第26話 新人教育その③明日、自分が生きている保証があると思うなよ

 普段の日常生活で低体温症聞くと、殆どの人はピンっとは来ないだろう。普通は北方の豪雪地帯で遭難した人が陥るものだな、くらいだと考えるだろう。


 しかし、条件が揃えば人を夏場で凍死する事は可能である。


 何も魔法で凍り付けにする必要はない。身体の深部体温を2~3度下げるだけで人間は簡単に低体温で凍死する。低体温症の初期症状では身体の震え、感覚鈍麻、動作緩慢、思考力低下が現れ、進行すると震えが消失、頻呼吸、身体硬直、意識障害に陥り最後は死ぬ。


 では、低体温症を防ぐにはどうすればいいのか。答えは簡単で体温を維持さえすればいいだけだ。


 人間の体温を上げる方法は主に活動、摂取、保温の3つだ。逆を言えばこの3つを奪われた場合、それは命に直結する危機的状況に陥ると言える。


 3人は日中の活動で疲労困憊した身体に、水分以外の食事は摂取していない。加えて服を破かれ全裸の状態で下半身を拘束されまともに動く事さえままならない。


 さらにその上から身体に冷水を掛けられている。最悪ともいえる条件が揃ってしまっていた。


 陽が出てる日中ならまだ大丈夫だっただろうが、今は太陽の恵みが無くなり水分を吸った冷たい地面に容赦なく熱が奪われ続けてた。結果数分もしないうちに3人の身体は激しく震え出した。


「さ、さっさささささっっっざむいわぁ…」


「えええエルザ…プチファイヤででででもいいいいいから…何か出して、こここ、このままじゃっ、凍えジぬ」


「ごめんなさいカーリー…つつつつ杖がないから…むむむムリですわ…そもそも…なんでこんなに寒いのよ…ひっ昼間はああああ゛あ゛あ゛、ぁんなに暑かったのに…」


 寒さに顎が震え上手く発音さえ難しくなっていた。冷え切った身体に鞭打つように容赦なく北風が吹きつけ更に体温を奪ってくる。


 震える二人の元に、寄り添うようにゆっくりとリコルが近づくとカーリーに覆い被ってきた。咄嗟の事に身構えると、汚い鼻水を垂らしながらリコルが耳元で囁き始める。


「さっサリー…どこ行ってたんだよ。ぼぼっ僕を置いて…本当に君は悪い子だね。ほらひゃ、はやく…温めてくれよ。ああぁ~君の身体はあったかい。もっと温めておくれ」


「ええエルザっ!! 早くコイツって。キモイッ!!」


「ヤめぇい!!」


 絡みつくリコルをカーリーが必死に引き離そうとしながら、リコルの頬を思いっきり引っ叩き何とか正気に戻す事ができた。


 正気を取り戻したリコルがバツ悪そうに離れていくが、二人は許す気のない視線を飛ばしていた。


 更に夜が深まり寒さがより一掃厳しさを増してきた。

 エルザは震えるカーリーの身体を摩り始めた。何とかしてカーリーの震えを止める方法はないかと思考を巡らせていると、エルザはある一点を凝視していた。


 それはほんの20歩程先の所で暖を取り、焼けた串肉を頬張るヴィノの姿だった。肉の焼けるジューシーな香りが鼻を刺激し、したたり落ちる油が熾火を赤く勢い立たせる光景を見るたびに、乾ききった口内から涎が滲み出しはじめてきた。


 ほんの短い距離の間で、天国と地獄の環境が生まれている光景は何とも言い難い。


 その美味しそうな香りに、たまらず眠っていた胃袋が空腹を思い出し催促するようにお腹を鳴らしてくる。それを聞くたびに忘れていた食欲が本能を刺激され、ひもじさに心が打ちのめされさそうになる。


 油まみれてヴィノの口元から目が離せない。今のエルザは恨めしそうな視線を送る事しか出来ずにいた。


「…あの…おっお願い…お願いします」


「黙れ。蛆虫が喋るな。食事中に蛆が視界に入るのは不愉快だ」


「…お願いします…その肉を少しでいいですから分けて下さいまし…お願いします」


「甘えるな !! メシが食いたいなら自分で用意しろ。お前は赤ん坊じゃないだろうが。手足が動いて頭が使えるだろう。なら自分でメシを何とかしろ。俺が手を出すのは教育訓練だけだ」


「………はいっ」


 弱弱しく返事を返すエルザ。生まれてからこれほど自分が飢えた事はない。貴族令嬢として何不自由なく暮らしてきて、ギルドに所属してからも多少の理不尽や窮屈感はあったが衣食住に困る事はなかった。


 だけど今は違う。これまで経験したことがない程の空腹と寒さに気持ちが押しつぶされそうになる。


 始めて感じる死の恐怖にエルザは自分がどうやって生き抜いていくかを無意識に考え始めていた。


「あの…今までの無礼な行いは謝ります。反省もします。身体がもう動かないですわ。本当に動かないのです…苦しいのです…だから…だからその肉を少しでいいですから………これ位しか今のわたくしの頭では思いつかないのですわ。…この、わたくしの無い頭で背一杯考えましたわ。どうか…どうか…その肉を、わたくし達に分けて下さいまし」


 余計な事は一切考えずに、ただ今を生きる事に注力して考え導きだした答えがこれだ。たとえ憎い相手でも平身低頭で必死にお願いする事だ。


 喉の渇きで昼間縋るようにお願いした結果、小便を掛けられ余りのショックに気を失ってしまったけども、そんなのはもうどうでもよかった。


 今ならあの小便でさえ躊躇いなく飲める自身がある。それ程の覚悟を彼女は言葉に込めていた。


 お互いに視線を交わした後、ヴィノはエルゼのそばまで近寄ると腰袋から一切れの肉を掴んで棄てた。


「ぅッ…!?」


 目前に施された肉はどこか酸っぱい匂いがする。よく見ると可食部が殆どない腐りかけの肉だった。


 その光景にカーリーもリコルも言葉を失った。


「食え」


「「「………」」」


「どうした? 食えよ。腹が減ってるんだろう?」


「「「………」」」


 最初から肉を渡す気などなかった。そう思うと今まで少しでもこの男に期待していた自分達が愚かで惨め過ぎて泣けてくる。

 

 次第に沸き上がる怒りに拳を握りしめ、犬歯を向けて睨みつけた。


「どうして…このような惨い仕打ちが…いくらなんでも酷すぎますわ…わたくし達は…そんな贅沢を言ってるつもりはありませんわ…せめて食べられる肉が少し欲しいだけですのよ…」


「何言ってる? 蛆は腐った肉に湧くだろう。その肉はお前たちの大好物だろうが」


 その一言にカーリーが動いた。ヴィノを睨みつけ限界まで腕を伸ばし彼の足に掴みかかろうとするが繋がれた鎖に阻まれあと少しの所で届かない。それでも激高心に顔が歪み込み上げてくる感情を言葉に乗せる。


「………ひとでなし…お前なんか悪魔だ。こんなにエルザが頼んでるのに…なのにこんな酷い事をして何がたのしい!! あした皆が死んだらどうする気だ!! お前の責任だぞ!!」


「はぁ?」


 だがヴィノは呆気にとられた顔を向けてきた。


「何言ってるんだお前は、まさかお前…この教育訓練で自分は死なないとでも思っていたのか? 馬鹿かお前は? 俺は生きて訓練を終了させるなんて一言も言っていないぞ。俺は自然の厳しさを教えて、戦場という地獄の中で肉体と精神の限界を教えろと言われただけだ。それに宣言書も書いただろう血印と一緒にな。だからお前たちが死のうと俺には関係ない。最初から生きて返すなんて責任はない。生かすつもりもない。生き残るのはお前たち次第だぞ。もし死んだら死んだで運が無かった。ただそれだの事だろうが」


 ヴィノの言葉に3人は言葉を失い茫然自失になっていた。


「てっきりもう理解してると思ったが違ったようだな。なら教えてやるお前たちが怒る相手は俺じゃない。お前達がここで戦う相手は俺ではない。お前たちの本当の敵はこの自然と己自身だ。どうだ理解できたか? もっと簡単に言ってやる。この状況に抗い生き残れなければ死ぬ。それは誰のせいでもない、お前たちが弱いからだ。戦場は弱い奴から死ぬ。だから死んだら自分を呪え。マヌケな自分自身をな」


「なっ…なに言ってんのよ。こ、んな…こんなの訓練じゃない」


「その通りだ。俺は最初から戦場を想定してやってる。戦場で一番負傷する部位は脚だ。だからお前たちは這ってるんだ。這ってでも陣地に戻らなければ死ぬ。それに本物の戦場はもっと地獄だぞ。お前たちはいいよな。もうすぐ死ぬんだとわかるんだからな。本当の戦場はなまばたきをした瞬間に終わる。自分が死んだことさえわからず死ぬなんてザラだ」


 ヴィノの向上が終わると、固まっている3人の手を順番に踏みつけて現実に戻す。硬いブーツの踵で踏まれた指に激痛が走り、全員がその場で身悶えだした。


「お前たち、痛みは好きか?」


 悶絶する3人は応える余裕すらない。だがさらにヴィノはエリザの銀髪を掴み上げると再度質問した。


「お前は痛みは好きか?」


「…い、いやですわ」


 返答が済めば今度はカーリーの黒髪を同じように掴み上げ質問する。


「お前は痛みは好きか?」


「…きっ嫌い、大っ嫌い」


 今度はリコルの金髪を掴み上げる。


「お前は痛みが好きか?」


「んなわけねぇーだろう!! どこの変態だ」


 リコルだけが睨みつけるが、ヴィノは相手にする気もなく乱暴に離した。


 質問を終えて立ち上がったヴィノの指の間に、それぞれの千切れた髪が絡まっていた。見下すように3人を眺めながら今度は足元にまわり、3人の爪先にゆっくりと踏み込み体重を掛け始める。


 パキッパキッと関節が鳴きだし悲鳴が上がる。順番に悲鳴を上げさせると、今度は3人の腰を踏みつけながら何度も往復を始めた。


 靴底が肌に食い込むたびに呻き声にもにた悲鳴が上がる。骨が軋み歯を食いしばって耐える事しかできない。喉奥から込み上げるモノを必死に飲み込みながら3人は、この理不尽な暴力が過ぎ去るのを耐えるしか出来なかった。


「人間は痛みを嫌う、その痛みから逃げようとする事はごく自然な反応だ。自分たちの営みの中で痛みは邪魔で嫌悪感さえもっているだろう。だがな、痛みにだって良い所はあるんだぞ。お前たちがクエスト中に負傷すれば、痛みがそれを教えてくれる」


「説明はいらない。早く降りろよ!!」


「それだけじゃない。どんなに眠くてもその眠気を覚まし空腹さえも忘れさてくれる」


「いたい、痛い、イタイ、イダい!1 折れるッ!! 折れるよォ!!」


「そして消えかけている闘志を燃やし、再び奮い立たせるてくれる」


「わたくし達の命が火が消えかけてますわ!!」


「うるせぇぞォ蛆虫共ォ!! それなら痛みの一番の良いところを言ってみろォ!!」


「知るわけねぇだろう!! ウグゥ」


 リコルの絶叫交じりの口返答に、ヴィノは頭を踏みつけて降りると乱暴にまた掴み上げる。そして耳元で大声で叫ぶ。


「自分がまだ死んでいない証拠だぁ!!」


 眼下で悶絶と痙攣を繰り返し沈む3人を尻目に、焚き火に戻ったヴィノは足で土を掛けて消してしまう。光源が消えると辺りは深い闇に包まれた。


「か、…カーリー…生きてますか?」


「…なんとか…でも…もう無理かも…」


 すぐ隣にいるお互いの顔すら認識する事もできない程の闇に覆われた。不謹慎ではあるが、まるで焚き火の炎が自分たちの命の灯のように、消失した瞬間死が頭を過った。


「よし聞け蛆虫共。一つ命令を出す。明日の朝までどんな方法をとっても構わないから何としても生き残れ。以上だ。おれはコレから寝床にもどって休む。明日の朝生き残った蛆虫は、豚に進化させてやる。ようやく虫から四足獣に進化できるぞ。人間になれるまであと少しだ。せいぜい足掻け」


 ヴィノはそれけ言うと、じゃあなっと軽く手を振って闇に消えて行った。後に残ったのは凍える身体に生気を失くした顔の3人だけが残された。


 その3人に自然は容赦なくその厳しさを突きつけ始める。


 身にあたる風が時間経過と共にどんどん冷たく吹きつけ、吐息までもが冷たく感じ始めた。気管や肺の奥まで体温が低下し始め、いつ内臓が機能停止するかも時間の問題だ。


「…カーリー、ねぇ…カーリー!?」


「…エルザ…ごめん………私…もうムリ………」


「ダメ、ダメよ…カーリー…気をしっかり持つのよ」


 エルザの問いにカーリーからの返事が無くなった。最悪な状況が頭を過り、彼女の名を叫び手探りでカーリーの腕を掴むと強引に自分の方に引き寄せた。


 目を閉じる顔を乱暴に叩くも反応を示さない。


「カーリー!! 嫌、嫌ですわ…目をあけて、開けなさいカーリーぃ!!」


 エルザは取り乱さん気持ちを必死に抑えながら、何度も彼女を摩り名を叫び続けた。


「カーリーお願いだから返事をして。カーリーィ、カーリーィ!! リコル!! ねぇリコル。カーリーを助けて、手を貸しなさいョ!! 早くぅ!!」


「まてッ今…そっちに行く…」


 弱弱しい声を出しながら、リコルが這い寄って来た。少しでも腕を動かすと関節が悲鳴を上げる。それでも残る力を振り絞り二人の元へと何とか身体を動かした。


 もう力の入らない指がカーリーの身体を超えエルザの肩に触れた。


「なあエルザ…もしかしたら3人助かる方法がある…はぁはぁ…一か八か賭けてみないか?」


「何を?」


「昔…山で狩りにでた爺さんが…はぁはぁ…猟師と一緒に遭難したんだ…はぁはぁ…夜雨が降って火も焚けない状況だったけど…はぁはぁ…猟師の教えてもらった方法で助かって…はぁはぁ」


 リコルのその言葉にエルザは藁にも縋る思いでその手を掴んだ。


「それでカーリーが助かるのでしたら…今すぐ教えて下さいまし」


「わ、わかった…」


 リコルはエルザに説明をすると、エルザは二つ返事で快諾した。そして言われた通りカーリーの身体を二人で挟み込む形で密着した。


 これは遭難時に低体温症を防ぐ一番簡単な方法でお互いの身体を密着し、互いの体温で難をしのぐ方法だ。


 カーリーの背部をリコルが前面をエルザが抱きしめる形で肌を密着させると、すぐにお互いの体温を感じ始める。


 実にシンプルだが効果は高かった。二人に挟まれカーリーの呼吸が段々と深く落ち着いてくる。体温も身体の中心部から徐々にではあるが熱を感じ始め、少しずつではあるが確実に危険な状況からは抜け出しはじめて来ていた。


 だがそれを正しいと確信できるほど、二人には判断が出来なかった。


「ほっ、本当にコレでよろしいので?」


「ああ、爺さんはコレで助かって言ってた…はぁはぁ、正直俺にもわからん…もし死んだら…はぁはぁ…神様の前で土下座するよ」


 顔を引き攣らせながら苦笑いを浮かべるリコルに、エルザも含み笑いを浮かべて見せる。


「ふふ、なら明日生きて朝を迎えましたら…今度出る『テトラ』の新刊を一番に読ませて上げますわ」


「そいつは…はぁはぁ…嬉しいぜ。あの続きを読まずに死ねないからな…はぁはぁ、なあエルザ、これ…俺…幻聴が聞こえてるのかな?」


「…幻聴じゃありませんわ…ふっふふふっ…わたくしも…ちゃんと聞こえてますわよ…アレを…」


 夜風は強まりさらなる試練を3人に与える。二人の耳元で微かに遠雷が轟いてきた。雨雲が風に乗ってここに嵐が来るのか、それとも運よくそれるのか、それは神のみぞ知る事だろう。


 しかし、二人の心境は既に『絶対生き残る』と覚悟を決めていた。神様がどのようにサイコロを振ろうと、どんな出目がでようとも、その覚悟は変わらない。


 願わくばこの3人の明日に幸多からん事を―










 そして、運命の朝を迎えた。

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