第10話

「吉根。お前いい加減酒やめろ」

「………………………………うー、頭痛い」

 朝も昼もなく、眠れるまで飲み、目が覚めた瞬間から酒を飲む生活を始めて数日、ついに葉名から禁酒令が出された。

 窓から差し込む朝日に、くまの濃い顔をしかめ、そっぽを向く。

 ガシガシと、汗でべとべとする髪の毛を搔きむしる。

 ヘアピンはいつの間にか外れていたようで、床に酒の空き缶と共に転がっていた。

「おさけ、きつい」

 言って、ビールに手を伸ばす。

 葉名はその手を払って言った。

「やめろっつってんだろ。お前、今日何曜日かわかってるか?」

「…………さあ。火曜くらいすか」

「木曜だよ」

「そすか」

「学校休むのは構わんが、毎日ゲロ吐いてまで飲むのはやめろ。死ぬぞ」

「別に、死んでも困んないでしょ」

「ゲロの処理も死体の対応もアタシの仕事なんだが」

「あー、それはすいません」

「あと風呂入れ。かなり臭いぞ」

「とんだごめーわくを」

「一ミリも思ってねえなこいつ」

 嘆息。

「野田。悪いが頼むわ」

「うっす」

 脳内に疑問符を浮かべている間に、葉名の後ろから野田が現れた。

「野田君? なんで?」

「おう。とりま、シャワー浴びんぞ」

「あ、うん……うん?」

 状況が理解できないまま、野田と三星に両脇を抱えられて、無理やり立たされた。

 この数日間、トイレ以外で立っていなかった身体がフラリと倒れそうになる。

 野田に、左側から体当たりで支えられた。

「着替えはアタシがもってくから、先に風呂入れといてくれ」

「了解っす」

 野田に支えられ、よたよたと部屋を出る。

 それから隣の風呂場へ入り、ぽいぽいと野田になされるがままに衣類を脱ぎ、全裸になった。

 間もなくGWとはいえ、早朝の脱衣所は寒い。思わず両手で身体を抱える。

「うーし、ここ座って」

 同じく全裸になった野田の誘導に従って、風呂場の椅子に座る。

 鏡に映った自身の顔を見てビビった。

 べたべたでぐしゃぐしゃの髪。死んだ魚のような濁った目と、濃いくま。やつれた頬。伸びっぱなしのひげ。

 ブサイクだなと思った。

「頭からかけるぞ」

 シャワーが頭から降り注いだ。

 反射的に目をぎゅっとつむり、顎を引く。

 温かさに、自然と顔の力がほどける。

 身体が溶けるような気持ちよさ。

 だんだんと、脳内がほぐれていくような感覚になった。

「お客さんかゆいところはございませんかー」

 野田の楽し気な声。

「だいじょぶ」

 思ったより、あっさりとした声が出た。

「おっ」野田の声が弾むのがわかった。「シャンプーしてくぞ」

「うん」

 なされるがままに、頭をわしゃわしゃされた。

 シャワーで流して、トリートメント。

 それも流し終えて、ボディーソープでタオルを泡立たせる野田に、カズマはゆっくり言った。

「自分でやるよ」

「そうか?」

 温かいお湯で、ようやく頭が働き始めた。固まった身体がほぐれてきた。

 二日酔いの頭はまだ痛い。身体の動きも緩慢で、洗ってもらった方がよっぽど早く終わる。

 それでもカズマは、しっかり泡立てたタオルを使って、少しずつ、少しずつ身体に積もった汚れを落としていった。

 そうしてすべてを終え、シャワーを頭からもう一度かぶる。口を開け、お湯を飲む。

 こんなに美味しいお湯があるのかと思った。

 蛇口を止め、俯いて、深く息を吐く。

 頭を上げた。

 くまはとれていないし、ひげも剃っていない。

 それでも、鏡に映った己の顔は、先よりも少し明るく見えた。

 脱衣所に戻ると、葉名の言っていた通り、着替えが用意してあった。

 サラサラの下着と、制服を順に着ていったところで一瞬、呼吸が止まった。

 一番奥に、ヘアピンが転がっていた。 

 目を閉じて、深くゆっくり息を吐く。

 ヘアピンを手に取り、ポケットに突っ込んだ。

「この間はごめん」

 カズマの言葉に、野田がきょとんとした。

「何が?」

「野田君の部屋行った望子を、守良先輩のとこに連れて行ってくれたって聞いたから」

「あぁ。あの時はさすがに驚いたぜ。すげえ熱でフラッフラしてて今にも倒れそうだったわ」

 カラっと笑って言う。

「訊かないの?」

「何が?」

「……いや。なんでもない。ありがとう」

「困ったときはお互い様、だろ?」

 制服を着終えた野田が歯を見せて笑う。

 それから部屋に帰ると、スーツ姿の葉名が出勤するところだった。

「ようやく起きたな。吉根、この際授業には出なくてもいいから、とにかく学校に来い」

「俺も授業サボっていっすか?」

 はいはーいと、野田が手を挙げる

「お前は出ろ。遅刻したら容赦なく成績につけるからな」

「ちぇー」

 口角をとがらせる野田を放置して、葉名は出勤していった。

「そんじゃ、俺は飯食ってから行くけど、一緒に行くか?」

「……いや、一人で、大丈夫」

 カズマの返答に野田は数瞬悩むそぶりを見せたが、

「わかった」

 明るく言って男子フロアの方へ帰っていった。

 良い人に恵まれたな、と、我ながら思った。

 野田も葉名も、望子については何も言わなかった。問わなかった。

「とりあえず、出るか」

 腹はまだ減っていない。というか、朝も晩もなく酒を飲みまくったせいで胃が荒れて、何も受け付けられそうにない。

 今日の授業はなんだったか。まだ働かない頭で数秒間考えて、断念した。財布とスマホだけ鞄に突っ込んで部屋を出る。

 部屋のねばついた空気の中に長くいると、また出られなくなりそうだった。

 寮の玄関を出て、強烈な朝日に思わず目を閉じる。瞼の上から、オレンジの輝きが脳をダイレクトに刺してきた。

 何も考えずに足を踏み出す。歩いているうちにどこか知らない場所にたどり着けないものか。そんなことを思った。


 まだ登校には早い時間だからか、校門付近には誰もいないが、運動部の朝練の声は良く響いてきた。

「やっぱ教科書持ってくるべきだったかなあ」

 どうしようかと宙を見上げて、ふと思い出した。

 屋上の鍵を、三星からもらっていた。

「立ってるのしんどいしなあ」

 言い訳するように小さくつぶやいて、校門をくぐった。

 後ろめたいことはないはずだが、気持ちこそこそと隠れるように校舎へと侵入した。ひーひー言いながら階段を登り、屋上の扉にたどり着く。

 鞄から鍵を取り出し、扉を開けた瞬間、ぶわっと風が吹いた。

 数歩進んで、大の字になって寝転んだ。

 目を閉じると、春の陽気と風に全身を包まれ、思いのほか心地良く感ぜられた。

 ここ数日の、眠れないから酒を飲み、限界がきたところで気絶するように眠る生活。不摂生によって蓄積した身体への疲労が、背中を通じてコンクリートに染み出していくようだった。

 と、

「吉根君、立派な不良になったねえ」

 頭の向こうの方から声がかかった。目を開けて声の方を見やると、長いスカートをたなびかせる三星がカズマを見下ろしていた。

「先輩。どうしてここに」

「学校に来たは良いけど、授業出るのがだるくて」

 教室にすら行っていないのだろう。鞄を置いて、カズマの隣に腰を下ろした。一瞬、スカートがふわりと空気を吸い込む。

 カズマも身体を起こして、彼女に肩を並べる。

 やはり三星はパーソナルスペースが狭いのか、距離が近い気がした。尻半個分座る位置を調整する。

「吉根君、朝っぱらから屋上に来るなんて、教室に居場所ないの?」

「先輩こそ、受験生なのに不良してていいんですか?」

「大学受験ってあんまり内申関係ないらしいし、いいんじゃない?」

「勉強できるんですか」

「そこそこね」

 涼しい顔で言って、ポケットからタバコを取り出した。

 咥えて、火をつける。

「先輩、一本もらっていいですか」

 カズマの問いかけに、三星は目を丸くして二度見した。

 数瞬の何か言いたげな表情を経て、一本取り出した。

「一気に吸い込まないように。少しずつね」

 カズマに咥えさせて、ライターで火をつける。

 三星のアドバイス通り、小さく息を吸った。

「ッッ! ゲッ! ゴホッゴホッ!」

 煙と喉の焼ける感覚に、思わずむせた。

「はは」

 三星は笑いながらカズマの背中をさする。

「うー、けむい」

「煙を吸ってるからねえ」

 涼し気な顔で煙を吐く三星。

 カズマはそれからも何度か挑戦したが、結局うまく吸えず、ひたすらえずくだけだった。

「最初のうちはそんなものさ。慣れたらもっと楽に吸えるようになるよ」

「いや、もういいです」

 目尻から出てくる涙をぬぐって、三星の携帯灰皿に捨てる。

「こんなのが美味しいんですか?」

「別に?」

 平然と言って、三星もぐしゃりと灰皿に押し付けた。

「高いし臭いし美味しいわけでもないし健康にも悪いし、一つも良いことないよ」

 なんで吸っているんだ、と思ったが、そういえばこんな話は以前もしたなあと思った。

「それで、何があったんだい?」

 三星の急な問いかけに、目を丸くした。

「何が、ってのは?」

「祭ちゃんはいきなりモリヨシの部屋に帰るし、君は連日学校サボって酒浸りだし、タバコも吸うし。何もないことないでしょ」

 ぐむ、と、喉がつっかえる。

 葉名も野田も触れてこなかった傷口に、べったりと手のひらを押し付けてくるような言葉だった。

「話したくないならそれで良いよ。ただ、これでも寮長だから、一応ね」

「寮長らしいこともするんですね」

「君、私に対しては結構言うねえ」

 そもそも半ば騙される形で葉名との相部屋生活が始まった時点で、三星のことは信用していない。

 カズマは一つ息をついて、青空の向こう、山を覆う雲を見やった。

「ストックホルム症候群って知ってます?」

「聞いたことはある気がするけど、なんだっけ」

「誘拐とか監禁とかの被害者が、加害者に同情したり好意を抱いたりする現象のことです」

 1973年、ストックホルムで発生した銀行強盗に際して、監禁された人質たちが、次第に犯人をかばったり協力するようになった。

 そのことから、極限状態において、被害者が犯人に肯定的な意識を向けるようになる現象を、ストックホルム症候群と呼ぶようになった。

「強盗でもなんでもいいですけど、罪を犯すとするじゃないですか」

 カズマは所在ない両手をすり合わせて、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。

「それで、被害者が加害者に感情移入するようになって、加害者を無罪放免したとして、この場合、加害者は許されるべきだと思います?」

「被害者がどう言おうと、警察が黙ってないんじゃない?」

「警察に見つかる前に内々に許され、終わったとしたら?」

「その仮定が成立するとは思えないけど」

「たとえ話が苦手なんで。すみません」

 ううん、と頭上を見上げて唸る三星。

 カズマは両手で膝を抱えて、コンクリートを見下ろした。

「要するに、他人を傷つけた時点で、誰がなんと言おうと、許されるべきではないんじゃないかって話です」

「許す許さないを決めるのは、警察や裁判所じゃない?」

「違います。結果的に警察のお世話にならない悪だって、たくさんあります」

 カズマの犯したのがまさにその、警察の関わらない罪であった。

 望子を階段から突き落としたのも、勢い余って野田を倒して頭から出血させたのも、内々に処理されたが、まぎれもなくカズマ自身の手によって引き起こされた怪我である。

「で、それは、祭ちゃんと君の話?」

「……ぼかしてるところを、突っ込まないでください」

「はは。ごめんね。つい」

 三星は小さく笑って形だけ謝る。良い性格をしているなと思った。

「先輩、僕のヘアピンのこと似合ってないって言ってましたよね」

 カズマはポケットからヘアピンを取り出し、右手に乗せた。

「似合っちゃいけないんですよ。これは僕の、望子への罪の記録だから」

「真面目だねえ。善だの悪だの罪だの罰だの、疲れない?」

 思いつめたような表情のカズマに、三星は肩をすくめた。

 カズマは彼女の言葉の意味を図りかね、首をかしげる。

 三星は再びポケットからタバコを取り出して、火をつけた。

「犯罪者ってどうして犯罪者になるのかわかる?」

「それは、悪いことを考えて、他人を思いやらなくて、自分の利益第一で動くから、ですかね」

 思いついた順に言葉を重ねてゆくカズマを、三星は煙を吐きながら冷めた目で見つめた。

「吉根君さ、環境問題について語る時、地球に優しくとかそういうフレーズ使うタイプだよね」

「……全然意味分からないんですけど」

「サイコロで大きな目を出した方が勝ちっていうゲームがあったとしてさ」

「なんなんですか」

 コロコロ変わる話についていけず、思わず突っ込んだ。

「いいからいいから。吉根君は、そのゲームで六の目を出した人を尊敬する?」

「するわけないでしょう」

「一の目を出した人を蔑む?」

「ないですよ」

「どうして?」

「運なので」

「そうだね」

 三星は涼しい顔で、タバコをヒラヒラと振った。

「人生って、多分、このつまんないゲームなんだよ」

 煙が青空へ上り、白く濁らせる。

 カズマは、反射的に口をつきそうになった否定の言葉を飲み込んだ。

 三星の目が、あの日、ベッドの上で見せたものと同じ色をしていたから。

 望むものはなんでも手に入れられそうなこの人が、どうしてこんな目をするのか。

 ずっと気になっていた答えを聞きたくて、カズマは言った。

「サイコロの出目も、頑張れば操作できるんじゃないですか?」

「凶悪犯罪者って、幼少期虐待されて育った人が多いんだって。私たちには想像もつかない、壮絶な痛みと苦しみに耐え続けて、歪んでいくんだろうね」

 火のついたタバコをカズマの眼前に掲げる。

 カズマは反射的にびくっと身体をひっこめた。

 三星は満足げに口角を上げて、携帯灰皿へ押し込んだ。じゅっと、数百度の火が押し付けられる音。

「頑張れるかどうかも、運なんだよ」

 透明な息を吐いて、言った。

「それで、加害者が許されるべきか、だっけ? 心底どうでもいいね。罪も罰も必要ない。被害者も加害者も、運が悪かっただけだよ」

 冷たく言い放って、身体を後ろに投げ出した。

 ごろんと横たわって、話は終わりとばかりにカズマに背を向ける。

 カズマは三星の言葉を反芻し、脳内で咀嚼した。

 なるほどその通りかもしれない。そう思う部分は、たしかにあった。

 小学生のころ、水泳でカズマはそこそこのところまで行ったが、一方で同じくらい練習していた望子はからっきしだった。

 反対に、明らかにカズマたちよりサボっているのに滅茶苦茶泳ぐのが速い人もいた。

 運と努力。

 そういえば葉名も似たようなことを言っていたな、と思った。

 もしかしたら、三星が葉名にグイグイ行くのは、葉名に対して同質なものを感じているからなのだろうか。

「……ん?」

 そこまで思案したところで、ふと引っかかった。

 三星は、本当にすべてが運であると思っているのだろうか。

 すべてが運や才能で、努力には価値がないと。

 三星の言葉を、行動を、脳裏に思い返す。

 初めて出会った日から今日に至るまで。寮の玄関。学校の屋上。水族館。彼女の部屋の中。山道。

 そして、今。

 カズマの目には、目の前の三星が一番、薄っぺらく見えた。

「先輩、以前僕に、諦めないようにって言ってくれましたよね」

 カズマの問いかけに、三星はぴくりと身体を震わせた。

「言ったね」

 こちらを見ないで、静かに肯定する。

 声がやたらと渇いて聞こえたのは、きっと気のせいではないだろう。

 身体の芯が冷えるような感覚。だが、カズマは尚も問うた。

「これ、運に任せないようにっていう意味ですよね」

「……」

「先輩は、諦めたんですか?」

「……………………そうだよ」

「嘘ですよね」

 じろりと、三星が振り返った。

 その目には、先ほどとは正反対の、強い感情が宿っていた。

 もうこれ以上喋るな。

 何も言わずとも、彼女のまなざしがそう語っていた。

 それでも、カズマは止めない。

 まっすぐ三星を見つめ返して、己を奮い立たせた。

「先輩、全然諦めてないですよね。タバコ吸うし、先生の前でだけキャラクター違うし、デートに誘うし」

「違う」

「生徒扱いされることを不満に思って、先生の特別になろうと、努力してるじゃないですか」

「してない」

「人生が運だけじゃないって、先輩も思ってるんですよね」

「思ってない」

 三星の温度を感じさせない声。

 カズマの鼓動は激しく音を鳴らし、喋りすぎた口の中が渇く。顔の筋肉がひきつる。

 それでも睨みつけるように、三星の大きな目をまっすぐに見つめた。

 望子に比べれば三星の眼力くらい、どうということはない。

 すくみ上がる心に言い聞かせて、三星へ問うた。

「なんで諦めたフリしてるんですか」

「フリじゃない!」

 ついに三星が怒声を上げた。

 身体を起こし、カズマの胸倉を掴んだ。白目も見えるほどに見開いた目を極限まで寄せ、言った。

「私の苦しみも絶望も知らないくせに、言葉尻をとらえて、わかったようなことを言うな」

 静かな、感情を抑えた声。

 だが、それでも。カズマは、震える声で答えた。

「人生がすべて運だとしても、僕は、それに身を任せたくはないです。三星先輩のように、抗って生きていきたいです」

 至近距離で睨み合う二人。

 十秒、二十秒。どれくらいそうしていただろうか。三星が無造作にカズマの胸倉を離した。

 咳き込むカズマに、三星が再び手を伸ばした。

「吉根君、これが君の罪の象徴だっけ? くだらないね」

 右手のヘアピンを奪うと、三星は立ち上がり、屋上の端へ歩き始めた。

「こんなものに囚われているから、君は自分を大罪人だなんて驕るんだよ」

 柵にもたれかかり、カズマを向く。

 ひらひらとヘアピンを振って言う。

「傲慢な考えは捨てな。祭ちゃんも君も、運が悪かっただけ。気に病む必要はない。サイコロの出目を後悔したところで意味がない」

 困惑の表情を浮かべて歩み寄るカズマから視線をそらして、柵の向こうを向く。

「無駄に荷物を増やすことはない。背中を軽くして、ただ気持ちのままに生きていけば良いんだよ」

 言って、大きく振りかぶった。

 気持ちのままに。三星の言葉が胸の中を走る。自分の気持ち。

 葉名にも以前同じようなことを言われた。

 望子の幸福のことばかりで、自分のことを考えていないと。

 カズマ自身の気持ち。

 心臓がぎゅっと縮む。

 瞬間的に、足が出た。

 カズマの両手が三星の右手を掴む。

「いづっ」

 顔をしかめる三星。カズマは反射的に力が抜けそうになる両手に活を入れて、ぐいぃと引っ張る。

 絶対に放さない。たとえ三星が痛みを訴えてこようと、このヘアピンは渡さない。

 三星の手を力いっぱい掴み、見開かれる目をまっすぐに見つめて、口を開く。

「傲慢でもなんでもいい。僕は、望子への罪を忘れて生きていきたくはないです」

 じっと、至近距離の三星の顔から目をそらさずに見つめる。

 数秒間。十秒にも満たない時間、二人の間に、沈黙が下りた。

 ふっと、三星が頬を緩めた。

「吉根君。痛いよ」

 カズマの手にかかる抵抗がなくなり、慌てて手を離す。

「す、すみません! 怪我はないですか? 痕が残ったり……」

 おろおろと三星の右手を心配する。

 三星はそんなカズマの様子に、「はは」小さく笑った。

 春の風が、二人の間を抜けていく。

「あー。スッキリした」

 三星が両手を上げて伸びをする。その顔に浮かぶ笑みは、今まで見た中で一番、彼女の内側にあるように見えた。

「スッキリ?」

「君の、この世の終わりみたいな表情に無性に腹が立ってね」

「す、すみません」

「けど、今のは、良い顔だったよ。格好良かった」

 歯を見せて言うと、三星が鞄からノートを取り出した。

「返しそびれてた。ごめんね」

 ハンコノートだった。受け取ると、三星は屋上の出入り口へと歩き出した。

 同時に予鈴が鳴り響く。

「君はもう、酒を飲んだ事のない状態にも、喫煙経験のない人にも戻ることはできない」

 右手をひらひらと振る彼女の頭上に広がる空は、雲一つない、鮮やかなブルーだった。

「吉根君の選択が良い結果になるよう、祈っているよ」

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