第2話

「お祖母ちゃんの容態はどう・・・?」

佳織の祖母が急病で倒れ、病院に運ばれたという知らせが飛び込んでから数日が経った日の放課後、和歌葉は彼女に容態について尋ねた。

彼女の表情は暗く沈んでいた。

「うん・・・状態は、かなり悪いみたい・・・。延命治療がやっとだろうって話になってる・・・。それとね・・・、病気とはまた別なんだけど、お祖母ちゃんが変な事ばかり言ってるの。それが気になって・・・」

佳織の言葉の最後が気にかかり、和歌葉は尋ねる。

「変な事ばかり言ってる?それってどういう事?」

「何かね・・・夢うつつなのか分からないけど、時折うなされたように叫ぶんだって。『ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・。あの日、あの桜の下に行かなくて・・・。あなたを裏切って・・・、ごめんなさい・・・!』って。先生は、体の状態がすごく悪くなった時には妄想が出てきて、変な事を言うのは良くある事だからって、それで済まされたけど、でも、私は、どうしても、あのお祖母ちゃんの言葉が、単なるうわ言だとは思えなくって・・・。気になって、お祖母ちゃんが少し目を覚ました時に、ちょっと、その事について尋ねてみたの。そしたら、みるみる顔色が変わって、青ざめて、目を逸らしてしまって・・・、何も話してくれなかった。絶対、あれは妄想なんかじゃない。きっと、お祖母ちゃんは何かを隠している。凄く、重大な秘密を・・・」

佳織の話を聞きながら、和歌葉は、戦慄を覚えていた。

『桜の下・・・、裏切った・・・?その話って、まるで・・・。いや、でもそれだけで結びつけるのは短絡的過ぎるか・・・?』

佳織の祖母が夢うつつの中、口にした言葉は、まさしく、『桜の下のオフィーリア』と呼ばれる怪死事件が時折起きる、「お化け桜」と、「幽霊池」の伝承の由来になった事件に酷似していたからだ。昭和初期の頃、あの池の畔の桜の下で、花が満開になる季節、二人の女学生が心中の約束を交わしていた。しかし、結局、待っていた思い人は現れず、恋人に裏切られた絶望の中、女学生は一人、池の中へと入水し、桜の花弁に埋もれるようにして、水面に浮いて絶命していた・・・。それが、あの池と、桜に伝わる伝承だった筈だ。佳織の祖母が口走った言葉は、その伝承に、偶然と呼ぶにはあまりにも似過ぎていた。まさか、佳織の祖母は・・・という思いが、和歌葉の胸の中に広がりつつあった。

「和歌葉・・・?難しい顔して、黙り込んで、どうしたの?」

佳織の声で、思考に没入していた和歌葉は我に帰る。

「いや・・・何でもない。それより、今日も、佳織はお祖母ちゃんのところにお見舞いに行くんだよね」

「うん・・・。もう、私も覚悟はしているけど・・・それでも、お祖母ちゃんの傍に最期までついていてあげたいから。だから、今日も一緒に帰れない、ごめんね」

「佳織のお祖母ちゃんが大変な時だもの。気にしないよ」

佳織は、陰鬱な表情のままで鞄を手に取ると「じゃあ・・・また明日」と言って、和歌葉を教室に残して、一足先に出ていく。佳織のああいった表情をここ何日も見ていて、和歌葉の気持ちも沈んでいた。一番の大切な幼馴染で、和歌葉にとっては学校で殆ど唯一の親友と言って良い彼女が、ずっと打ち沈んでいる様を傍で見続けるのは、苦しい物がある。

和歌葉にとって、大切な記憶のある場所である「お化け桜」、「幽霊池」が再開発計画でもうすぐ伐採され、池も埋められてしまうという話を聞いてから、ずっと曇っていた和歌葉の心の空は、佳織の様子を見て、更にその曇天を色濃い物にしていた。

その為か、この数日、家で机に向かい、愛用の創作ノートを開き、シャーペンを手にしても、一文字も書く事が出てこない。自分のペンは、今の、大切な場所が失われる事への悲哀と、佳織への心配により混濁した心を反映するように、何ら、美しく澄んだ言葉を紙面の上に書き出す事は叶わなかった。おかげで、この何日もこの創作ノートは一ページも進んでいない。

佳織が去った後も、教室でしばらく、椅子に座ったまま、和歌葉は全くページが進まない創作ノートの見開きを、恨めしく眺めていた。

こうした時、和歌葉の行く場所はもう、決まっていた。日はまだまだ短いが、落日まではもう少し時間がかかるだろう。和歌葉の両親は共働きで夜も遅い事が多く、最近は夕食も一人でとる事が多いくらいなので、多少帰宅が遅くなったところでどうという事はないのだ。

「久しぶりに、お化け桜の下に行こう・・・。惜別の意味も込めて」

学校指定のコートを制服の上に羽織ると、和歌葉は立ち上がり、教室を出ていった。


「お化け桜」・・・そんな仇名をつけられた桜の木は、勿論花が咲いている筈もなく、葉一つつかない枝を晒して、落日の赤光を照り返す「幽霊池」の畔に一本、佇んでいた。周囲の木立で羽を休めているのだろう鳥たちのさえずる声以外は、音もなく、この時間帯、この場所はいつも静寂に包まれていた。

街の人間の多くはこの場所を、「時折怪死事件も起きる、恐ろしい心霊スポット」としか見做していない為、薄暗くなり始めてから、この桜の木を、池を訪れる物好きは、恐らく和歌葉くらいのものだろう。

和歌葉は、お化け桜の根本に歩み寄ると、学生鞄からハンカチを一枚取り出し、それを地面に敷いた。その上に座り、桜の幹に背をかけ、身を預ける。コート越しにも、桜の木肌の冷たさが、背中に伝わってくる。

「もうすぐ・・・貴女ともお別れなのね。せめて、この春、最期の花を咲かせるまでは、残してほしいものだけど」

和歌葉は一人、語りだす。もし、誰かが今の自分の姿を見る事が出来たなら、恐らくは奇人変人にしか見えなかっただろうが、和歌葉は虚空に語りかけているのではない。自分は今、この桜に、そして、落日の赤光に染まり、一面に血を流したように紅に染まっている池に向かい、そこに、あの春の日に自分を助けてくれたセーラー服の少女がいると信じて語りかけている。

「貴女と、もう会えなくなる日が近づいている事を考えたら、最近、私、全然、詩も歌も書けなくなってしまってね・・・。今まで、私が書く事に息詰まった時、貴女は、私の背中を押してくれていたね。春は、優しい花弁の毛布で、夏は、池の水面を駆け抜ける涼風で。でも、貴女がいなくなってしまったら、私、これから先、詩も歌ももう、書けなくなりそう・・・」

和歌葉は桜の根元で、膝を立てて、其処に顔を埋めるようにして、呻くように言った。今、背中を預けている桜の木も、眼前に静かに広がる、池の水面も、何も答えない。

「せめて、願いが叶うなら、あの春の日に、池に落ちた私を助けてくれたのが、貴女なのなら、私の前にもう一度、姿を現してほしい。別れの前に・・・」

和歌葉は絞り出すように、そう言った。佳織が言うように、自分は意味のない事をしているだけな事は分かっている。かつて、桜の花が覆っていた池の水面の下で見た、彼女の幻影を、恐らくは生者ではない彼女を、生者である自分が追いかけたところで、不毛である事も。


そうした時、和歌葉の髪に、何か、柔らかく軽い物が触れる感触があった。

和歌葉は驚いて顔を上げ、髪に触れてきた物を手に取る。信じ難い事に、それは桜の花弁だった。今は、まだ冬だ。桜が咲いている筈もない。現に、お化け桜の枝も、先程見た時は、一つの花もなかった・・・。それなのに、和歌葉の座っている元には、一枚、また一枚と薄い桜色の花弁が降ってきているのだ。一瞬、幻影を見ているのかと思ったが、この指に触れる、少し手荒く触れば破れてしまいそうな程、薄く柔らかく、儚い感触は間違いなく、本物の桜の花弁だ。

そして、花弁と共に誰かが近づいてくる気配を感じた。不思議と、和歌葉には恐怖感は全く無かった。よく見れば、花弁は、自分に近づいてくるその人影の方向から風に乗って、舞い込んで来ているのだ。

落日が近づく、照明も少ないこの池の畔でも、和歌葉ははっきりとその姿を捉える事が出来た。

艶のある黒の長髪を風になびかせて、白のリボンが、古めかしい印象を与える黒地のセーラー服の胸元を飾っている、少女の姿を。

和歌葉は息を呑む。五年前、桜の季節に、池で溺れ、沈みかけた自分の手を引いて、救ってくれたあの少女の姿と、それは寸分違わないものだったから。

もし、この桜と、池の伝承を恐れている人間だったなら、震えあがって逃げ出していたかもしれない。しかし、今、和歌葉の胸を埋め尽くすのは、彼女に再会できた喜びだった。

「・・・貴女なの・・・?五年前、池で溺れた私を助けてくれた、あの時の女の子は・・・?」

和歌葉は、歓喜のあまり、声が震えそうになるのを押さえながら、そう問いかけた。

少女は、花が咲くような笑顔を見せ、頷いた。

ああ・・・あの笑顔も、あの時のままだ、と和歌葉は感じた。笑っている筈なのに、今にも泣きだしそうな、見つめているとこちらの胸が苦しくなるような、哀切を含んだ笑顔。

和歌葉は、この五年間、ずっと胸に抱いていた疑問を最初に問いかけた。

「あの時、どうして、貴女は私を助けてくれたの?」

その問いに、彼女は、唇を開いた。その声は、花弁が地面に落ちるような、あるかなきかの、しかし確かに聞こえる声だった。

「貴女は・・・和歌葉だけは、私の事を、分かろうとして、大切にしてくれていたから・・・。私の、柩の代わりの祠も、それに、この桜や池の事もね。私を恐れないで、来てくれたのは貴女だけだったから、だから、命を奪えなかった」

和歌葉は立ち上がり、セーラー服の少女に問いかける。

「命を奪えなかった・・・?やっぱり・・・、この池の、桜の下で繰り返されていた、女の子が水面に浮かんで、花弁に包まれて亡くなっていた事件は、貴女が起こしたものなの?」

そう問うと、少女は、表情に影を落とした。語りながら、やはり少女は既に生者ではない事は確信出来た。彼女の声は、空気を伝うというよりは、和歌葉の脳内に直接語りかけるように聞こえてくる。

「・・・ええ、そうよ。今まで、何人もの、少女の命を奪ってしまったのは、私・・・。私の、消せない罪・・・。唯、自分のどうしようもない孤独を埋めたいだけの、身勝手な願望によるね・・・。でも、いくら抑えようにも、孤独に耐えかねて、自分の力を抑えられなくなる時がある・・・。力が暴走してしまって、気付いた時には、また、少女の命を犠牲にしていた。そして、我に帰っては、自分を責めた。

そんな事を、もう何度春を経たか思い出せないくらい、続けてきたわ・・・」

やはり、彼女は、『桜の下のオフィーリア』と呼ばれるあの一連の、祖父母の代から続いてきた怪死事件を起こしてきた元凶であったのだ。しかし、人々が『怨霊だ!』と呼んで恐れ戦くような邪悪な雰囲気は、彼女からは感じられなかった。

和歌葉が、その彼女の答から、彼女の佇まいから感じたものは、自分の孤独、寂寥を抑えきれず、力を抑えきれずに少女らを手にかけてきてしまった事への懺悔と、自責の念だけだった。

「そういえば、どうして貴女は、私の名前を知っていたの?」

「貴女の事を、この池に、この桜の下に来た時から私はずっと見てきたからね。名前くらい覚えているわよ。それも、私を恐れないで、こんなにもこの場所を大事に思って、来てくれる人の名を忘れる筈がないでしょう?」

少女は、和歌葉の隣の、桜の根本に腰かけた。見れば、その綺麗な黒髪には、桜の花弁が二、三枚ついている。その花弁を、和歌葉はとってあげた。和歌葉の行動に対し、少女は言う。

「本当に貴女、私の事を怖がらないのね・・・。この街の人は皆、私を怨霊だと呼んで、この場所に近寄るのも怖がってるのに」

「だって・・・あの時、貴女は溺れていた私を助けてくれたし、貴女からは、そんな、禍々しい気配を感じないんだもの。力を抑えきれないから、事件を起こしてきてしまった事に、貴女はちゃんと懺悔もしているって分かったから」

和歌葉の隣に今座っている少女は、確かに生者ではない。しかし、人々が言うような禍々しい怨霊では決してなく、其処にいるのは、唯の、脆くて、苦しんでいる一人の少女の姿だった。

「今は、力を何とか理性で抑えきれているから、大丈夫かと思って、貴女の為に姿を見せたの。私も、和歌葉に別れを告げないといけない時が近づいてるっていう事は分かっていたから・・・」

「もうすぐ、この池も、桜の木も無くなる事、知ってるんだね」

「ええ。この桜が切られて、池も埋め立てられれば、私の魂の拠り所は無くなる。きっと、私もようやく、この現世に別れを告げられるから・・・。沢山の少女を花の下の池に引き込んでしまった、自分の忌まわしい罪と共にね・・・。でも、その前に和歌葉には姿を見せて、会っておきたかった」

和歌葉は、この、隣に座る少女が、もうじき、桜の伐採と池の埋め立てなどという人工的な手段で、孤独のままに葬られようとしている事がどうにも納得出来なかった。

「貴女は・・・確かに孤独を紛らわす為に、自分の力を抑えられなかったとはいえ、沢山の女の子の命を奪ってしまった罪は消えないけれど、でも、今はもう孤独じゃないよ。私が、貴女の傍に最期までついていてあげるから。私にも、貴女にも大事な場所である、この桜の下で」

この、本当は怨霊でも何でもない、寂しがり屋の亡霊の少女を、独りぼっちのまま、黄泉の国に行かせたくはなかった。和歌葉は、この場所が無くなるまでの残り少ない時間を、彼女と共に過ごすと決めたのだ。

「本当?」

亡霊の少女が、初めて、寂しさを含まない、曇りのない笑顔に変わった。こうして笑った顔は、やはり街の人が呼ぶような怨霊とはどうにも思えない、一人の揺れやすい心の少女にしか見えなかった。和歌葉は、頷く。

「私は・・・貴女が待ち望んでいた、数十年前の、一緒に心中する筈だった女の子の代わりにはなれないけれど、それでも最期まで貴女の傍にいるよ。この桜も池も消えてしまうその日までは」

少女は、それを聞くと、その唇が「嬉しい・・・」と動いた。そして、次の瞬間には、彼女は和歌葉を抱きすくめていた。最も、和歌葉としては、実体を持たない、もやのような物に包み込まれる感覚ではあったが・・・。唯、彼女に抱きしめられると、冬の空気の中、桜の香りが微かに和歌葉の鼻腔をくすぐった。

「寂しがり屋の幽霊さんの貴女には、いつまでも貴女呼びだと何か、仰々しいから、取り敢えず名前を聞かないとね・・・。生前の名前は覚えている?」

少女は首を振った。

「生前の記憶は・・・時代を経るごとにどんどん、朧気になっていってるの・・・。今ではもう、あんなに共に死を誓い合ったあの子の名前も、私自身の名前さえも、もう思い出せない・・・。唯、覚えているのは入水の前に詠んだあの歌だけ・・・。

『思ひ人 来たらず我は 水の底 水面の花は 美しからむ』・・・この歌しか、もう私を生前と繋いでくれる物はない」

池の畔に置かれている碑石に書かれている、彼女の遺詠だ。彼女の死から、何十年もの年月が過ぎ、もう生前の記憶で残っている物は殆どないらしい。ただ、彼女が待っていた思い人に裏切られ、一人寂しく、この池の水面に散っていったという絶望の記憶以外は・・・。

「そうか・・・。そしたら、私が名前をつけてあげよう」

和歌葉は、花の一つも見当たらない、頭上の桜の木の枝を見上げつつ、その枝の合間に見え始めた月に目が行った。そこで、和歌葉の中に一つの名前が浮かんできた。

「そうだね・・・。そしたら私は、貴女の名前は、桜月(おうげつ)って呼ぶ事にするね」

「桜月・・・?」

「そう、桜に月と書いて、桜月。月に淡く白く照らされる、満開の夜桜を連想して、パッと考えたんだけど、どうかな?それとも安直すぎて、気にいらないかな・・・?」

和歌葉は、隣に座る亡霊の少女の様子を見ていた。少女は首を横に振る。

「いいえ・・・。和歌葉が、私の為に名前を考えて、つけてくれただけで、私はもう嬉しいの。いいわ。私は今日から『桜月』ね」

「ずっと、貴女の事をなんて呼んだらいいか、困ってたからね・・・。でもこれで私も貴女の事、名前で呼べるね。よろしく、桜月」

何がよろしくなのかは、和歌葉自身もよく分からない言い回しだが、彼女を兎に角、幽霊だとか亡霊だとかそうしたぼんやりした名称ではなく、一つの人格として扱う為に、名前で呼んでみたかったのだ。

彼女は・・・桜月は、初めて和歌葉に名前で呼ばれた事に、照れてでもいるように頬を染めて、

「うん・・・よろしく、和歌葉」

と返してきた。こうしてやり取りをしていると、桜月が、亡霊である事も、この場所が、桜も池も無くなれば、もう会えなくなってしまう事も夢のようで、桜月は紛れもなく和歌葉の前に実在しているようにしか思われなかった。


家に帰り、お風呂に入り、一人寂しい夕食を終えて、夜の課題に渋々取り組んでいる最中も、和歌葉の頭の中は、桜月の事で満たされていた。あの池の畔で今日の夕方、起きた事は、果たして本当の事だったのだろうか?あまりに、自分が想い出に執着するあまりに、幻でも見ていたのではないだろうか?と、何度も自問する程であった。

しかし、そう自問する度、和歌葉は、制服に残る、この季節に咲く筈のない桜の残り香を嗅ぎ、そして、制服のスカートのポケットに入れていた桜の花弁を手に乗せて見つめた。それらは、桜月があの時、あの場所に間違いなく存在していた事の証拠だったから。

夜、眠りにつく時も、桜月が残していった桜の花弁を、ハンカチの上に乗せ、それを枕元に置いて、眠りについた。翌朝目覚めた時にも、桜月と会った事が夢の中の出来事ではなかったとすぐに確かめられるように。


‐和歌葉が去った後。日も完全に落ち、池の水面は自分が入水した時と同じく、今は墨を流したように染まっている。桜月、という今日、和歌葉からもらった自分の名前を噛み締めながら、桜月は、桜の木の下に佇んでいた。

来る日も、来る日も、池の畔の、あの桜の木の下にやってくる和歌葉の姿を、桜月は遠くから眺めていた。一生懸命、何かノートを広げてはペンを走らせ、取り組んでいる彼女の姿を。時には、汚れた、慰霊の祠や、碑石を拭き上げ、供物も取り替えてくれていた彼女の姿を、彼女が小学生から、高校生になるまでの間、ずっと見てきた。

自分が・・・、思い人に、「桜が満開の頃、一緒に二人で心中しよう。そして、シェイクスピアの悲劇のオフィーリアのように、花弁に飾られた水面に二人で共に亡骸を浮かべよう」とあれだけ誓い合ったにも関わらず裏切られ、この池を今黒く塗りつぶしている、夜の闇よりも暗い絶望の中、この池の水の泡と散ってから数十年。

皆が自分を怨霊だと、この池とあの桜には呪いがかかっていると騒ぎ立て、この場所諸共自分を除け者にしてきた。無念を残したまま命を絶った自分は冥府の門を潜る事は叶わず、この場所に縛られた霊となり、終わりのない、地獄のような孤独に苛まれえてきた。

初めに、人の弱っている心に自分が付け入り、操作して、この池へと引き摺り込む力がある事を桜月が気付いたのは、もういつの頃か思い出せない。孤独に、寂寥に攻め立てられ、それから解放されたいと願ってしまったばかりに、桜月は最初の惨劇を起こした。自分が死んだ頃と同じ年ごろの女学生を操って、この池に投身自殺させたのだ。叶う事のなかった、「二人で、オフィーリアのように桜が飾る水面に亡骸を浮かべる」という約束を何とか現実にして、出来れば、彼女らの魂もこの池に、この桜の下に留まらせる事は出来ないかという歪んでしまった願望から。

しかし、最初に手にかけてしまった彼女の魂は、結局桜月の傍に残る事はなかった。当たり前だ、彼女にしてみれば、理不尽にこの池に引き込まれ、命を奪い取られたのだから。後に桜月に残ったのは、何の関係もない少女の命を、自分の孤独、寂寥を満たしたいという欲求だけで奪ってしまった事への、全身を引き裂きたくなるような後悔ばかりだった。しかし、いくら悔やんでも、自殺は出来ない。何故なら既に桜月は死んでいるのだから、二度死ぬ事は叶わぬ。

自分の衝動を、霊力を理性で抑えきれなくなり、この街の少女らを何人も手にかけて、この池で桜の花弁で飾った骸にしてしまっては、我に帰って後悔する・・・そんな地獄を、この数十年、桜月は延々と繰り返してきた。死ぬよりも苦しい事がこの世にはあったのかと桜月は思った。

そんな中、桜月の前に現れたのが、和歌葉だった。幼かった頃の彼女は、親と一緒にやってきては、今まで皆が怖がり、放棄していた祠の掃除や慰霊の碑石を綺麗に洗ってくれた。そして、手を合わせてくれた。嬉しかった。今まで、女学生の怨霊が取り憑いた桜と、池という事で、何十年も孤独だった自分に初めて寄り添ってくれる人が現れたから。

だから、五年前・・・和歌葉がこの池で深みにはまり、溺れた時、それを見ていた桜月は、自身の中に湧き上がる醜い欲求に絶望した。

『あの子ならば・・・死んでも私の傍にいてくれるかもしれない・・・。霊力でこのまま池の中に引き込んでしまえば・・・』

和歌葉に対しても、そんな邪な衝動がこみ上げたのを、桜月は心から恥じた。必死で桜月はその衝動を抑え込んだ。和歌葉の命を奪う事は出来ない、救わなければと。

桜の花が覆う水面の下、沈んでいく和歌葉に桜月は手を伸ばした。衝動で引き摺り込む為ではなく、大切な人を救いたいという意思によって。

姿を見せて、和歌葉の前に現れるのはあの一度きりにするつもりだった。

しかし、和歌葉もまた、自分に会いたいという強く望んでくれていた事が、今日、桜月にはこの上もなく嬉しかった。

もうじき、自分の魂の拠り所だった桜も、池も、工事によって全て破壊され、失われてしまう。そうなれば、自分のこの孤独な地獄も終わるのかもしれない。しかし、桜月も、このまま、和歌葉に会わないまま、冥府に行く事は嫌だった。この魂が消えてしまう前に彼女に会いたい。そう思い、和歌葉に姿を見せた。彼女は、自分に桜月という名前をくれて、受け入れてくれた。

「死者である私の恋心は許されない・・・、和歌葉は生きてる人間の世界にいなければいけない人間なんだから。もうすぐ、この桜も池も無くなり、私の魂も消えてしまうのなら、それまでの短い間だけでもいい。和歌葉と恋をしていたい・・・」

和歌葉が去った後も、いつまでも、池の畔の桜の下で、桜月は立ち尽くして、そんな事を考えていた。

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