第3話





 昼過ぎにひとしきり部屋の中を駆け回り、毛繕いに精を出した後、ライラはまたお昼寝した。そして再び目を覚ましたのは、陽が沈んだ頃である。

 耳をひとつ動かしてから、にゅっと首を伸ばす。ぱっちり開いた目でリビングを見渡して、ソファから降り立つ。前足を伸ばし、背を提げて思い切り背伸びする。

 身体を震わせてから、軽やかな足取りで玄関の方へ向かう。

 その直後に、玄関の鍵が開いた。ドアが開いた先に立っていたのは、私ではなく大家さんである。

 恰幅の良い朗らかな女性だが、今は神妙な表情をしている。


「あらライラちゃん、お留守番えらかったね。ごめんなさいね、勝手に入っちゃって」


 大家さんは玄関先でしゃがみ込み、ライラに目線を合わせながら笑いかける。けれどライラは少し警戒したような様子で、棒立ちのまま大家さんをじっと見つめている。大家さんが手を伸ばすと、ライラは恐る恐るといった様子で鼻先を近づけた。


「まずはお腹すいたよね。ご飯食べたいわよね。ちょっと待っていてね、おばちゃんが用意しちゃうから……篠垣さん、お邪魔しますよ……っと」


 はいどうぞ、大したおもてなしも出来ませんで、と思わず反射的に言おうとしたが、やはり声は出ない。代わりに大家さんが廊下の電気を点ける時の、パチンという音だけが静けさに響く。

 大家さんの来訪に少しばかり驚いたけれど、ライラを気にかけてくれる方が居て良かった。身体があれば、胸をなでおろしていたに違いない。お陰様で、ライラがずっとひもじい思いをせずに済んだのだから。本当にありがとうございます、大家さん。


「篠垣さん、ライラちゃんのご飯はどこ仕舞ってるのかしら。ねえライラちゃん、どこにあるか分かる?」


 ライラはキッチンの周りを探し始めた大家さんに対して、遠巻きから視線を送っている。


「って、言われたって分かんないわよねえ」


 大家さんは構わず、お茶目にライラへと笑いかける。


「あった、この瓶ね。篠垣さん丁寧ね。ちゃんとライラちゃんのご飯を袋から瓶に移し替えているのね」


 瓶の中から音が聞こえ、ようやくライラは大家さんの方へとゆっくり近づいて行った。何か釈然としない風に、大家さんがカリカリを皿に載せる様子を観察している。


「はい、お待たせ。さ、お食べ」


 ライラはカリカリを食べている間、何度かふいに大家さんの方を見上げ、それからまた皿に向かってと繰り返していた。大家さんは近くに座り込み、そんなライラを見守っている。

 ライラが振り向くたび、大家さんは「うん、どうしたの?」と笑いかける。


「よく食べたねえ。おいしかった? お腹いっぱいだね」


 大家さんは夕食後のグルーミングが終わるのを待ってから、ライラに向き直った。ライラは座りが悪い様子で、まだ部屋の中を見渡している。まるで私の姿が無い事を気にしているように思えた。

 大家さんは落ち着かないライラの、前足の付け根を持ち上げて、視線を合わせた。

 この部屋の玄関を開けた時と同じ、沈んだ面持ちである。


「さて。ライラちゃんに大事なお話があります」


 更に戸惑っている様子のライラは、微動だにせず大家さんと向き合っている。

 大家さんは、しばらく沈黙していた後に、重々しく口を開く。


「……篠垣さんは、ライラちゃんのお父さんはね、とても、とても遠いところに行かなくちゃいけなくなったの。お空に架かる、虹色の橋の先よ」


 大家さんの声は、少し震えていた。猫であるライラに伝わるかは分からないけれど、私の家族として丁寧に言葉を選んでいるのが分かる。

 当然ながらライラは返事をしない。

 ただ大家さんから目を逸らさず、手からすり抜けて逃げ出すこともしなかった。


「今後ライラちゃんがどうなるかは、ごめんね、まだ決められていないの。ライラちゃんが嫌じゃなければ、本当は私のおうちに来て欲しいけれど……娘の旦那さんが、動物アレルギー持ちでね……ちょっと難しいの、ごめんね」


 大家さんが謝ることはないのに。

 釈明するように言葉を紡ぐものだから、どうか謝らないで、と言いたくなってしまう。


「しばらくはこうしてご飯とお水とか……おトイレも手入れしなくちゃね。ちゃんと私が通うからね」


 ライラより先に、大家さんの方が視線を下へ落とした。ライラを抱き寄せて膝の上に載せ、優しい手付きで、毛並みに沿ってその背中を撫で始める。


「……寂しくなっちゃうねえ」


 一言ぽつりと零す大家さんの声には、既に鼻をすする音が混じっていた。

 ライラは大家さんの顔を不思議そうに見上げながら、身を預けている。まるで死という概念に覚えのない、無邪気な子供そのものの姿だった。私には、まだ今日この後に私が帰ってくる事を信じて、疑いもしていないように映る。

 このライラを残して、本当に先に逝ってしまったのか、私は。

 それとも悪い夢を見ているだけだろうか。そうだ……どうか夢であってくれ。


「それじゃあね、ライラちゃん。エアコンは付けておくからね。ちゃんと寒くないようにするのよ。また明日の朝も来るからね」


 心から、これが夢であることを願う。

 しかし大家さんが去った後、電気を消した暗い部屋で、玄関に向かって座ったまま動かないライラの背中を見ていた。

 それから闇の帳に、ライラの小さい身体から出ているとは思えない、大きな鳴き声が響く。最初のひと鳴きを皮切りに、それは何度も何度も、せきを切って溢れ出したように続いた。

 ライラの姿を見ている間にずっと私を苛む、引き裂かれるような思いは、これが夢ではなく現実である事を如実に伝えてくる。


 どうか、触れさせて欲しい。ライラさん、といつものように名前を呼ばせて欲しい。私の顔を見て欲しい。駆け寄ってきて欲しい。鼓動の音を聞かせて欲しい。そんな悲しい声で叫ばせて本当にごめんなさい。

 私がここに居るという事をすぐに伝えたい。

 それでもライラはここに居る私へと背を向けたまま鳴いている。

 私には伸ばす手も無い。彼女の名前を呼ぶ口も無い。

 私が帰ってくる時の足音は、もう永遠に聞かせてあげられない。

 ライラがひとつ鳴くたびに、まだ現実味がなかったそれらの事実も、明確な輪郭を帯びてゆく。

 そして巨大な虚の中に立たされているような感覚と共に、ライラの声だけが響く、残酷なほどに静かな夜は更けていった。

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