第2話
意識がハッキリとしない。寝て起きたばかりだからだろうか。
そう言えば昨日は何時に寝ただろう。お酒を飲んでいた様な覚えもないから、ひょっとして疲れが溜まっていたのかも知れない。
いけない、まずは早く帰らないと。ライラが待っている。きっと、お腹を空かせている。可哀想な事をしてしまった。早く帰って、今日のご飯の後には、ちゅ~るもあげよう。ごめんね、と、ちゃんと謝りながら。
真っ暗な闇の中を進む。ただ漠然と、柔らかな光が差す方向を目指した。
どれほどの時間が経ったかは分からない。光の中へ足を踏み入れた先は築30年にもなる、ペット可の私が住むアパートだ。
てっきり夜だと思っていたら、窓の外からリビングへと陽が降り注いでいる。ライラは白いソファの真ん中で丸まって、よく眠っているようだった。
ただいま、帰ったよ。遅くなってごめんね、ライラさん。
そう声をかけて触れようとした。
ライラは耳を動かし、まだ眠たげに目を細めながら、右と左を一度だけ眺めて、ふたたび眠ろうとして丸くなる。そして私の声は出なかったし、彼女を撫でようにも手が無かった。
手だけでなく、足も、お腹も、何も私には無い。
ああ、そうか、そうだった。遅まきながら、やっと思い出す。
私は車に轢かれて死んだのか。
ごめんね、ライラさん。マグロを買って来てあげられなかったね。これじゃあなでなでしてあげることも、ご飯もあげられないね。ごめんね、ライラさん。
私はライラの他に家族が居ない。父と母は早くに病で他界してしまったし、他の親戚にも心当たりがない。恥ずかしい話ながら三十代なのに、お付き合いしている女性なども居ない。
私が居なくなったら、誰がライラのご飯やトイレの世話をするのか。考えるだに底冷えする様な、暗く黒いものが去来した。
けれど私の漠然とした不安をよそに、ライラは呼吸のたびに身体を膨らませたり、縮めたりしながら、無邪気に眠っている。
その寝顔を眺めている間に、自然と想起したのは、彼女が我が家へ来た時の事だ。
◆
当時の私は仕事を辞めたばかりだった。
忙しさ、慢性的な疲労、立て続けに起きた身内の不幸など、心当たりは沢山ある。うつ病を始めとした精神疾患により、ある朝とうとう自力で立つことすらもままならなくなった。
心療内科より処方された薬を飲み、ただ呆然と時間が過ぎるのを待っていた。ぼんやりと横になったまま、スマホの画面を眺めるか、カーテンの間から覗く青空を見上げているかの生活である。生きて活する、という言葉を戴く事すら烏滸がましいだろう。
このまま私が住まう岩館荘の片隅で、きっと身を丸め縮こまったまま死んでゆくのかも知れない。そんな想像を受け入れてしまう程に、活力も何も無かった。
猫を飼ってみよう、と思い立ったのは、単なる幾つかの小さな偶然が発端だ。
前々から、なんとなく猫が好きだった。飼っていた事こそ実家でも無いが、故郷の野良猫を部活の帰りしなに撫でてやるのは楽しみだったし、仕事の休憩時間にも、SNSで流れてくる猫の画像を眺める事を癒しにしていた。
ものを整理する気力も失くしていた私の部屋は、ペットを飼うどころでは無いほどに悲惨な有様である。ただ幸いにも多少の蓄えはあった(遣う暇もなかった)ので業者さんを呼び、何もかも捨ててもらう事にした。
生活するに最低限足る家具と、必需品を残して。
新卒の当時を思い起こさせるくらい閑散とした私の部屋は、新たな一歩へと踏み出す決意を後押しした。
今のご時勢は、ペットの里親募集で溢れ返っている。きっと経済的な理由が大きいのだろう。ペットに避妊手術を受けさせるにも、倫理的な抵抗感はあるだろう。
人間の身勝手で、無垢な生命にメスを入れて良いのか。それとも無責任に管理しきれない命を増やす方が悪なのか。
その議論に明快な答えを打ち出せる程、私は聡明ではない。ただ事実として、私は生まれて間もない子猫を引き取ることにした。
里親を募集していたのは、当時の私と同い年か少し年上のご婦人だ。それきり連絡を取ってはいないが、物腰が柔らかで丁寧な人だった。
私は兄弟のうちいちばん末っ子の、女の子の子猫を引き取ることにした。ここに歴然とした理由は無い。ただ4匹いた子猫のうち、たまたまキジトラ模様の彼女と目が合って、その瞬間に自然と「この子にしよう」と思い立ったのだ。
ペットを運ぶためのキャリーケースを片手に提げたまま、私は「とんでもない事を決意してしまった」と早くも途方に暮れていた。
命を預かるという事は経験がない。けれど言葉で言うほど簡単でもないとは考えていた。
とりあえずは猫用の食器やトイレと、ケージもそうだし、まず思い当たる限りは全てのものを買い揃えないといけない。けれどいつまでも彼女をキャリーケースの中でぶらぶらさせる訳にも行かないので、まず子猫を自宅に置いてから、必需品を買いに出かけようと考えた。
部屋へ着くなり、私は子猫を部屋に放した。まだひとりで立ち上がるにも震えているくらいの子猫だ。部屋までの道中はそれなりに時間もあったので、お腹が空いているかもしれない、と思い立つ。
里親を募集していた婦人から、ご厚意でミルクの粉と哺乳瓶も受け取っていた。粉を入れた瓶にポットでお湯を半分ほど注ぎ、それから冷水を混ぜる。瓶をよく振って、子猫が口の中をやけどしない様に冷ます。
ご婦人がやっていた事の、不格好な見よう見まねだ。手のひら程もない小さな背中をできるだけ優しく抱えつつ、子猫の口元へ哺乳瓶の吸い口を当てる。子猫はしばらく口で空を噛んでいたが、すぐに私なんかよりもずっと上手に、ミルクを嚥下し始めた。
心の中に、ソファへ深く座り込んだ時の様な安堵感がじわりと染みる。
ミルクをひとしきり飲み終えた後、あぐらをかいている私の太ももの上で、子猫は前足を交互に押し付け始めた。子猫が親猫に甘える時よく見せる仕草らしい。
ずっと同じ体勢でいるのが少しばかり辛かったので、子猫を載せたまま仰向けになる。
すると彼女はお腹の方へ乗ってきて、やはり私をこねながら喉を鳴らす。
私はたまらず、その小さな生命が愛おしくなり、伸ばした手のひらでゆっくり背中を撫でた。しばらく子猫は一心不乱に甘えていたが、やがて満腹になったからか眠気が襲ってきたらしい。
前足の動きはゆっくりと止み、喉を鳴らす音の代わりに寝息が聞こえ始めた。
子猫の寝息を聞き届けて、改めて天井へ目線をやった私のこめかみへ、滴が落ちる。全くの無意識だった。涙が出るのは何年来だろうか。仕事で精神をやられていたときも、退職する時も、幾度の冷たい夜も、ついぞ泣けはしなかったのに。
胸の奥がきゅうと強く締め付けられる感覚と共に、それはとめどなく溢れた。
どうか寝息を立てるこの小さな生命を、起こさないようにと、頑張って嗚咽を噛み殺した。
それから3日間、さんざ悩み抜いた末、彼女をライラと名付けることに決めた。
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