第8話
「38度5分。完全に昨日の雨だな」
体温計を確認した葉名が冷静に言った。
布団の中で苦し気に呼吸をする望子が、上気した顔で恨めしそうに窓の外を見上げる。
結局雨は望子が帰ってきて間もなく止み、それ以降はずっとドンヨリとした空模様を窓から見せつけてきていた。
シャワーを浴びて着替えた後、望子はしばらくピンピンしており、カズマが元気であることを理解した後はハンコ巡りに奔走していた。
が、日が暮れたあたりでやたらと寒がりだし、早めに入眠したのだが、すでに手遅れだったようだ。
「だから大人しくしてろって言ったんだがなあ」
「センセーと、違って、若いんで、大丈夫と、思ったんです」
「いらん事言ってないで寝てろ」
ガラガラの喉で途切れ途切れに憎まれ口をたたく望子の額を、冷えピタの上からぺちっと叩く。
「アタシは今日は研修があって、これから出かけにゃならん。つうわけで、看病は任せた」
葉名は吉根に言うと、鞄を取って立ち上がる。
日曜日なのにスーツ姿なのはそういう事だったのかと合点する。
「何時ごろに帰ってきます?」
「わからんが多分夕方になるだろうな。まったく、面倒くさい」
ぶちぶちと呟きながら部屋を出て行った。
葉名を見送って、扉を閉じる。
望子の荒い呼吸だけが二人の間に沈んだ。
小学生のころ、風邪を引いた望子に看病の真似事をした記憶はあるが、実際に何をしたかはほとんど記憶に残っていない。
果物の缶詰を開けて食べさせたような記憶はあるが、残念ながら現在手元には一つも缶詰の備えがない。
そもそも風邪をひいたときの必須アイテムたちが一つもない。
体温計と冷えピタだけは寮の備品として残っていたが、風邪薬もポカリも簡単に食べられそうなものも何も用意できていない。
どうしたら良いかわからず、とはいえ突っ立っていても仕方ないので、とりあえず望子のそばに腰を下ろした。
「望子、何か食べる?」
「いい……。喉、乾いた」
緩慢に目を開いて、かすれる声で言われる。
「待ってて」
玄関前の自販機で水を買って、部屋に戻る。
「起きれる?」
カズマの問いかけに、望子は重そうに身体を持ち上げてペットボトルを受け取った。
「水でごめん。後でポカリ買ってくる」
「ううん。おいし」
何回かに分けて飲み干し、ほっと表情を和らげた。
「少し、寝るね」
ゆっくりと横たわり、布団をかぶった。
「カズマ、そこにいてね」
「うん。おやすみ」
すう、すう、と、間もなく寝息が聞こえてきた。
五分くらいだろうか。彼女がしっかりと寝静まったことを確認して、カズマはそろりと足音を忍ばせて部屋を出た。
今のうちに必要なものを買い足しておこう。そう考え、コンビニへ向かった。
一瞬スーパーまで行こうかとも思ったが、いつ彼女が目を覚ますともわからない状況なので、近場で済ませることにした。
風邪の看病に必要なものは何か。スマホで情報を探りながら、バファリンと、ポカリ数本、インスタントのお粥、冷凍うどん、カットフルーツを購入した。
それから彼女が目覚めるまで、カズマはずっとベッドの横に座っていた。
「おはよう。身体、どう?」
目を開いた望子に尋ねる。
彼女は一瞬目を丸くして、それから頬をゆるめた。
「すこし、よくなった」
まだ赤く上気した顔だが、先までより目の焦点がハッキリとしている雰囲気がある。
「何か食べる? おかゆとうどんとフルーツがあるけど」
「フルーツなら食べれるかも」
「わかった。待ってて」
体温計と、ベッド脇に用意しておいたポカリを渡して部屋を出た。
男子フロアの冷蔵庫からカットフルーツを取り出す。
部屋に戻ると、すでに彼女は身体を起こしていた。
「大丈夫?」
「フラフラする」
未だ紅潮した顔で力なく笑う。
手元のポカリは半分ほどなくなっていた。
「体温は?」
「38度7分」
「風邪薬も買ってきたから、これ食べたら飲もうか」
カットフルーツを器ごと渡す。
望子はしばらくの間じっとフルーツを見下ろし、ぼそりと言った。
「食べさせて」
「えっ」
「手が重いから」
「そんなに?」
「そんなに」
俯いたまま言う。
「……わかった」
数秒間の思案の末、カズマは器を受け取った。
万が一触れても大丈夫なよう、左手にフォークを持ち、なかなか刺さらないパイナップルをなんとか貫く。
「へたくそ」
望子は小さく笑うと、エサを待つ雛のように目を閉じて口を開いた。
「おいし」
パイナップルを咀嚼して、顔をほころばせる。
それから、雛へのえづけのように、一つ一つ彼女の口へフルーツを運んだ。
「ごめん、もう食べれない。ごちそうさま」
半分ほど食べたところで、ストップをかけられた。
普段の彼女なら、フルーツとおかゆとうどん全部食べられるくらいの食欲を見せるところだ。
やはりまだ万全には程遠い状態らしい。
それから彼女はバファリンをポカリで流し込んで、力なく壁にもたれかかった。
「寝ないの?」
「汗がべたべたして気持ち悪い」
パジャマが身体に張り付いているのがはた目にもわかった。
たしかにこれは一度着替えたいところだろう。
「シャワー浴びる?」
「まだちょっと辛い。タオルで身体拭きたい」
「わかった。持ってくる」
風呂場へ行き、洗面器を一つ拝借した。お湯を入れて、部屋へ戻る。
干しっぱなしにしていたタオルを洗面器に入れて、ベッド脇に置いた。
「外で待ってるね」
そう言って立ち上がると、シャツの裾を掴まれた。
「拭いて」
「え」
口をぽかんと開けて振り向くと、そっぽ向く彼女の頬が、先ほどより明らかに赤く染まっていた。
どくん、と心臓が脈打つ。身体が熱くなる。
「手が重くて」
「え、いや……」
「背中まで届かないし」
「えっと」
「身体動かすのつらくて」
「その」
手から汗がにじむ。
なんとか言葉を紡ごうとして開いた口が渇く。ごくりと唾を飲み込む。
小学校低学年のころならともかく、もうお互い高校生なのだ。
彼女もこの言葉の意味するところを分かっていないはずがない。
耳まで赤く染める望子。まじまじと見つめていると、急に目が合った。
「ねえ。看病してくれるんでしょ?」
反射的に、力いっぱい首を捻って視線を逸らした。
早鐘を打つ鼓動がうるさい。
「わ、わかった。する。するから」
こうなった彼女は止められない。わかっていることだ。
ササっと済ませて寝てもらうしかない。
「背中向いて」
身体が重たいのは事実なのだろう。緩慢な動きで壁側を向く望子。
カズマはタオルをしっかりと絞って、左手に持ち、望子のパジャマの下、背中を拭くべく手を突っ込んだ。
タオル越しにも、彼女の身体の持つ熱が伝わってきた。
「脱がして」
「えっ」
耳まで真っ赤に染めた彼女が言う。
「脱がないと拭けないでしょ」
「いや服着たままでも……」
上ずる声で尻すぼみに反論しつつも、望子の言う通り脱いだ方がしっかりと拭ける事は理解していた。
服を着たままでは、拭いた端から汗のしみ込んだ服が引っ付いて結局あまりさっぱりできないという事も。
カズマの抵抗を無視して、望子が両手を緩慢に挙げた。
「脱がして」
「……わかった」
望子は高熱にうかされているのだ。きっと、正気を失っているのだろう。カズマは自分に言い聞かせて、タオルを洗面器に戻した。
幸い彼女の着ているパジャマはボタンがついていないタイプだった。
左手一本で、なんとかパジャマを引っ張り上げる。
パジャマの動きに合わせてぐらぐらと揺れる彼女の身体を無理やり支え、洗濯用かごにパジャマを入れた。
「キャミも」
「……少し待って」
深く、深く息を吐いて、ゆっくりと吸う。瞼を閉じて、心を落ち着かせる。
相手は病人なのだ。
しかもその風邪も、元をたどればカズマが原因である。
そんな相手に邪な心を抱くなど、万死に値する。
平常心。平常心。心の中で唱え、目を開く。
「早く。寒い」
望子の催促に、小さくうなずく。
キャミソールを徐々に持ち上げ、脱がした。
上半身はナイトブラのみとなった。
「拭くよ」
ぬるくなったお湯につけたタオルを絞って、望子の背中に触れる。
びくん、と望子の身体が震える。
「ごめん、冷たかった?」
「……いい」
背中を丸めて静かに言う。
あまりこすらないよう、柔らかく彼女の背中を拭く。
「んっ……」
時折、気持ちよさそうな声が漏れる。
こんなに小さい背中だったか、と、拭きながら思った。
「前は自分でやる?」
「……拭いて」
もぞもぞと身体を反転させる。
反射的に顔をそらしたカズマを、ブラのみを身に着けた状態で待つ。
カズマは両手で自身の頬を数度叩いた。
病人を相手に、よこしまな感情を持つのは、失礼極まりない。
自分は葉名から看病を任された身。望子のためにも、無心で尽くさなければならない。
深呼吸を繰り返す。
絞ったタオルを手に、目を極限まで閉じて、薄目で望子を見やる。
首筋。鎖骨。引き締まったお腹。
間違っても胸に触れないよう、慎重に、心を殺して拭きあげた。
全身からどっと汗を吹きあげながら、何とか完遂した。
「シャツとパジャマ、そこに入ってるから適当に着させて」
言われるがままに取り出し、背を向けて万歳する彼女に着せる。
寝っ転がる。ようやく終わったと胸をなでおろした。
「下も拭いて」
「……うん」
お腹から太ももにかけて布団をかぶり、パンツが見えないようにしてからズボンを下ろす。
下半身も、相当汗でぐっしょりとしていた。
足の根本から先まで丁寧に拭き上げる。
新しいパジャマのズボンを穿かせて、「おしまい。終わり」自分に言い聞かせるように宣言した。
「スッキリした。ありがと」
寝っ転がったまま、望子がはにかんだ。
仰向けになった彼女の肩まで布団をかぶせる。
「ね、カズマ。……頭、撫でて。昔みたいに」
望子は布団で鼻まで隠し、上目遣いに言った。
カズマにとって、彼女に触れる事は、何よりも怖い。
また傷つけてしまうのでは。そんな思いが常に付きまとう。
しかし、こうしてお願いされて無下にするのであれば、それこそ彼女を傷つけてしまう。
だからカズマは、お願いをされれば触れるしかないのだ。
何とか勇気をだして、そっと彼女の頭に左手を伸ばした。
「ん……」
気持ちよさそうに、望子から吐息が漏れる。
目をつむる望子の頭を、撫で続ける。
すう、すう、と、やがて彼女の呼吸が落ち着いた。
そっと彼女から手を離して、一息つく。張りっぱなしだった緊張の糸を少し緩めた。
彼女の柔らかい寝顔を、ベッド脇から眺める。
看病の真似事をしていた頃を思い出す。目の前の望子が、あどけなかったあの頃の面影に重なった。
ぴくりと、指が動いた。
もう少し。もっと。
うず、と、欲望が芽をのぞかせた。
もっと、彼女に触れていたい。
心の底からふつふつ湧き出してくる感情に気づいた瞬間。カズマの全身から力が抜けた。
足元が豆腐にでもなったかのようにぐらつく。
頭蓋骨をぶん殴られたような衝撃。呼吸をするのも忘れ、胸が押しつぶされた。
あまりにも傲慢で、身勝手で、下劣な欲望。
これはいけない。本能が警鐘を鳴らした。
カズマ拳を握り、己のこめかみを何度も殴りつけた。何度も、何度も、何度も。
鈍痛に脳がクラクラする。このまま死んでしまえと思った。
しかし現実問題として、こめかみを殴打する程度では死ねない。
痛みも、階段から突き落とされた望子と比べれば、大したものではないだろう。
自分で自分に与えられる痛みなどたかが知れている。
切腹をするような覚悟もなく、さりとてこのまま許すほどに自分に甘くはなりたくはない。
そんな矛盾した自分の内側の情けなさに、目の奥が熱くにじむ。
土下座でもするように望子に向けて項垂れ、そこで気づいた。
もっと効率よく自身を痛めつける方法が、目の前に存在している。
縋るような思いで、震える右手をそっと彼女に伸ばした。
「………………………………え?」
血の気が引いた。
身構えていた痛みが、来なかった。
「なん……え?」
困惑。取り乱し、再び触れる。ぺちぺちと叩いてみる。痛くない。触っている感触はあるのに、本来そこにあるべき痛みがない。脂汗をにじませるほどの激痛が、やってこない。
「なんで……痛くない……なんでだよ……なんで痛くないんだよ……」
何度も、何度も、何度も。何かの間違いだと、懇願するような気持ちで彼女に触れた。何回も触れればあの痛みが再び訪れてくれるとでも思いこんでいるように。
何度も。何度も何度も何度も。
そんなことをしていたら、彼女が目を覚ますという事にすら気づかず。
「いだっ!」
望子が、カズマの手を掴んで、力いっぱい握りしめた。
痛みに悶絶するカズマに、望子は氷点下の目を向けて吐き捨てた。
「良かったね。カズマの望み通りだよ」
それから望子はフラフラとした足取りで、しかし迷いなく部屋を出て行った。
去り際に、彼女が震える声で言った。
「私はただ、カズマと昔みたいな関係に戻りたかっただけだよ」
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