第9話


 いざ望子がいなくなると、八畳の空間はやたらと大きく感じられた。

 ノックが妙に大きく響いた。

 返事をする気力もなく無視していると、がちゃりと勝手に開けられた。

「あら、カズマ君。ごめんなさい勝手に入って」

 守良だった。

「さっき、望子ちゃんが一九君に連れられてうちの部屋に来たんだけど、どうしたの?」

「野田君?」

「なんか望子ちゃんが一九君の部屋を訪れて、そっちでは泊められないからってわたしの部屋に連れてきたみたい」

「それは、すみません。野田君にも」

「ケンカでもしたの?」

「怒らせてしまって。望子、風邪ひいてるんですけど大丈夫ですか?」

「見るからにフラフラしてたから、ベッドに寝かせてるわ」

「すみません、僕のせいで」

「いいのよ。一応本来のルームメイトなんだから。でも一九君にはあとでお礼言っておきなさいね」

 はい、と力なく答える。

「望子ちゃん、部屋には帰らないって言ってるから、いったんお布団もらっていって良い?」

 手伝います、とでも言うべきなのだろう。しかし今は、身体が動く気がしなかった。

 それから守良は数回に分けて、望子の布団や着替えなどを持ち出した。

 守良は腰に手を当て、ふぅ、と満足げに息をついて部屋を見回した。

 望子の分がなくなるだけで、ずいぶんすっきりするなと思った。

「仲直りは早いにこしたことはないわよ。時間が解決してくれるなんて言うけれど、傷口が化膿してぐちゃぐちゃに腐ってしまうこともあるもの」

 血が凝固し、かさぶたとなり、気が付いたらはがれて元の綺麗な皮膚が再生する。

 そんな怪我ばかりではない。

 手足を切り落とされるような大怪我は自然治癒しないし、軽い傷も放置していれば傷口はじくじくと痛み続ける。

「なんて、受け売りだけれど。迎えに来るときは連絡してね」

 手をひらひら振って、守良は去っていった。

 カズマは座っているのすら億劫で、床に寝転んだ。

 ぼーっと天井を見上げる。

 去り際の望子の言葉が、脳内に幾度もリフレインする。

 昔みたいな関係に戻りたかった。

 侮蔑と、悲哀と、落胆の入り混じった目をして、彼女はそう言った。

 昔みたい、とは、どういう関係なのか。

 彼女とは実家が隣同士だが、まともに仲良くなり始めたのは小学一年生で同じクラスになってからだった。

 望子は当時、とにかく明るく、誰とでも分け隔てなく仲良くする、教室の中心的な人物だった。

 それから何年かは、クラスが離れたりくっついたりしつつも、登下校は必ず一緒に行い、放課後もしばしばお互いの家で遊んだ。

 風邪をひいたら看病の真似事をしたり、お小遣いを合わせてゲームを買ったりもした。

 カズマが望子の顔に消えない傷をつけたのは、小学六年生の秋だった。

 しばしの入院生活を終え、教室に戻った彼女は、当初は従来通りの明るい性格で、傷痕にぎょっとする周囲を笑い飛ばしていた。

 が、いつのまにか彼女はカズマ以外と関わることがほとんどなくなっていた。

 カチューシャを身に着け、前髪を上げ、反対に視線を地面へ向けるようになっていた。

 結局この間に何があったのかは、今でもわかっていない。

 ただ、昔のような明るくて人々の中心に立つ望子の方が、今の彼女よりも幸せであるのは間違いない。

 あの頃の方が、笑顔が多かったから。

 そう考えて、そうなるように、カズマは行動してきた。

 自分が傍にいては、望子は自分に気を遣うばかりである。

 だから彼女と物理的距離を取るために、彼女のレベルに釣り合わない全寮制の高校に来た。

 入寮時、野田の望子への対応に希望を見た。彼ならきっと望子を昔みたいに戻すことができる。

 そう思ったから入学式の日、一番最初に野田に声をかけた。彼氏になるよう打診した。望子に野田の存在をアピールした。

 見立ては正しかった。野田は明るく、気が利いて、誠実な男だった。

 愚かなのは、カズマの方だった。

「結局、笑顔どころか、怒らせちゃったなあ」

 一人ごちる。

 入寮初日のあの怒りとは、今回は話が違う。

 右手の痛みという、彼女への罪と罰を失ってしまったこと。

 そんな自分の無責任さと、身勝手さへの絶望。

 それに、望子は失望し、激怒したのだ。

 きっともう元には戻れないのだろう。

 ぐるぐるとそんなことを考えながらぼーっと天井を見ていると、いつの間にか日がだいぶ傾いてきたのだろう。どんよりと部屋の中が薄暗くなってきた。

「ただいまーっと。……あれ、祭は?」

 ノックもなしに扉が開き、この部屋の主、葉名が帰ってきた。

 電気をつけ、コンビニ弁当を片手に怪訝そうに尋ねる。

「……あぁ、先生」

 緩慢な動作で葉名の存在を確認したカズマは、うまく回らない舌で何とか事情を説明した。

 腰を下ろして黙って聞いていた葉名は、カズマが話し終えると、おもむろに立ち上がった。

「守良が看てるならそれでいいか。よし、飯でも食いに行くぞ」

「……今、そういう気分じゃないので」

「明るく談笑しようなんて言わねえよ。どんなに悲しくても腹は減るし、出るもんは出る。生理現象は機械的にこなせ」

 そうは言われても、そもそも外に出る気力すらわいてこない。

 座り込んだまま立ち上がる気配すらないカズマに、葉名は嘆息して、手持ちのコンビニ弁当をテーブルの上に置いた。

「やるよ。腹が減ったら食え」

 言って、部屋を出て行った。

 それから外で食事を済ませた葉名は、部屋に帰るとさっさと風呂を済ませ、寝る準備を整えた。

 葉名は部屋の電気を消すことなく布団の中に潜り込み、アイマスクをした。

「お前も遅くならないうちに寝ろよ」

「あぁ、すいません」

 力なく謝って部屋の電気を消し、カズマも布団の中に入った。

 葉名の寝息を耳にしながら、頭の中で同じ思考がぐるぐると巡る。

 瞼は確かに重いのだが、身体がソワソワと落ち着かず、全く眠れる気配がない。

 そういうときは寝酒が良いと以前葉名が言っていた。もそりと身体を起こす。

 葉名の睡眠を邪魔しないよう、スマホの明かりで部屋の隅、酒のコーナーへ手を伸ばす。

 どれでも良かった。とりあえず、一番近くにあった紙パックを手に取る。CMで時折見る、葉名が安物と言っていた日本酒だった。

 机の上に放置されていたマグカップにどぼどぼ注ぐ。

 お金は後払いで良いだろう。そもそも、ここにある奴はどれを飲んでも良いと気前の良いことを言っていた。

 一口含み、「ぉえっ」吐きそうになったところを、すんでのところでこらえる。

 葉名は先日米の風味がどうのこうのと言っていたが、全く理解できない。ジュースの方が百万倍美味しい。

 えずきそうになるところをこらえ、無理やり胃まで流し込む。喉の焼ける感覚。

 不味い。不味くて良い。

 美味かったら、それこそ意味がない。

 酒を再びマグカップに注ぐ。

 抵抗する理性を押し切って、喉奥に流し込む。

 そんなことを何度か繰り返していると、だんだん身体がぐらぐらしてきた。

 あぁ、これが望子が言っていたやつか、と得心した。

 飲んだ量を考えると、多分、自分は望子よりかなりお酒に強いタイプなのだろう。

 別に、だからどうという事もないが。

 窓をふと見ると、水滴がついていた。きっと雨が降っているのであろう。

 わざわざ外の様子を確認する気にもならず、再び視線を手元の酒に戻す。

 酸っぱいような、表現のしにくい変なにおい。

 親がお酒を飲むような家庭だと、多分こういうのにも慣れているのだろう。

 そういえば望子の両親はお酒を飲む人たちだったなと思った。

 だから望子は誕生祭の日、抵抗感なくお酒を飲んだのだろうか。

 幼馴染として、彼女のことをよく知っているつもりでいたけれど、全然だった。

「全然、何も知らなかったんだな」

 自嘲気味に呟いて、日本酒をあおった。

 お酒を飲んだら世界がぼやけて見えるようになると、誰かが言っていた。

 ぼやけているのは望子に対する理解だけで、脳内はずっとグルグル回ってて、何も変わらないなと思った。

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