第27話 新人研修その④ 現実が悪夢より優しいと思うなよ

 それは遠い在りし日の記憶。


 金色の草原を馬に跨り風のように掛ける戦士が独り、それは勇敢な戦士であり、ひとりの父親でもあった。


 父の前で共に跨り掛ける草原を大きな瞳で見つめる小さな娘には、それはまるで英雄叙事詩の一篇のような光景であった。

 

 いち氏族の戦士が国を渡り戦場を駆け抜け武功を上げ貴族となる前の記憶。


 今はもう遠い過去になった。思い出の記憶。


 長い冬が終わり、短い春の一颯が駆け抜け生命溢れる夏をもたらす。青々と茂る草原を乾いた風と共に馬で大地を駆ける幼いカーリーは後の父に顔を向ける。


 強い遮光の影で顔は見えないが、子供のように笑っている事はわかっていた。彼女が一番好きだった父の顔。そしてもう見る事のない顔。今の父はそんな顔を決して見せない。


「とう…さま…」


 その懐かしい故郷の風の中で、在りし日の父の顔を求めるかのように手を伸ばし触れる寸前で、息苦しさを感じると直ぐに視界が反転し引き戻されるように意識が覚醒する。



 瞼を開けたカーリーの目に飛び込んできたのは、自分の鼻を寝ぼけて甘噛みする親友エルザの顔だった。


 食べ物の夢でも見ているかのようにカーリーの鼻先を甘噛みするエルザの顔を眺めながら、徐々に昨晩の記憶が鮮明に蘇ってくる。


 酷い一日だった。裸にされ足を縛れて芋虫のように硬い地面を何時間も這わせらえれた。身体中が痛みで鳴き、喉が渇くと小便をかけられた。


 留まることなく記憶が鮮明に思い出される。何も食べる事ができないまま冷水を浴びせられ、拷問のようのうな酷い仕打ちを思い出すと身がすくみだした。


 いっそアレが夢であったらと思っていると、胸を圧迫する妙な息苦しさを覚えた。


「はむ…はむ…はむ…」


 鼻を甘噛みするエルザをよそに、背後の腰に何か硬い棒のような違和感と、胸の締め付け感にカーリーは辺りを確認した。


「へっ…!?」

 

 そこに、あのクズはいた。


 荒い寝息をたてながらどことなく嬉しそうな寝顔のリコル《クズ男》だ。 背後からカーリーを抱きしめると、さも当たり前のごとく遠慮なしに胸を揉んでいる。まるでパンをこねるように、もみほぐすような手付きで指を動かしてくる。


 さらにカーリーを不快にしたのは、だんだんと奴の下腹部の息子が大きく反り始めてきた事だ。


「§%&BΦΨ!!noooooA」


 赤面するカーリー。


 瞬時に肘鉄をリコルの鼻先に打ち込むと、奇声のような雄たけびのような悲鳴があがった。


「なッ、なんですの?!」


「サイテーっ!! バカぁ!! 死ねぇ!!」


 悲鳴に飛び起きたエルザは、目を丸くしたままその光景を目撃した。顔を真っ赤にしたカーリーがリコルに覆いかぶさり絞め殺さんばかりの勢いでその首を絞めている。

 

「blぁtぅ、グふぁ…」


 リコルが打ち上げられた魚のようにバタバタと必死に身体を動かす。


 その鬼気迫る光景にエルザは言葉を失った。


「死ねぇ!! シねぇぇぇ!! このグズがぁ!!」


「がぁごbえg亜い」


「うがぁぁぁぁぁ!!!!! じイイぃぃねぇぇェ!!」


 さらに指が首に食い込む。


「はっ!? ちょっ…かっ、カーリー…? ねぇ何してますの? 死んでしましますわよ!! カーりー!! その手を離しなさいカーリー!!」


 犬歯を剥き出しに激高するカーリーを止めようと慌ててエルザがその手を掴むと、ふらっと、こと切れたようにエルザに持たれかけてきた。


 極度の空腹と疲労が蓄積した状態で突発的な興奮をしたせいで、一気に血圧が下がり低血圧失神を起こしたようだ。


「カーリー!? ねぇカーリー!? カーリー!! しっかりしてカーリー!!」


 何度もエルザが彼女の頬を叩くも、カーリーは真っ青の顔のまま白目をむいている。


 一方不可抗力とはいえ、自分の無自覚な行いで殺されかけたリコルは大きく口を開け必死になって酸素を求めていた。


「はぁ、はぁ、はぁっ、…はぁはぁ…去年死んだ叔母さんが…手招きしてた…はぁ、はぁ…俺…死んだのか…?」



「もちろん生きてるぞ豚共。朝から耳障りな声でギャアギャア騒ぐな。不愉快だ。約束通り今日からお前たちは蛆虫から豚になった。これからちゃんと豚として調教してやるからな。あり難く思えよ」


 突然気配もなく現れたのは既に畏怖の存在となっているヴィノだ。一瞬でリコルの顔から血の気が引いていく、悪夢が現実になった瞬間だった。


「………また、悪夢がはじまりますのね…コレは夢ですわ…お願い…夢であって下さいまし…」


 その瞬間。エルザの頬に強烈なビンタが打ちが打ち込まれた。じんわりと熱を帯びた頬を押さえながらうずくまる、顔を隠しながら必死に痛みを堪えながら震えている。


 歯を食いしばり口腔内にじんわりと鉄の味が広がってくると、それを込み上げてる嗚咽と一緒に飲み込んだ。


「これで夢は覚めたか?」


「………ぅッ…」


 無言のまま頷く事しか出来なった。


 また地獄が始まった。その光景を平然と覚めた目でリコルは眺めて呟いた。たった1日にしか過ぎていないのに血色を失った顔を飾るように濃い隈が出現している。


 殆ど飲まず食わずの状態で、身体は水分を求め瞳は渇き、唇はカサカサに、口内はカラカラに乾燥してもはや唾さえまともに出なくなっていた。


 さらに彼らを悩まさているのは、酷使した体が必死になって訴えてくる声なき悲鳴だ。身体を僅かでも動かせば痛みに変わって訴えてくる。


 身体が全力で動く事を拒絶する。しかしそれでも動かなければさらに責め苦を受ける。相反する心と体が何とか精神を保っていられるのは最早己の意地以外に無かった。


「おい、そこのオス豚。豚が人間みたいに悟った風な顔するな。不愉快だ。早く隣のメス豚を起こせ。返事はどうした?」


「…は、い」


 その返事にフンっと鼻を鳴らすと容赦なくリコルの頬を張り飛ばした。強烈な痛みと衝撃に瞼の裏で光がスパークし、鼓膜の奥で高音が響き渡る。


 時間差で口腔内に何か生暖かい液体を感じると、それは直ぐに苦い鉄の味に変わった。


 余りの痛みにリコルも頬を抑えながらうずくまる。


「聞こえなかったのか? それとも俺の言葉が理解できなったのか? 豚が人間の言葉を喋るな。豚は『ブヒ』と鳴けばいい。俺は頭の悪い豚は嫌いだ。せいぜい俺に気に入られるくらいの媚びを見せて見ろ」


 さらに髪を掴み上げ、もう片方の頬にビンタを打ち込み始めた。


「分かったのか、分らんのかどっちだぁ!! ああ゛あ゛ぁ、温かいエサが食いたいんだろう。なら早く鳴いてみろ。そうすれば今日は水もエサもたらふく食わせてやるぞ。ほらどうしたんだぁ? 鳴いてみろ、ほら早く!! 鳴けよブヒッと、早く鳴け!!」


 見下すような表情のまま何度も往復ビンタを繰り返していく。既にリコルは抵抗する事をやめ、されるがまま頬を腫らしていく。


 人間としての尊厳を取り上げ、力で徹底的支配する。弱者の辛苦をその身をもって知っていくると、最後は誰もが抵抗するのをやめる。その責め苦を受け入れ、従い、最後は信者のように支配者を崇拝する。


 この前段階でリコル達はの心はもう堕ちたかに思えた。


「…ガハッ、………へぇっ…丁度…水分が欲しかったところだったぜ…これで…喉の渇きが楽になったぜ…あリがァどゥよ…」


 ビンタの嵐が止むと口元を押さえながら皮肉を返してきた。未だ反発心を宿したその瞳だったが、ヴィノは微塵の興味すら見せずに革厚ブーツの先端でリコルの顎を蹴り上げた。


「ブゥふッ!!」


 鈍い音と一緒にリコルの口元から功を描くように鮮血が噴き出す。唯一幸運だったのは顎を蹴り上げられたと同時にリコルは気絶した事で、その後の苦痛を感じなかった。


 しかしその光景を間近で見ていたエルザは身震いした。戦慄が背中を走り恐怖で表情が崩れる。カチカチと顎が震え思考が停止した所でヴィノと視線があった。


「ヒィっ…」


 咄嗟に視線を逸らしたが既に遅かった。ヴィノは新しい獲物を見つけたかのように近づくと、無慈悲なまでにエルザの顎を蹴り上げた。


 疑問も、驚愕も、痛みも何も浮かばないまま奥歯が飛んでいく。頭を突き抜ける程の衝撃に大きく背を反らせながら白目を向いたまま地面へと沈んでいった。


「言い忘れたが、今日からは連帯責任を追加したからな」


 ピクピクと小刻みに痙攣する2人の側で、汚れたブーツの先を布で拭きながら言葉を足していた。


「こういう時の反発抵抗は悪手だ。こんなにぬるくはないぞ虜囚の扱いは」


 こうして新人教育の2日目が開始した。

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