな浅い名言風なことを言われても」


 まるで博学な哲学者のように訳知り顔で頷いている。どこか勢いで誤魔化そうとしている様子が窺えた。


「でも、あんまりギターばっか弾いてると親に文句言われるんだろ? そんな状況でバンドとか出来るのか?」


「それは……なんとかなるよ! 一人で練習する分には家じゃなくたってできるし、バンド練習ならどっちみちスタジオとかになるからお母さんの目にはつかないし!」


 無鉄砲な考えを自信満々に言い放つ。


「そうは言っても、気まぐれで始めて続くものでもないだろうし」


「気まぐれじゃないよ! ずっと前からバンド組んでみたいって思ってたんだよ。周りに楽器やってる人がいなくて叶ってなかっただけでさ」


 僕がいくら提言しても、間髪入れずに猛然と答えが返ってくる。両手で強く握り拳を作り腰元で上下に振るその姿は駄々をこねる幼児のようだった。


「……俺じゃなくてもいいだろ」と、なおも僕は自嘲気味に拒否の意を示す。


「石川ぐらいの演奏技術があるならもっと上手い人たちと組むべきだって」


 それが、石川とのバンド結成を承諾しかねる何よりの理由だった。


 たしかに、僕もギターを手にする以前から、バンドを組んでみたいという思いは持っていた。僕でなくても、何かしらの楽器を演奏する人間なら誰しも一度は他楽器とのセッション、詰まる所バンドサウンドというものに憧れを持つのではないだろうか。


 しかしまだギターを始めて間もない僕の拙劣な技術では、彼女のそれに見合わない。きっと求めるレベルには到底及ばず、大きな迷惑をかけてしまうだろう。そんな肩身が狭い環境でギターを演奏するのは躊躇われる。


「だから他の人を探せよ。ライブハウスとかスタジオに行ったらメンバー募集があったり、逆に募集したりもできるだろ?」


 せっかくの誘いを断ることに若干の申し訳なさを覚え、彼女の顔から目を背けるようにして続ける。


「それにそんな急がなくてもいいだろ。今は親からの文句があるなら大学進学した後とか、就職した後とか。無理に今じゃなくても――」


「今じゃないと、駄目なんだよ」


 その瞬間、辺りの空気が張り詰めたように感じた。一瞬にして空気中の水分が全て凍ってしまったのではないかと錯覚する。僕の言葉を遮るようにして石川が放った声からは朗らかな色が一切消え失せ、冷ややかな質感だけが残っていた。


 突然に訪れた空気の変化にギョッとして、僕は弾かれるように彼女の顔へ目を向ける。


 そこには、先ほどまでの柔らかな表情は鳴りを潜め、声色をそのまま映し出したように真剣な面持ちがあった。怒っているわけではなく、悲しんでいるわけでもない。ただ懸命に何かを追い求めるような、何かに必死にしがみつくような、毅然とした彼女の姿が。


「…………ね、だからお願い! 一緒にバンド組も!」


 しかし次の瞬間には、石川は一変して表情を崩し、軽やかな声を発する。


 ――果たして、数瞬の間彼女の身を包んだ空気感は何だったのだろうか。


 今という時間に強い拘りを見せたのはなぜだったのだろうか。高校卒業後に、何か道筋の決められた人生が待ち構えている境遇とでもいうのか。


 そんな思案を巡らせながらも、視線は彼女の両目を捉えたままだった。鈴を張ったようなその瞳が燦然と煌めき、こちらを見つめている。もはや断られることなど想像していないように、強かな期待だけがそこには湛えられていた。


 僕はその佳麗な輝きから逃れることができず、小さくため息を吐く。覚悟というほど立派なものではないが、同級生のわがままに付き合うために腹を決めたのだ。


「……分かったよ。バンド、組んでもいいよ」


 根負けする形で、僕は石川の申し出を承諾した。最後は若干気圧された部分もあったが。


「本当!? やったあ! ありがとう!」


 彼女は喜びを炸裂させるように声を華やがせ、両手を勢いよく振り上げた。西日に照らされた満面には鮮烈な笑みを浮かべている。


「言っとくけど本当に下手くそだからな。間違いなく足手まといになるぞ」


「大丈夫。手こずるところがあればすぐに私がレクチャーするよ!」


 そんな弾むような語勢からは、バンド結成という結果だけに浮かれて、その先の苦労などまるで考えていないような屈託の無さが窺える。


「……でも、本当に何でこのタイミングなんだよ?」と、僕は改めて問う。


「何か理由があるだろ。わざわざ今バンドを組もうとした」


『物事を始める理由なんて漠然』、『周りに楽器をやっている人がいなかった』。それらの言葉はきっと嘘だと感じた。石川自身は謙遜するが、彼女のギターの演奏技術は十分。そして無理やりにでも僕を引き込もうとするその無茶苦茶な奔放さ。そんな彼女が本気でバンドを組もうとすれば、これまでだってきっと機会はあった筈だ。


 なにより数瞬だけ見せた、鬼気迫るような『今』への固執。それが、このタイミングでのバンド結成を強く望む明確な理由を持っている、ということを物語っているように思えた。


「私がバンドを組もうとした理由……」


 石川はそう呟き、返答に窮するような素振りを見せた。僅かに俯いて考え込むその姿は、大人に悪事を追及され言い訳を探し出す子供を彷彿とさせる。


 しばしの沈黙と、桜の香りを孕んだ風が僕たちの間を流れていく。柔らかそうな質感で垂れる彼女の横髪が揺らされる。


「……いや、特に理由が無いならいいんだけど」


 思いの外、答えが返ってこないことに戸惑い、僕は口を開く。


「……ううん」


 しかし、石川はしっかりと首を横に振った。


「あるよ、私がバンドを組もうとした理由」


 そう言いながらゆっくりと顔を上げ、口元の形を変える。


 その表情には、楽しげな感情だけでなく、どこか哀愁のような情調も共に漂っていた。


 まるで出会いと別れが共存する、春という季節を映したような笑顔だと思った。


「私がバンドを組む理由はね――」


 そして彼女は、陽光の輝きで満ちた右手に挟むピックで、昂然と僕を差した。


「私の生きた証を残すためだよ」

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