桜の下のオフィーリア

わだつみ

第1話

桜舞う季節、高千穂佳織(たかちほ かおり)は、その道に足を運んだ。

まだ真新しさを感じる、濃い灰色のアスファルトの舗装の上に、薄く白い花弁がひとひら、またひとひらと舞い落ちていく様は、月並みな表現ではあるが、雪が積もるようだ。佳織は、頬を撫でていく優しい風と、目の前を、風に乗りながら春霞の空へと舞い上がっていく白い花弁達の中を、一つの石碑に向かって歩いていた。

すれ違う、花を愛でる親子連れや、恋人たちの中に、かつて、ここにあった一本の桜と、その池に関する、忌まわしい出来事の数々、そして、それを終わらせるに至った、一人の少女の献身的な死の事を、知っている者は殆どいない事だろう。

しかし、佳織は何年経っても、月代和歌葉(つきしろ わかば)が、一人の少女の苦しむ魂を救う為、そして、佳織を守る為に命を散らしていった事を忘れないだろう。

「和歌葉・・・。今年もまた、会いに来たよ」

佳織は、石碑の前に佇み、そう呟く。その石碑にはこう書かれていた。

「旧○○池殉難者慰霊碑」

この慰霊碑が、佳織にとっては、和歌葉の墓標の代わりだ。この墓標も花弁に優しく包まれ、土台には、石の上に白の花弁が積み重なっていた。この花を愛していた和歌葉、そして・・・彼女が救おうとした、一人の少女の魂には、良い餞(はなむけ)になっている事だろう。

「幾年(いくとせ)の 春経て君と また会はむ 黄泉の梢の 花の下にて」

佳織は、和歌葉への餞として、そう詠んだ。文芸部の頃の、和歌葉と共に創作に熱を上げていたあの頃に比べると、だいぶ、歌が浮かぶのも遅くなった。彼女が聞いたら、何と評する事だろう。

「桜月(おうげつ)も・・・彼女も今頃は安らかに、この花を見ているのかしら。憎しみに囚われた霊としてではなく、優しい心を持った少女の魂として」



「ねぇ、知ってる、『幽霊池』と『お化け桜』の噂?」

「知ってるも何も、この街じゃ知らない人はいないレベルの、超有名な心霊スポットじゃん。肝試しでも定番の。慰霊碑や小さな祠も立ててあるし、雰囲気ヤバいよね。

あそこがどうしたの?」

「それがね・・・また、起きたらしいよ、『桜の下のオフィーリア』が」

「え・・・!また、あの池、誰か死んだの・・・?」

「そう。死んだのは、また女子高生で、この学校ではない、隣町の子だったみたいだけどね」

「本当に、あの二つはガチで呪われてるよね、絶対・・・」

せわしい教室の中、そんな噂話を横で耳にしながら、月代和歌葉(つきしろ わかば)は、今日も窓辺でノートを開いていた。この様子だけを見れば、きっと彼女は勉強熱心な生徒なのだろうと思われそうだが、彼女がそのノートに書き綴っていた物は、前の時間の退屈な授業の、板書などではなかった。

和歌葉のノートの見開きを埋め尽くしていたのは、自作の詩文や、短歌。その無様な出来損ない達であった。

「和歌葉?また、授業さぼって詩文書いてたの?あんまり熱中し過ぎるのも良くないよ、授業はちゃんと聞かなきゃ」

和歌葉の傍に、そんな優等生然とした台詞を並べながら、身なりも、学校指定通りに髪は肩の高さまでで切りそろえたショートボブの少女が現れた。

和歌葉は顔を上げる。

「ああ、佳織・・・。ごめん、ごめん。次の授業はちゃんと聞くから」

そんな事を言いながら、和歌葉は尚もシャーペンを握りしめたまま、まだその瞳は、ノートの上の書きかけの短歌を睨んでいる。

高千穂佳織(たかちほ かおり)は、ノートから目を離さない弥生に、溜息をつきながらも、こう言った。

「そんな事してたら、また次の期末試験、追い込まれて私と一緒に直前で詰め込む事になるよ。創作もいいけど、勉強の方も・・・」

「私には、創作の方が大切なの。テストでいい点とったところで、私が死んでしまった後にはどうせ何も残らない。でも、詩や、歌は、生みの親が死んで何百年も経っても、消えないで残り続ける。生きた証になる、だから私もこうして、自分が生きた証を残したいんだよ」

和歌葉は、思うように筆が乗らぬ時の癖で、眉間に皺を寄せたまま、そこをシャーペンの指で押す部分でグリグリと揉む。それを見て、佳織が「もう、はしたないからやめなさい」とまた小言を言う。

佳織は、和歌葉の幼馴染で一緒の親友だ。小・中学校、そして高校とずっと一緒に進学してきた。だから、何処か、和歌葉に対しての物言いも、家族のように歯に衣着せぬ言い方になるというか、しばしば小言じみた事を言ってくる。

「佳織だって、私と同じ文芸部員なら、創作が、私の魂だって事は分かるでしょ?」

幼馴染となると、あまり相手に遠慮が無くなり、和歌葉も小言に対してはずけずけと言ってしまうところがある。

和歌葉も、目が疲れてきたところだった為、シャーペンを置いて、周囲を見回す。

教室の中は、この街で最恐と恐れられる心霊スポット・・・「お化け桜」と「幽霊池」で、また少女の水死体が発見されたニュースで朝から持ち切りであった。

「桜の下のオフィーリア、か・・・。上手い名前を付けたものだよね」

和歌葉はそう呟いた。

桜の下のオフィーリア・・・、その言葉を聞けば、何処で、どういった事件が起きたか、この街の住民であれば誰でもすぐに想像が出来る。

それは、この街の、ある場所にかけられた呪いの為だとされる、古くから続く怪異であった。

「・・・私、人が亡くなったのを、呪いとかオカルトに繋げて面白がるの嫌い・・・。本当に唯の自殺だったのかもしれないじゃない」

佳織はやはり優等生らしく、周囲で持ち切りとなっている話題について苦言を呈する。

「でも、昔から続いているあの怪異に関しては、私も、オカルト話とかそんなに信じる方ではないけど、あれだけは本物だと思ってる。だって、10代半ばの女の子ばかり池の水面に浮いて亡くなっていて、しかも、その周りには、季節に関係なく、桜の花弁が何枚も浮いてるなんて、こんなの唯の自殺では説明しようがないよ。しかも似たような事件が、私達のおじいちゃん、おばあちゃんの時代からずっと続いてるなんて」

和歌葉は、淡々と事実を積み重ね、佳織に語る。

「私は、あの『お化け桜』と『幽霊池』の伝承だけは、本当に呪いというか、怨念というか、あると思うな。それに、慰霊碑に書いてある、あの、昭和初年にあの桜の下の池で入水したっていう女学生さんの遺詠。池の畔に残されていた遺書に書かれていたって言う詩、私、結構好きなんだ。佳織も知ってるでしょう?」

「ええ・・・勿論。知ってるわ」

「『思ひ人 来たらず我は 水の底  水面の花は 美しからむ』。桜が満開の季節、池の底に一人、沈んでいった少女が見た、水面を覆い尽くす桜の花弁を思わせる、哀しい歌だよね。川底に沈んだオフィーリアが最後に見たのも、そんな景色だったんだろうね」

和歌葉は、夢見がちな目つきとなって、窓辺から見える、校門から校舎まで続いている桜並木の道に目をやる。まだ、窓からの隙間風が寒いようなこの季節、其処に、春になれば、無数の花弁の雪を降らせる桜色の雲海は当然ながら存在せず、葉もつかない殺風景な木が立ち並んでいるだけだ。

「和歌葉、昔からその歌が好きだよね・・・」

佳織がそう口にすると、和歌葉は、花も何もつけていない並木道から視線を佳織に戻して、答えた。

「うん。私にとっても、その歌は特別な意味のある歌だからね。あの日、池に落ちた私が、水の底から見たのは、正に、池の水面を覆い尽くす花弁達だったから」

和歌葉は、あの歌を口にする時、いつも目に浮かぶ光景があった。池の底へと、水を吸って重たくなった服に引かれて沈んでいく自分。その自分は、水面を埋め尽くす桜の白い花弁達を、池の底から見ている。池の水面を埋め尽くす花は、さしずめ、花の筵を水面に敷いたかのようだ。そして、花弁と花弁の間から薄く差し込んでくる零れ日が、線となって水面から差し込む様が美しかった。池に落ちているというのに、あの時の和歌葉に恐怖心などはなかった。ただ、水面を彩る桜の花弁の筵に心を奪われるばかりだった。

そして、その光の中、セーラーの白いリボンを靡かせながら、自分の手を引いて、優しく微笑みながら、自分を水面へと引き上げてくれた、あの、池の中の少女の姿・・・。

「あの日、私が池で落ちた日に、私を助けてくれた、制服の女の人がいたって、誰に話しても信じてもらえなかったよね、私・・・。信じてくれたのは、佳織だけだったよね。大人は皆、私が池に落ちて、混乱していただけだろうって言って、彼女の存在を信じなかった」

「和歌葉は、今も信じてるんだよね。池に落ちたあの日、あの池の幽霊が、和歌葉を助けてくれたって」

和歌葉は頷く。自分が、池に落ちた春の日に見た彼女の姿は決して幻影などではなかった。彼女が手を引いて助けてくれていなかったら、今頃自分はこうして佳織と話してはいなかったろう。

「皆は、『桜の下のオフィーリア』が起こる度に、あの桜に取り憑いた女学生の霊の仕業だ!怨霊だ!って怖がっているけど・・・もしも、あの時、私を助けてくれたあのセーラー服の子が『お化け桜』と『幽霊池』に潜む幽霊の正体なら、私は怖くはないかな。寧ろ、哀しい気がするよ。だって、私を助けてくれた時、あの子は・・・綺麗な笑顔だったけど、でも凄く寂しそうだったから・・・」

『お化け桜』と『幽霊池』。この二つの地名は、この街の住人の心に深く刻まれている。かつて起きた、ある一人の女学生の、非業の死。そして、彼女の死の後から始まった、『桜の下のオフィーリア』と呼ばれる、怪死事件と共に。

「そういえば、お化け桜のところには、和歌葉は今も行ってるの?皆、怖がってる場所だけど」

「うん。私は、あそこの『お化け桜』も、『幽霊池』も、怖くはないからね。人は来ないし、詩や、歌を書いていて息詰まった時には、今も放課後とかはあの桜の下に行ってるよ。あそこに行ってしばらく考えてると、何故か、結構いい文章が思い浮かぶんだ。まるで、桜に憑いた霊の女の子が、ヒントをくれるみたいにね」

和歌葉には、周囲から見れば奇習としか見えないような習慣があった。創作に息詰まった時、和歌葉はいつも『お化け桜』の下に行き、池の畔に佇んだり、時には腰かけたりして思索に耽る。そうすると、息詰まっていた事が嘘のように、すらすらと良い詩文が頭に浮かんでくるのだ。

次の授業の開始を知らせる予鈴が、二人の間に鳴り響いた。佳織は、まだ和歌葉に何か言いたげな表情ではあったが、

「次の授業は内職しないでちゃんと聞かないとダメよ」

と言い残して、自分の席に戻っていく。ガタガタと、生徒らが各自の席に戻っていく、その椅子の立てる音を聞きながら

「はいはい、分かってるって」

と、和歌葉は気のない返事を返す。


次の授業の時間、佳織は、身が入らなかった。和歌葉との話で、古い記憶が・・・、小学生の頃、『お化け桜』の下の『幽霊池』に和歌葉が落ちた時の記憶が呼び起されたからだ。あの日以来、和歌葉は、『幽霊池』で自分の命を救ってくれたという、少女の姿をした『霊』の事に、ずっと拘っている。

そして、その亡霊少女の話を語り、夢見心地のような目になる和歌葉を見る度に、佳織は複雑な感情に駆られるのだった。

『何十年も昔に死んだ人の姿ばかり追ってないで、私の事も見てよ・・・。今、生きて、和歌葉の隣で話してるのは私なのに』

などという、嫉妬のような感情が浮かんできては、次の瞬間には、自分の思考の馬鹿馬鹿しさに嫌気が差す。

『こんな事考えるなんて、まるで幽霊相手に嫉妬してるみたいね、私は・・・。本当に馬鹿みたい』

しかし、幼い日のあの記憶に話題が飛んだ時、和歌葉の目はいつも、目の前の佳織を見てはいなかった。彼女の目は、『幽霊池』で会った、自分を助けたという亡霊の少女の姿だけを見ていたのだ。

『生きていて、和歌葉の事を愛してるのは、私なのに・・・』

佳織は、自分の創作ノートを、授業中に机の中から引っ張り出して目を通す。佳織も、詩文や歌を沢山書いているが、それは和歌葉の作品とは異なり、愛や恋を唄ったものが多い。それらの作品は、佳織と和歌葉が所属する、学校の文芸部でも高い評価を受けていたが、その詩も歌も、佳織の、和歌葉への愛を唄ったものである事に気付いている人間は、部の中にも誰もいない。

詩文を、或いは歌を書く時、「貴方」という二文字を気付けば、「貴女」と書きかけている自分に気付き、それを消しゴムで消しては書き直す、というそんな事の繰り返しだった。しかし、自分の中の気持ちまでも、消しゴムで誤字を消すように、消し去る事は出来ない。

佳織は、前の席に座っている和歌葉の背中を見る。またシャーペンをノートの上で忙しく走らせているが、何か忙しく書き込んでいるのは、彼女の創作ノートだった。先程の創作の続きをしているのだろう。

あの、『幽霊池』に身を投げたとされる女学生の慰霊の祠の近くで、桜の季節に和歌葉が足を滑らせ、池の中に転落した事故が起きたのが和歌葉と自分が小学五年生の時だ。もう二人共今は高校一年生・・・四月がくれば二年生になる。あれから5年が経った今も、和歌葉は、あの池に転落した時に、女学生の姿をした霊に助けられた想い出に浸っている。彼女が、他のオカルト話は信じなくても、「お化け桜」と「幽霊池」の伝承だけは本物だと信じて疑わないのは、その出来事があったからだ。

そして、あの池で変死事件が何度か起きても、和歌葉があの池と、桜の下に出るという女学生の霊を全く恐れないのは、自分を助けてくれた霊だったからだ。

端的に言えば、小学生時代の和歌葉はその日、あの桜の下に水をたたえる池に宿る、亡霊の少女に「恋」に落ちたのだと言える。

まさか、亡霊の少女が恋敵な人間など、この日本の中でも自分くらいの者だろうという事くらいは、佳織も自信を持って言える。

和歌葉が、あの「お化け桜」が畔に佇む、「幽霊池」の亡霊少女に生者と死者の壁を

超えた「恋」をした・・・そして、あの場所に囚われるようになった日の事を、佳織は思い返していた。


それは、四月の頭、丁度、この街一帯の桜並木も、一斉にその花弁を咲き誇らせ、街の至る所に桜色の雲がかかっていた、二人が小学五年生に成り立ての事だった。

和歌葉の家は、この「お化け桜」と、「幽霊池」の仇名をつけられた、市内の○○池の保全活動を行っていた。この池と、桜には悲恋とそれにまつわる死の暗い過去がある。その為か、いつしかこの池と桜の一帯は心霊スポットのように扱われるようになり、身を投げた女学生の慰霊の祠も、周りは草が荒れ果て、悲惨な保存状態となっていた。

それを定期的に、和歌葉の家、月代家は保全活動として、草むしりや、祠に供え物をして、手厚く、女学生の霊を弔っていたのだ。

和歌葉は、小学生時代から、佳織にこう話していた。

「皆、どうしてあんなお化けが出るところに、私は平気で近付けるんだって聞くけど、私は皆が怖がる事の方が分からないよ。だって、あの池で、桜の下で、死んじゃった昔の女の子は、今も独りぼっちでずっと寂しい思いをしてるんでしょ?だから、私達の家は、その女の子の事を手厚く、弔ってあげようねって昔から言われてきたし、私も、そうしなきゃって思ってる。あの場所が、肝試しなんかに使われるのは嫌だ」

和歌葉も、幼い頃から、池に身を投げた女学生の境遇を悼む気持ちを持っていたようで、池の畔にポツンと寂しく建てられた祠に、最初は怖がっていた佳織と共によく学校帰り、手を合わせに行った。最初は、和歌葉が、あの池に、桜の下に行くと言っただけでも、佳織は逃げ帰りたい心地であったが、そうして、真剣に、その祠を大切にしている和歌葉の姿を見ているうちに、次第に、この池に潜むという女学生の霊の事を前ほど徒に恐れないようになっていった。和歌葉のいうように、亡霊の少女もまた、寂しいのだという気持ちが、荒れ果てていた祠を最初に見た時に、佳織にも分かったような気がしたからだ。

その祠の傍に置かれた小さな碑石に刻まれたあの歌を‐『思ひ人 来たらず我は 水の底 水面の花は 美しからむ』を、佳織が目にしたのも、小学生の時が初めてだった。最初はその歌の意味が、幼心には分からなかった。

‐まさか、それが、自分の思い人と満開の桜の下で心中を図る約束を裏切られ、失意と絶望の中、一人寂しく、池の中に沈んでいった女学生が最後に遺した歌だったなどとは。その事実を二人が知ったのは後年の事だった。小学生に教えるには、あまりに悲痛な背景だった為だろう。

徐々にあの池と、桜の木を怖がらなくなっていった佳織は、ある日、和歌葉から、桜の花も綺麗になった頃だから、花を見つつ、祠の掃除と周りの草むしりに行こうと誘われた。勿論二人ではなく、和歌葉の両親も付き添いの上であったし、昼間なら然程怖くはないだろうと思い、佳織は了承した。

昼間の池の水面には、『お化け桜』から、尽きる事なく花弁が風雪のように降りしきって、花の筵を作り上げていた。幼かった二人も、この光景には揃って

「綺麗・・・!」

と感嘆の声を上げたものだった。この花の雪で、桜色に染まっていく池の水面を見ていると、かつてこの池の中に、一人その身を沈めて、命を絶った女学生がいたという悲しい過去があるなど、信じられない。池の畔には、菜の花の黄色の花弁も青々とした草の中に目立ち、麗らかな春の昼間の風景がそこにはあった。

池の水辺には近寄らないように和歌葉と佳織の二人は言いつけられ、二人はしばらくは大人しく草むしりなどをしていたが、その単調な作業に二人はすぐに飽きた。

「暑いね・・・」

和歌葉はそう言って、額の汗を拭う。普段は図書館で本の虫となっているか、何か散文をノートに書き散らしている普段の姿(それは高校生になっても変わらないが)とは異なり、半袖シャツという動きやすい恰好で、そのほっそりとした無染の白い肌の二の腕までも、惜しげもなくさらけ出す和歌葉の姿に佳織は、どぎまぎとさせられた。学校での文学少女な印象の彼女との隔たりの為だろうか。

佳織も、動きやすい恰好で、水筒もタオルもしっかり用意はしてきていたが、やはり暑い。遂数日前までの、花冷えの季節も過ぎ去って、日差しを浴びていると汗ばんでくる陽気になっていた。

そうした中、すぐ近くに水辺があれば、近づいて、水遊びで涼みたくなるのも無理はないというものだった。

「佳織・・・!あれを見て」

和歌葉は、丈の長い草が半分程使っている水辺に目をやり、そう言った。其処には、池の水の流れで、無数の桜の花弁が集まってきていた。

和歌葉は靴を脱ぐと、ズボンを捲り上げて、草の茂る水辺の中に入っていった。

「佳織もおいでよ!池の水、冷たくて気持ちいいよ!」

佳織は

「え、ダメだよ、和歌葉!水には入らないでって、お父さん、お母さんに言われてたでしょ!」

と咎めたが、和歌葉は

「このあたりなら浅そうだから、大丈夫だって!佳織も入ろうよ。」

と言って、聞かなかった。佳織は、和歌葉の両親が目を離した隙を伺って、靴を脱ぐと、水辺に入っていった。足を水面の下に潜らせた途端に、ひんやり、心地よい冷たさが全身へと伝わってくる。そのまま、和歌葉と二人、水辺で水遊びをしていた。

そうした中、事故は起こった。和歌葉が少し調子に乗り、浅瀬を離れて、池のもう少し奥の方へ歩いて入ろうとしたときだった。彼女は急に姿勢を崩したかと思うと、花の筵に覆い尽くされた水面の中に没していった。

「えっ・・・?和歌葉、どうしたの・・・?和歌葉!」

和歌葉が池の深さを侮っていた為に、足を滑らせて、池の深みに落ちたのは明白だった。佳織は、悲鳴を上げて、急いで和歌葉の両親を呼んだ。たちまち、消防隊も通報で駆けつけて、池の一帯は騒ぎとなった。

佳織はタオルに身を包み、草の上に座り込みながら、ただ一心に和歌葉が見つかる事を祈っていた。

そうした中で、信じ難い奇跡は起こった。水底に沈んだとばかりに思われていた和歌葉の姿が、まるで、何か強い力で引き上げられるかのように突如、池の水面に浮きあがってきたのだ。

「和歌葉!」

和歌葉の両親と共に、佳織はタオルも放り出して、池の浅瀬に、引っ張られるようにして流れてきた和歌葉の元へと駆け寄った。彼女は、池の水面で、体のあちらこちらに桜の花弁を付けたまま、仰向けになって浮かんでいた。

一瞬、最悪の結末が頭を過ぎり、思わず佳織は叫びをあげかけた。しかし、その時、佳織は、和歌葉の胸が上下して、動いているのを見たのだ。そして、彼女の目が開いた。生きていた。その事が分かった時、佳織は極度の不安に強張っていた全身から力が抜け落ちる思いがした。

父親によって、すぐに池から運び出された和歌葉は、しかし、泣く様子もなく、何処か恍惚としたような表情であった。その時に彼女は、そこにいた両親、そして佳織に向けてこう話したのだ。

「池の底に沈んでいってる時に、白いリボンのセーラー服を着た女の子が現れて、私の手を引いて、笑って、水面に向かって引っ張り上げてくれたの。池の水面に浮いてる、桜の花弁の隙間から、零れる日を浴びて・・・、凄く綺麗な人だった・・・。でも、笑っているのに、何故かその女の子、寂しそうにしていた・・・」

和歌葉が、「幽霊池」に潜むと言われている、入水した少女の亡霊と初めて出会ったのは、この時だった。和歌葉の両親は、こんな話を勿論、信じはしなかった。和歌葉は溺れた精神的ショックで、幻を見たのだと、その事故の後、言い聞かせていた。

しかし、和歌葉は「幻なんかじゃない。あの時、確かに私を助けてくれた、セーラー服の女の子が、池の中にいた」と言い張り、両親を困らせていた。

学校に戻ってからも、水難事故からの奇跡的な生還を果たしてからの和歌葉の様子は明らかに変わった。元々、夢見がちな部分のある少女だという印象は佳織も持っていたが、それが更に増したように、授業中なども窓の外の日を眺め、何か物思いに耽っている時間が増えた。

和歌葉の行動の変化に、佳織も彼女の話を聞いた。和歌葉は教えてくれた。

「あの日・・・桜の花が沢山浮いていた池で、私が溺れた時に、私を助けてくれた、セーラー服の女の子の事がどうしても忘れられないんだ。あんな・・・笑ってる筈なのに、寂しくて苦しそうな笑顔、私は今まで見た事がないから」

佳織は、この話を聞いた時、和歌葉は、生者ならざる者に心を惹かれ始め、「恋」をしているのだという事に気が付いた。大人に話せば、正気を疑われてしまうだろう内容の話であったが、佳織に向かい、そう語る和歌葉の瞳に、虚偽の色は全くなかった。彼女が作り話などしている訳ではない事を、佳織は確信出来た。

「佳織は、信じてくれる?私が、あの池で、セーラー服の女の子に会った事」

佳織の目を、真っ直ぐに見つめながら、和歌葉はそう問いかけてくる。

佳織の心を鈍い痛みが貫いていった。自分は、和歌葉に惹かれ始めている。しかし、その和歌葉は、あの池に入水して、散っていった亡霊の少女に心を奪われ始めているのだ。その亡霊の少女の存在を断固否定して、和歌葉の両親と同じように「そんなの、溺れてしまったショックで見た、唯の幻だよ」と言ってしまえば、自分にとっては楽だろう。和歌葉の、初恋の相手を、桜と池が見せた幻として葬り去ってしまえるのだから。

しかし・・・和歌葉の事を大切にしたい自分として、自分の勝手な恋心の為に、和歌葉の恋心を幻として葬ってしまう事など出来ない。例え、その相手が、亡霊の少女だったとしても、自分は、和歌葉の気持ちを一番に考えたい。そんな綺麗事をお人よしにも思ってしまった、あの当時の佳織は、こう答えてしまった。

「うん・・・。和歌葉が嘘をついてなんかいないのは、分かってるよ。私は、和歌葉が会ったっていう、セーラー服の女の子が、あの池に、あの桜の下に、本当にいたって信じてる。例え、和歌葉のお父さん、お母さんも信じてくれなくたって」

その言葉を聞いた和歌葉の表情は、みるみる明るくなっていく。そして、和歌葉は急に佳織に抱き着いてきた。

「え・・・?な、何⁉」

「ありがとう、佳織・・・!信じてくれて。うちのお父さんもお母さんも、私があんまり、あの女の子の話をすると、私の頭がおかしくなったのかって心配するような目で見てくるし、クラスの子にも、試しに言ってみても嘘つき扱いされたし・・・、あの女の子は、本当に、皆が言うように、私の見た幻だったのかもしれないってあきらめようとしてた・・・。だけど、佳織が信じるって言ってくれるなら、私は、あの女の子は、あの時本当にいて、私を助けてくれたんだって信じられる・・・!佳織のおかげで信じる決心がついたよ!ありがとう!」

和歌葉に抱きしめられ、心は湧き踊る筈であったのに、その時の佳織の心は、哀しみの色に塗りつぶされていた。和歌葉が、其処まで自分の事を大事に思ってくれていたという事実、それは嬉しかった。しかし、その結果として、佳織は、和歌葉により強く、あの「幽霊池」に、あの日、確かにセーラー服の亡霊の少女がいた事を信じて、彼女の姿を追い求めるようになってしまったのだ。生きている自分ではなく、亡者に違いない、亡霊の少女の姿を。

嬉しさと、その一方で、和歌葉は自分ではなく、亡霊の少女の姿をこれから何度も夢に見て思い続けていくのだろうという哀しみとが入り混じった、味わった事のない感情に佳織は揺れ動いていた。

その時に生まれた感情は、五年の歳月を経て、今も佳織の中に生き続けている・・・。


和歌葉は、溜息をついて創作ノートを鞄にしまい込んだ。結局、今日は良い文章が頭に降りてこなかった。出てきたのは何処かの詩集や歌集で見た言葉の、焼き直しのようなものばかりだ。授業は勿論聞いていなかった。これは、きっとまた佳織に世話になるコースだろう。

『桜の下のオフィーリア』・・・和歌葉にとって、大切な場所であるあの、桜の下に広がる池の見せるもう一つの顔。少女らを時折、気まぐれのように呼び寄せては、死が待つ水底に誘い、オフィーリア宛らに、桜の花弁と共にその骸を池の水面に浮かべる、妖艶な美しさを伴う怪死事件。クラスで噂する声は、概ね「きっと、心中相手に来てもらえずに一人死んじゃった女の子の霊が、寂しさから、女の子の相手が欲しくて池に引きずり込んでるんだよ!」という意見だった。

あの日、自分を助けてくれた・・・桜の花弁に覆われた水面を背に、見た事がないような、寂しげな笑顔で笑って、自分の手を引いてくれたあのセーラー服の少女こそが、本当に『桜の下のオフィーリア』と呼ばれる怪死事件の元凶であるのだろうか。

和歌葉にとって、不思議にその二つは、あまり違和感なく結びついた。あの亡霊の少女が、思い人に裏切られ、一人寂しく入水したのであれば、歪んだ愛の求め方ではあるが、あの池に少女を引きずり込んでいるとしても理解は出来た。

ーしかし、その繰り返されてきたこの怪死事件も、もうじき、起きなくなる。

クラスの誰かが、今日の騒ぎの時も言っていた。

「でも、あの、女の子の霊が取り憑いてるんじゃないかって噂のあの桜も、そして池も、もうあと少しで無くなるんでしょ?再開発計画が出て、あの桜は伐採して、池も埋めちゃって、舗装するって聞いたよ」

「良かったよね、あの池を埋めて、桜も切っちゃえば、もうあんな変な事件も起きなくなるよ」

クラスの子らはそう言って、安堵の声を上げていた。

あの亡霊の少女にも別れを告げねばならない時が、迫っている事は和歌葉も知っていた。

市の再開発計画の為に、もうじき、あの「お化け桜」は伐採され、桜の傍の「幽霊池」も埋め立てられ、全てはアスファルトの下に消えてしまう。こんな計画がもうすぐ行われてしまう事を考えると、和歌葉ははらわたが煮えかえる思いがした。あの桜が、あの池が消えてしまったら、今も一人、あの場所に寂しく囚われたままの、あの亡霊の少女はどうなるというのだろう。

その事実を突きつけられ、最近の和歌葉は心が晴れない。

「和歌葉、今日も文芸部には顔を出さないの?」

佳織がそう聞いてきたが、和歌葉は首を振る。今は、あの場所で歓談に興じながら、何かを書きたいような気分ではない。もうすぐ、亡霊の少女に会えなくなる事を考えたら、そんな気分にはとてもなれなかった。

「いい・・・今日もやめておく。あそこでおしゃべりする気分じゃないんだ。詩も納得いくのが最近全然書けないし。」

「・・・あの、『お化け桜』と『幽霊池』が無くなるって話が出回ってから、ずっとそんな感じだよね、和歌葉。詩もスランプ気味で、書けていないみたいだし。あの、春の日に自分を助けてくれた、女の子の霊にもう二度と会えなくなるから?」

佳織は何でも見通している。和歌葉は頷く。

「皆が、心霊スポットか何かみたいに怖がっても、私の大事な場所はあの池の畔の、桜の下だけだから・・・。もう二度と、あの女の子を見る事は叶わなくっても、まだあの場所が残っている間は、あそこに行きたい」

「和歌葉・・・。私は今も、貴女があの日見た、女の子の霊の話は嘘なんかじゃないっていうのは信じてる。きっと、あの桜と池には、人ならぬ者は潜んでるんだと思う。だけど、生きている貴女が、そんな、片思いみたいに亡霊の女の子の姿を追って、どうするの?」

昇降口に向かい歩きながら、佳織は、何処か、機嫌の悪い口調でそんな事を、自分の横から言ってくる。佳織も、最近は和歌葉に合わせてか、文芸部は休み、こうして下校の時は同じ時間に一緒に帰るようになっていた。

「それでも、こうして通い詰めてれば、いつかは会えるんじゃないかって思うから・・・あの池の畔の、桜に背中を預けてるとね、本当にあの女の子の姿は見えなくても、気配なら感じることがあるんだ。気のせいなんかじゃなく、本当に」

和歌葉は、未練がましい言葉を並べている事は自分でもよく分かっている。詩作に息詰まった時、あの場所に足を運び、彼女の気配だけでも探してしまう事が、佳織から見れば、きっと不毛な行動であろう。

二人が、そんな話をしていた、その時であった。佳織の鞄の中のスマホが鳴った。

佳織はスマホを取った。相手は、声からして、和歌葉も良く知っている、彼女の母親だ。その声は切迫した者だった。

「え・・・⁉分かった、すぐに家に帰るから!」

そう言って、佳織は慌ただしく電話を切る。佳織の顔色が急に悪くなっていくのが分かり、和歌葉は尋ねた。

「何があったの?」

「それが・・・私のお祖母ちゃんが倒れて病院に運ばれたって!ごめん、和歌葉!今日はちょっと急いで帰るから!また明日!」

佳織はそう言うと、和歌葉を昇降口の靴箱の前に残したまま、急ぎ、学校の玄関を小走りで飛び出していった。

和歌葉も、佳織がお祖母ちゃん子である事はよく知っている。気が気ではないのだろう。

‐この時は、和歌葉は、この佳織の祖母の急病が、のちの自分と佳織、そして、あの「お化け桜」と「幽霊池」について大きく関わってくる出来事になるとは、想像もしていなかった。

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