第3話 ろぐあうと


 ゴールデンオムライスなどという、ほっぺたが溶けるかと思うほどに美味しかった料理を食べてから約十分。

 満腹になった膨れたお腹を両手で押さえて「ふうううぅ」と息を吐く。


 美味しかった。本当に美味しかった。感想が美味しかったしか言えない。

 こんな料理ケリオスさんに出会わなかったら、きっと一生食べられなかったんだろうなあ。


「それじゃあ、俺はそろそろログアウトしますね」


「ろぐ……あうと……?」


 案の定分からない。もう慣れちゃった。

 ケリオスさんはまた先程と同じように「ステータス」と呟いて、あの青いけど透けている謎の板を空中に出現させる。そして慣れた手つきで板に触れ――動きが止まった。


「あれ……? ログアウトボタンが……なんだ、バグか?」


「どうかしたんですか?」


「あーいえ、それがログアウトボタンが見つからなくて。バニアさんの方の画面はどうですか? ありますか?」


 マズい。よく分からないことを訊かれている。

 当然だけど〈ろぐあうと〉という言葉は知らない。もう観念して素直に教えてもらおう。このまま理解出来ていない状態で話なんか出来やしないし、誤魔化すのも限界がきそう。


「あの、ろぐあうとって何ですか?」


「え? ログアウトを、知らない?」


 信じられないというような目をケリオスさんは向けてくる。でも何か思い当たったのか納得するように何度か頷く。


「NPC。イベントだったのか紛らわしいな。それじゃあ話しても分からないよね。要するに俺は今から帰るんだよ」


「もう帰っちゃうんですか。寂しいです」


「悪いね。俺も永遠にプレイしているわけにはいかないからさ。帰らなきゃいけない場所があるんだよ」


 それはそうだよね。帰らなきゃいけない場所は誰にだってあるはずだもん。私にとってのこの家みたいに。


「……ない。どうなってる? どこにもない」


 謎の板を指で弄り続けているケリオスさんの顔が、段々と、段々と、どうしようもない焦りを表していく。


「……ない、ないないない! え? じゃあどうなるんだ? ログアウト出来ないってことは……つまり、帰れない?」


 絵本に出てくるような創作の人物という印象が変わる。少し前までケリオスさんが王子様みたいだと思っていたけど、今はそんなカッコよさを感じない。

 ああ、今気付いた。目の前にいるのは理想を体現した完璧な存在なんかじゃなくて、同じ世界に生きていて、同じ血が流れるヒューマンなんだ。


「嘘だろ? ヘルプにもこんなのなかったし、設定だって変えてないし……なんだよ、なんなんだよ。バグだとしてもこんなのあんまりだろ。これからどうすればいいんだよ……!」


「ケリオスさん! 少し落ち着いて――」


「うるさい黙れ!」


 思わず「ひっ」という声が出た。

 さっきまでの丁寧な言葉遣いが嘘みたい。……だけど、それだけ冷静でいられないっていうのが分かる。


 正直に言っちゃうと私は何も状況を分かっていない。たぶん〈ろぐあうと〉っていうのが出来ないから焦ってるんだろうけど、それでどんな問題があるのか知らない。


 それでも、取り乱しているケリオスさんを放っておくなんて……。

 恩人が困ってる時に何もしないなんて、嫌だ。


「落ち着いて……ください……」


 近かったケリオスさんの左手を両手で包む。

 肌を触れさせたのがよかったのか、彼は狼狽えて私を見てくる。

 焦りだしてから初めて私を見てくれた。それが嬉しくて軽く微笑む。


「あっ、温かい……体温がある……。でも、NPCには体温なんて……生きてなんて……でもこれは……」


 何かに驚いた彼は目を丸くする。

 そして俯いたと思えば「……ごめん」と短く謝った。


「バニア、まだ俺も状況を理解出来てないんだ。理解したくないと言ってもいい。まだ焦りは無くならないんだけど、それでも多少落ち着けたよ」


「えへへ、良かったです。何があったのか聞いてもいいですか? 話すだけでも気分が楽になると思いますよ」


 名残惜しいので手は離さない。

 柔らかく笑った私を前にしたケリオスさんは、もう王子様みたいな雰囲気に戻りつつある。


 彼は「ああ、そうだね」と呟いて、右手を額に当てて目を逸らしながら語りだした。私が聞き慣れない難しい言葉を使わなかったのは優しさだったのかもしれない。


 端的に言うと帰れなくなったらしい。

 帰るべき場所があるとつい先程言っていた彼の表情は、それを言葉にしている時が一番辛そうだった。

 故郷に帰る手段を失くし、待っている家族の元にも行けない。どれほどショックだったのかなんて顔を見れば一目瞭然だ。


 私が同じ境遇になったらきっと泣きじゃくるのに強い人だ。……なんて思っていたら微かに涙が垂れてきていた。静かに泣く姿を見ていると私も泣きたくなる。


「……うん、ほんの少し心に余裕が出来た気がするよ。バニア、聞いてくれて……ありがとう」


 語り終えたケリオスさんは真っ直ぐに私を見てそう告げた。


「これからどうするんですか? もし行く当てがないなら泊まっていってください。ベッドなら一台余ってるので大丈夫です」


 ママが使っていたベッドがあるし、他にも使っていた皿や道具があるから問題ない。久し振りに人肌の温もりを感じながら寝たいけど我が儘だから言わないでおこう。


「いいのか? でも迷惑を掛けるわけには」


「いいんです、迷惑なんかじゃありませんから。私、最近は一人だったから、むしろ泊まっていってくれると……嬉しい、です」


「……そうか。じゃあ、お言葉に甘えさせてもらうよ」


 こうしてケリオスさんは私の家に泊まることになりました。

 理想の王子様みたいと思っていたけれど、彼は私と同じ一人のヒューマン。少なからず弱さがあるのだと私は気付いたのです。

 精神が弱った彼を支えたいと心から思いました。

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