第5.5話 消えたのか、混ざったのか


 オーブンの中に入れた土鍋が熱を溜めていく。

 珍しく自炊している神奈は、四方八方に跳ねている黒髪を弄んで土鍋の中身が焼けるのを待つ。


「神奈さん神奈さん、今日のご飯は何ですか?」


 右手首にある白黒の腕輪が神奈に問いかける。


「お前食べられないのに気になるんだな。じゃあクイズでもするか、私が今、何を作っているのか」


「あ、そういうのいいんで早く教えてください」


「人がせっかくお前のノリに合わせてやったのに! お前こういうの好きだろ絶対! 不必要な時にはテンション高いくせにさあ……」


 まだ短い付き合いだが神奈は腕輪の性格を把握している。

 冷静な時は冷静。知識も豊富で、家事も念力でこなせる。ふざける割合が多いのが玉に瑕。そんな腕輪の性格に合わせたというのに、素っ気ない反応をされて神奈は微妙に傷付いた。


「はぁ、この料理はギュベチだよ。仮にも万能を自負するなら知ってるだろ」


「確かトルコやブルガリアなどの場所で食べられる料理ですね。焼いた肉と野菜のシチュー。でもどうして海外の料理を? お洒落な感じの海外料理なんて興味ないでしょうに」


「失礼だな、私だってお洒落っぽい海外料理くらい知ってるさ。例えば……例えば、そうだな……えっと、例えば……ピッツァとか」


 考えても海外料理の名前が何も出てこなかった。誰でも知っている料理を挙げたものの、もう少し他に何かなかったのかと神奈は自分につっこむ。


「何を言うかと思えばピザですか、今時は幼稚園児でも知ってそうですね。ちょっと発音よくしたからって誤魔化せませんよ」


「うるせー」


「で、何でギュベチを作るんですか? 笑里さんと一緒に食べて仲を深めるためとか?」


 今日は休日。昼食を食べたら笑里と公園で合流する予定だが、今から捜して呼んでいたらその間に料理が冷めてしまう。


「それもいいけど。……思い出の料理なんだよ、これ。日本人なのに父さんが一番作ってくれた料理がこれなんだ」


 神奈は若干寂しげな笑みを浮かべて呟く。


「ほうほう、良い思い出のようですね。そういえばまだ神奈さんからご両親のお話を聞いていませんでした。亡くなっているんでしたっけ」


「だな、まあ私が知ってるのは父さんだけだ。母さんの方はよく分からない。聞きたいなら聞かせてもいいけど……あんま大した話じゃないぞ、よくある日常の積み重ねだし」


 面白みがないと思ったのか腕輪が「えー」とがっかりした声を上げる。しかし普通に過ごしていて面白い出来事などあまりないだろう。


「いい感じの話はないんですか?」


「……じゃあ、初めて父さんと会った時の話でもするか」


 強いて話すならそれくらいだろう。

 それ、と言えるくらいに神奈の中で記憶が強烈に焼き付いている。一生忘れることがないくらいに。


「よし来たあ! コーラとポップコーンの用意はお願いします!」


「ここは映画館じゃないからありません。さて、話すとすれば……最初からか」


 そうして神奈は過去を語りだす。

 転生直後、正確には記憶を取り戻した直後の話を。



 *



 とある子供が部屋の中を歩き、扉を開けようと手を伸ばす。

 身長的にドアノブに手が届かないので背伸びする。精一杯伸ばしてドアノブをやっと掴み、下へと動かした瞬間。――ガチャッと、鍵が開けられたような音が脳内に響く。


「……あれ、俺……何、やってんだ?」


 音が響いた時、子供に記憶が流れ込んで来た。

 いや、元からあって封じられていたものが溢れたのか。先程の音といい、まるで宝箱を開けて中身を取り出したようだ。


「俺……私……お、れ。確か、俺は」


 ドアノブを放してだらんと手を下げる。

 子供は全てを思い出した。

 転生、輪廻転生。死んだはずの自分――かけるは神のような存在と出会い、魂を異世界へと飛ばしてもらった。憧れていた魔法を使うために転生して記憶を取り戻したのだ。


「そうか、本当に転生したのか……。ここでなら魔法が使える? いや、でもな……」


 明らかに子供の目線。視線を下に向ければあるのはまだ幼く柔い体。生前の記憶を取り戻した現状、ちゃんと転生したと判断して問題ないだろう。

 嬉しい、嬉しいが……問題が一つ。


「分からない……。俺は……誰だ?」


 ――記憶がないのだ。生前のものではなく、今世で今まで生きてきた記憶がない。


 まさか今いきなりこの姿で産まれたわけではないだろう。それなら部屋の扉を開けようとしていたことに説明がつかない。明らかについさっきまで翔と違う意思が存在していたはずだ。

 部屋を見渡してみると多くの玩具が転がっている。ベッド、机、クローゼットもあるここはおそらく子供部屋。……となれば、この部屋を用意した大人が家にいてもおかしくない。


 色々考えていた翔は「ん?」と声を上げる。

 いつもと、生前と体の感覚が違う。当然大人か子供かの違いはあるがそれとも違う。何かが消失しているような不思議さがある。


「気のせいか? 子供だから小さすぎて感覚がない……なんてこと、あるのか? まずいな、優先して確かめなきゃいけないか」


 思いきって履いていたズボンを下ろす。

 ズボンの下から現れたのは可愛らしいパンツ。それはそうだろう、もし履いていなかったら将来変態コースまっしぐらだ。履いているのは至って普通のことだ。――女ものでなければ。


「これは清楚な白パン。いや、まだ希望はある!」


 覚悟を決めて白い女性用パンツを一気に下ろす。

 膝辺りにまで下ろしてから、血走った目で自身の股間を凝視する。そこには見慣れたものが付いていなかった。あの棒が、男性である象徴が、どれだけ見てもありはしない。


「ないよ、アレないよっ!?」


 焦り、戸惑い、現実から逃避したくなる。

 単純に翔は生まれ変わったのだ。新たな世界に、新たな性別で。


「……はぁ、まあ、そういうことか。まさか童貞のままおさらばすることになるとは思わなかった。くっ、奴も生まれ変わっていればいいんだが」


 下半身を露出し続けるのはダメなので翔はパンツとズボンを履く。


「でもあれだな、意外とショックを受けないな。こういうのって鬱とかトラウマになるケースがあるはずだけど。記憶なくても今まで女として生きたからか? そういえばさっき一人称が私になりかけた。まさか、記憶がなくても心に刷り込まれてる? それ、本当に自分だって言えるのか? あーダメダメ分からん。小難しいことは今考えないようにしよう」


 性別は理解した。他に優先して知るべきことは名前、年齢、この世界がどういう場所か、自分がどういう立場かなど。色々ありすぎてどれから手をつければいいのか分からない。一つ選ぶとすれば名前だろうか。


「文明は前世とあんまり変わらないか、部屋に珍しいものないし」


 部屋を物色して翔は自分の正体のヒントを探した。

 窓から見えた景色が現代日本っぽかったので、そこまで文明は違わないと結論付ける。現代世界で魔法があるとすれば、魔法少女的なやつかもと翔は想像する。


 壁際にあった姿見を眺めてみれば幼女が映っていた。

 四方八方に跳ねた黒髪。まだ幼いから判断しづらいが整った顔立ち。白いパーカー、紺色のズボン。これが自分なのだと翔は自身に言い聞かせる。

 残念ながら名前の分かりそうなものはなかった。早めに知らなければ謎の幼女のままだ。


「とりあえず、魔法でも使ってみるか。もし部屋を出てモンスター現れたら困るし。戦闘力は確認しておかないと」


 文明が現代日本でも世界観は不明。

 もしかしたら外にモンスターがうろついているかもしれない。宇宙人が攻めてくるかもしれない。悪党が異常に多くて家の中に侵入しているかもしれない。


「魔法、楽しみだなあ。何が使えるんだろ」


 慎重に考えているように見えて実はこの子供、魔法が使いたいだけである。


「決めた! ファイアーボール!」


 辿く可愛らしい声が室内に響く。

 ――しかし、何も起こらなかった。

 想像通りの火球どころか火の粉すら出ない。


「……あ、あっれえ? いやいや、まだ子供だし未熟なだけかもしれないし! 魔力とかも感じてないし! そう、きっと修行とかしなきゃいけないんだって!」


「そもそも火なんか出したら火事になるよ」


「あ、それもそうだって誰!?」


 いつの間にか部屋の扉が開いており、黒髪で地味な容姿の青年が翔を見下ろしていた。


「誰って……僕は上谷かみやしゅう、父親の声を忘れないでよ神奈」


 優しい表情を浮かべている男、上谷周は父親だという。別におかしなことじゃない、まだ子供なのに親がいない方が珍しい。両親じゃなくても親戚だの親代わりだのはいるはずだ。


 周の口振りから神奈というのが名前だろう。

 周が父親なら、だ。翔は一人で魔法を練習するという現代では恥ずかしいシーンを見られたことになる。正直今にも身悶えしたくてたまらない。


「ご、ごめん父さん」


 そう言った瞬間、彼の目が細まった。

 すぐに戻ったので大したことではないかもしれないが。


「……神奈、ご飯が出来たから下へおいで」


「うん、今いくよ」


 部屋から周が離れて階段を下りる音がする。緊張から解放されて深いため息を吐き出す。

 一先ずは情報収集に徹した方がいい。とりあえず娘として周に接して、自分や世界のことについて常識を身につけていけばいい。


「……私は、どこへ行ったんだろう」


 前世の人格が前面に出ているのはいいことだ。しかし、それならついさっきまでの意思はどこへ消えたのか。まだ残っているのだろうか。

 転生した自覚はある。ただ気になるのだ。先程までの意思は翔自身のものなのか、それとも憑依して肉体を奪ったのか。もし後者なら自分は神奈という幼女を――。


「いやいや、今は考えるな。今は目先のことに集中!」


 嫌な思考を巡らす前に逃避する。

 今やるべきことは神奈という幼女の再現。一先ず一人称は「私」として、記憶を取り戻した事実を隠しながら生活しようと決めた。


 現在が朝か昼か、明るいのにまさかの夜かは知らないが、食事だと言われたので翔は部屋を出ていく。

 階段を下りると廊下、東西南北で扉が一つずつ。靴や傘立てがあるところは玄関だろう。さて、残る三つのうち周が待っている場所への正解は一つ。


「見た目すら知らない家だしな……。ご飯ってことはリビングか? どこがリビングだよ」


 階段に一番近い扉を開けてみると便器があった、トイレだ。次に近いものを開けてみると洗面所と風呂場。特殊な世界観でなければ常識的に考えて両方リビングではない。

 玄関はスルーして最後、扉を開ければかなり広めなリビングに出た。食卓にキッチン、ソファーにテレビ、窓からは縁側と芝生の庭が見える。


「来たね神奈。さあ、冷める前に食べよう」


 食卓の席に既に着いていた周が笑みを浮かべた。

 頷いた翔も反対側の席に腰を下ろし、土鍋の置かれた食卓を見つめる。席に着いたのを確認した周が土鍋の蓋を取ると湯気が一気に昇っていく。


「美味しそう。これ、何ていう料理?」


「外国の鍋料理でね、ギュベチだったかな。ネットで見つけて美味しそうだったから作ってみたんだよ」


 ギュベチは色々あるがこれはオーブンで焼いたシチュー。

 人参、じゃがいも、玉ねぎなどの野菜。豚、牛、鶏の肉。その他に様々な食材が入っている鍋からぶわっとハーブが香る。実に食欲を刺激する香りなので二人は勢いよく食べて、大きな鍋だったがすぐに食べ終わった。お腹が丸く膨れた翔は「ふぅー、満腹満腹」と呟く。


「……神奈、何かあったかい?」


 掛けられた言葉に目を見開く。


「べ、別に何もないよ。何か変だった!?」


「何もないならいいんだ、ちょっと気になっただけだから。でも何かあったら遠慮しないで言ってね。僕は神奈の父親なんだから」


 分かってしまう。上谷周は本当に娘を気に掛けているのだと。

 真相がどうであれ今の幼女は本当の神奈じゃない。周がこれまで共に過ごしてきた子供はいなくなってしまったのだ。転生でも憑依でも、もしかしたら今後に本物が表へ出て来る可能性だってある。だがそれでも意識を奪ってしまった事実だけは変わらない。

 罪悪感を抱いた翔は俯いてしまう。


「……ごめんなさい」


「何か悪いことをしちゃったの?」


 先程逃避した嫌な思考がまた戻って来る。

 自分が神奈という一人の人間を殺してしまったのではないか。悪気があったわけではないが、幼い子供の居場所を奪ってしまったのではないか。考えれば考えるほど顔色が悪くなる。


 最初は嬉しかった。

 魔法があるだろう世界へ生まれ変わったのだから。女になっても、魔法を失敗しても嬉しさは消えない。どうせなら、記憶を最初から持ったまま赤子に生まれたかったものだ。そうだったら何も気負うことなどなかったのに。


 全てを白状したかった。

 罪悪感から逃れるためにも、嫌な思考を破棄するためにも洗いざらい吐いてしまいたい。暴露すればきっと少しは楽になれるから。


 ただ、本当に話してしまっていいのか分からない。

 上谷周は良い父親だ。僅かな時間しか接していない翔にも分かる。だからこそ、子供の意識を奪い取ったかもなんて言いたくなかった。


 怒りか、憎悪か、悲しみか、話した時にどんな感情を向けられるかは分からない。翔としてはあまり彼を悲しませたくない。事実を口にしてしまえばショックを受けるのは確実だろう。


「……ううん……何でもない」


 悩んだ末、今日は真実を隠し通すと決めた。

 食事の後は何てことのない日常を過ごす。トイレや風呂は性別のせいで緊張したものの、魂に今までの人生が刻まれているようですぐ慣れた。性別確認のためにパンツを脱いだ時と一緒だ。多少の抵抗感はあるが女だということを受け入れられる。


 夜、布団に潜って一日を振り返る。

 自分が自分な気がしない困惑。

 神奈という幼女を殺したかもしれない罪悪感。

 魔法が存在する世界に来たわりに嬉しさよりそれらが強い。転生初日から厄介な事態になったなと嘆いた。



 ――それから三日。



 偽りの親子生活も三日続けば慣れるもの。

 一日過ごす度に上谷周という父親を知っていき、同時に罪悪感が増していく。親子っぽいフリは慣れても精神的苦痛には慣れない。


 三日間、真実を話すか話さないか考えない日はなかった。

 結局、本物の神奈の意識は表に出てこなかった。それが肉体を奪ったという思考を加速させて、根は良い人間の翔の心は限界を迎えようとしている。このまま今の生活を続けたとして長くは持たないだろう。


「父さん、大事な話があるの……」


 朝食のギュベチを食べ終わってから翔が話を切り出す。


「実は、私……神奈じゃ……ないんです」


「それはどういう意味だい?」


 言い訳染みてしまうが周のためでもある。

 この三日間、彼はやたらと心配そうな顔をしていた。疑惑の目を向けている時間も多い。バレるのも時間の問題だ。

 周が本気で娘と思って関わってくれる現状。本人じゃないと理解している翔は申し訳なく思う。そして彼を哀れにも思う。


 もう自分の子供が存在しない真実に気付かずに、ずっと子供じゃない赤の他人を心配して話しかけているのだ。いくら知らないとしても、これを哀れと呼ばずに何と呼ぶのか。

 これ以上、上谷周という優しい父親を道化にしたくなかった。


 ――だから全てを暴露した。


 前世では男だった転生者だということ。

 神奈という子供の体を意図せず乗っ取ってしまったこと。これについては確定ではないがあまり希望を持っていない。


 荒唐無稽こうとうむけいな話だったにもかかわらず、周は優しい表情のまま静聴してくれた。てっきり怒鳴られるか呆れられると思っていたので、彼の態度は翔にとって非常にありがたく、それでいて不気味にも感じた。


「……そうか、そうだったのか。彼の言葉の意味がようやく理解出来た」


 俯いてボソボソと呟いた後、周は再び顔を上げる。


「翔君、だったかな」


「……はい」


「気負う必要はないよ。この状況は別に君のせいじゃない。偶然に偶然が重なっただけ……。もちろん、僕が何も気にしていないわけじゃない。怒りも恨みもあるさ。……でも、君にぶつけたって何も変わらない。徒労に終わる」


「そうですね……。もう、神奈ちゃんは存在しないんだから」


「それは違うよ」


 唐突な否定に神奈は「え?」と目を丸くする。


「僕はね、神奈の魂もまだ残っていると思っている……いや、思いたいだけなんだろうね。でも君には少しくらい心当たりがあるんじゃないかな。性別の変化とか、案外あっさり受け入れているだろう?」


「確かに違和感はあまりなかった……かも」


「君と神奈は、混ぜられたのかもしれない。共に暮らした僕には分かる。癖、仕草、表情、全てとは言わないけど所々神奈のようだった。不思議だけど、君と融合してしまったんだと思う」


 殺したのとは違う。あくまでも魂同士が混ざっただけ。そう言われると心が軽くなった気がした。

 長い沈黙が降りる。

 色々話終えても気まずい雰囲気は無くならない。


「あの、俺、この家から出ていった方がいいですか?」


 耐えかねた翔が口を開く。

 沈黙を破った問いかけに対して、意味が分からないというような戸惑いを周が見せる。


「俺、神奈じゃないし……あなたの娘でもない。この家にいる資格なんて俺にはない」


「……大人に成長したらにしなさい。この家は自由に使っていい。今日から君は義理の子供、僕は義父だ。遠慮なんてしなくていい」


「でも――」


「ごちゃごちゃ言わないでいい、理由なんか探さなくていい。五歳の体で君に何が出来る? 前世がどうだったとか僕には関係ない。考えて出した結論、僕にとって今の君も神奈なんだ。翔君の人格が強く出てしまっているだけで、元の意識は確かに残っていると思う。それと家にいる資格? そんなもの、君は最初から持っているんだよ」


「……ですね。……お世話になります」


 若干笑みを浮かべて神奈は答える。

 正論だった。年齢は初耳だが、五歳なら一人で生きるには厳しすぎる。前世で山籠り経験がある翔でも死を覚悟した方がいい。

 優しさに漬け込むようで申し訳なく思いつつ、受け入れてくれることを嬉しく思う。


「そうだ、神奈、自分の名字は分かるかい?」


 前世のは分かって当然なので今世だろう。部屋を調べても手がかりが存在せず、周も名前でしか呼ばないだ未だに不明のままだ。


「……いえ、全く」


「丁度いい。僕の名字は上谷……上に谷と書いている。神奈、君はもう別人のようなものだ。名字を変えてしまおう」


「それ、いいんですか?」


「敬語は止めてほしいな、義理とはいえ親子なんだから。それはともかく名字だ。君の名字……。上を神という文字に変えて神谷神奈というのはどうかな。神の手で転生した君らしいだろう?」


 名字変更の提案は翔の心をさらに軽くした。

 自分も神奈だが、以前までの神奈とは違う。名字を変えてしまうことでやっと第二の人生が始まった気がした。もう慣れない幼女のフリなどしなくていいのだ。自分らしさを思いっきり出せる解放感がある。


「はい、じゃないか。うん……父さん、ありがとう。俺……今日から神谷神奈として生きるよ」


 それから再び偽りの親子生活がスタートした。

 いや、少なくとも翔……神奈はもう周を父親だと認めていた。義理ではなく今世での本当の父親として認識した。勝手かもしれないが本当の子供のように遠慮なく過ごしていく。

 平穏な日々は周が事故死するまで続いた。

 


 *



「と、まあこんな感じだ。父さんについては」


 虚空を見つめながら神奈は語り終える。

 父親の事故死。笑里の一件に協力する理由はその過去が類似していたからだ。

 未だに立ち直れない、転生者でもない只の年相応の少女。彼女を心配する父親。あんな二人を見たら心が動くのは必然だったのかもしれない。


「ちょっと重いですが……いいですね。コーラとポップコーンがないのは残念でしたけど」


「単独で映画館にでも行ってこい」


「ふむ、それは一先ず置いておいて……あの、鍋は大丈夫ですか? 焼きすぎなのでは?」


「あああああああ! すっかり忘れてたああ!」


 指摘されてギュベチを思い出した神奈は、慌ててオーブンから土鍋を取り出す。ガスコンロの上に移動させた土鍋の蓋を開けてみると、普通に予想出来たが炭のように黒くなっていた。


「うっわ見事に黒焦げ」


「えっと、作っていたのは何でしたっけ? 地獄の朝食でしたっけ、力作じゃないですか! 地獄の朝食として誰もが絶賛してくれますよ!」


「……実は我が家では決まりがあってな。腕輪から出汁をとって色々刺激を強めるんだ」


「絶対嘘でしょ!? 今までそんなこと一度もなかったじゃないですか!? ごめんなさいごめんなさいバカにしたことは謝りますから!」


 実際に炭のようなシチューへ突っ込むと腕輪が悲鳴を上げる。不思議と神奈は温度を感じず、全く熱による影響を受けない。


 冷静になった後で改めて黒焦げギュベチを見つめる。

 酷い出来だ。毒物と言われても納得しそうである。誰かに食べさせたら殺人罪になるに違いない。神奈は一人頷いた後で土鍋の中身を全て廃棄した。

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