第4話
猫を飼い始めてから理解した事が幾つかある。その内のひとつが、猫は私たち人間が思っているよりも遥かに賢いという事だ。
だからこそ猫が窓辺から空をじっと見つめている時にも、私はその瞳の奥へと吸い込まれる。そして蛍が舞う様な黄緑色や、線香花火が散る様な橙や、浜辺の海を掬い上げた様に冷えびえとした青などの、星々が舞い散る宇宙のいちばん奥で漂っている心地になるのだ。
何を考えているか分からないけれど、猫が凛として佇んでいる面持ちは、眺めている私達を惹き込んでやまない。
君は何を見ているのだろう。君は何を考えているのだろう。君はどんな思いを馳せているのだろう。君は何に惹かれているのだろう。
そうして今日もライラは、しばしば遠くから踏切が鳴るだけの、張り詰めた様な寒さが覆う空をただただ見上げている。線路がごうごうと唸る音も通り過ぎてしまえば、後は寂寥とした薄暗さが部屋に残るだけだ。
今日で私が死んでから4日目になる。幸いにしてその間ライラが飢える事は無かった。大家さんは朝、昼、夕方に一度ずつ訪れる。まずトイレの砂を取り替え、カリカリをあげてから、部屋に軽く掃除機をかける。それから30分から1時間くらいライラを見守り、時には膝の上へと載せて、少し荒れ始めた毛並みを柔らかく撫でるのであった。
けれど夕方になって大家さんが帰ると、やはりライラはひとりでなきはじめる。
大家さんが言うに私を轢いた犯人は捕まったらしいが、それは想像していた以上に何の慰めにもならなかった。私にとっても、きっとライラにとってもそうだろう。
猫は私たち人間が思っているよりも遥かに賢い。私にはライラが、私が死んでしまった事を理解しているように映った。それでもなお彼女は、昼間には窓辺から蒼穹を仰ぎ、夜には悲鳴のような叫びを上げ続ける。
今まで幾度か、部屋に帰ると花瓶が倒されていたり、無残に横たわったティッシュとちり紙の花吹雪が床へ散乱していたりなどという事もあったが、この4日間はそんな様子もない。
彼女が誇りに思っている、キジトラ模様の毛並みも、すっかりと手入れが疎かになっている。私は私が仕事に行っていた間のライラを知らない。ただどうしようもなく茫漠としている姿は、今までもそうだったとはとても思えない。
まるで表情のように雄弁な彼女の白いヒゲは、ずっと毛先が下を向いたままだ。
君は何を見ているのだろう。君は何を考えているのだろう。君はどんな思いをはせているのだろう。君は何に惹かれているのだろう。
今まではそれらも分からない事さえ心地良かったのに、今はそれらが分かってしまう事に、ちょうど手摺りを掴もうとした指先がすり抜けるような欠落感を抱いてしまう。
次第に、私のことを忘れ去ってくれまいかという願いばかりが巡るようになっていく。
時間が巻き戻って欲しいという願望は、もう食傷するほどに繰り返したので枯れている。
私はもう居ないから、どうか私を忘れて、健やかに幸せに生きてほしいんだ。
ほんのそれさえ伝える事が出来ないので、ライラが鳴き疲れて眠った真夜中に、私は夜より深く暗い色の感情にひたすら溺れていた。
◆
そもそも、ライラの新たな引き取り手も決まってすらいない。
大家さんだって自分の生活があるから、いつまでもこうしてはいられないだろう。なのに、後は自分のいない場所で幸せに生きてくれというのは、あまりに無責任で身勝手かも知れないと思った。
そんな折だ。私が死んでから5日目の今日になって、予想だにしていない新たな訪問者が、部屋の玄関先へと現れた。
「さあさ、どうぞお上がりになって……と言っても私の部屋じゃないわね、あらやだ」
「いや、そんな……お邪魔します。よいしょ……っと」
たった一度きり会っただけの人だけれど、すぐに私は思い出した。
土曜日の夕方に、大家さんに招かれるがまま部屋へと上がったのは、私と同じ年頃か少し上くらいの女性である。
忘れもしない。私に当時まだ生まれたばかりのライラを譲った女性だ。早瀬さんという。
ライラは5日前に増して戸惑った様子で、覚束ない足取りで後ずさりをしつつ、怪訝な視線を女性へと送る。あまり見慣れない人間が増えたのだから無理もない。すっとリビングの片隅へ逃げ込むと、そこで縮こまり様子を伺うように固まる。
「あら。ライラちゃんったら……怖がらなくて大丈夫よ、ほら、お姉さんのこと覚えてない?」
「あはは……さすがに覚えていないと思います。ライラちゃん、素敵な名前をもらったんだね」
大家さんも早瀬さんも、無理にライラの方へと距離を詰める事はしなかった。少し離れた所でライラを見守ったまま、テーブルを挟んでカーペットに腰を下ろしている。
「ライラちゃんもこの一週間ですっかりやつれて……毛並みもちょっと荒れてきちゃったわね」
「無理もありませんね……。最初にライラちゃんを引き取ってもらったきり、お会いできませんでしたけれど……とても丁寧な方でした。きっとライラちゃんを大事にしていらしたんだろうなと思います」
「そうなのよ。会うたびいつも、あのはにかんだような笑い方でね、ライラちゃんの話が飛び出してくるのよ。聞いているこっちもなんだかね、もう温かくなっちゃって」
聞いていながら、少しだけ気恥ずかしくなる。割と自分で思っていたよりも、大家さんにもライラの話をしていたらしい。
話は途切れて、少しの間エアコンから空気を送り出す音だけが流れる。
それから大家さんと早瀬さんは同じようにライラへと正座のまま向き直って、本題を告げる。
「ライラちゃん、驚かないでね。といっても難しいかも知れないし……ちょっとまだ受け入れにくいかも知れないけれどね」
大家さんはそこで言葉を区切った。それから続きを切り出しにくそうにしているのを察してなのか、代わりに早瀬さんが息を吸ってから、口を開く。
「ライラちゃん。良かったら……私がまた、ライラちゃんを私の家に連れて行ってもいいかな」
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