第7話

「花見は楽しんでいるかい?」

 泥になりかけの土の匂い。ぬかるむ足元に躓かないよう気を張っていると、隣から声をかけられた。

 声の方を向くと、帽子を目深にかぶった三星が退屈そうに歩いていた。

「まだ桜見えないですし、今は上より下が気になって仕方ないです」

「昨日結構降ったからねえ」

 幸いまだ足を滑らせてはいないが、踏み込むたび、ぎゅむぎゅむと山道に沈み込む感覚がある。

 今日は、寮のイベントで花見に来ていた。

 近所の小さな山が花見スポットになっており、寮生の運動不足解消も兼ねて、頂上での花見が春の恒例行事になっているとのこと。

「雨具は持ってきた?」

「一日曇りって言ってましたし、いいかなと」

「山の天気は変わりやすいって言うし、ちゃんと準備してこないと危ないよ」

「それもっと大きな山の話じゃないですか?」

 登山とも呼べない程度の山だ。ここと街中で天気が大きく異なるとはとても思えない。

「ハンコはどう? 進んでる?」

 ハンコ巡りの期限間近ということで、上級生の多く参加するこのイベントで、ハンコ巡りを進めましょうという意図もあるらしい。

 望子はほとんどハンコ巡りをしていなかったという事で、カズマよりだいぶ前の方で先輩たちにアタックかけているようだ。

「ぼちぼちです。そういえば三星先輩からもらってなかったですよね」

「そうだっけ」

 鞄からハンコノートを取り出して渡す。

「歩きながら書くのダルイんだけどなあ」

 ぶちぶち言いながら、三星はボールペンでノートに日付を書いた。

「はい、質問。…………何か訊いてほしいことある?」

「えー……好きな食べ物とか?」

「採用。好きな食べ物は?」

「……カレーですかね」

「はいおっけー。次吉根君の番」

 あまりにも興味がなさすぎるだろうと思った。

「こないだ先生とデートでしたよね。どこ行ったんですか?」

「映画館行って、そのあと喫茶店とか、ショッピング」

 指折り数える。

「水族館じゃないんですね」

「せっかく先生と出かけるなら、新しい感覚を共有したいと思ってね」

「それで、どうでした? いい感じでした?」

「まあ、楽しかったは楽しかったよ」

「全然そういう風に見えないですけど」

「保護者みたいな立ち回りされちゃってさ」

 苦笑いを浮かべて言う。

「保護者みたい、ですか」

「私ももう18だし、年齢的には先生とあんまり変わらないんだけどねえ。あの人、私のこと生徒としてしか見てないから」

 軽く目を伏せ、憂いのある顔をする。

 何になりたいんですか。

 問いかけようとした言葉が喉につっかえる。

 べちゃりと、ぬかるみを踏む足音が大きく聞こえた。

 こんな、なんでも欲しいものを得られそうな人でも、苦しむんだなと思った。

「先輩は、葉名先生のどこが好きなんですか?」

「いろいろあるけど、強いて言うなら、諦めてないところかな」

「どういう事ですか?」

「うーん……ま、いいか。この間のお詫びも兼ねて」

 小さく呟いて、三星がカズマの方を向いた。

「先生がどうして今も寮にいるのか知ってる?」

 三星の問いかけに首を振る。

「一年くらい前かな。寮のOGが泊まりに来たんだ。先生の同期で、元ルームメイトの人」

 そういう事もあるのか、と少し驚く。基本的に部外者立ち入り禁止のため、OBOGなど見たことがなかった。

「二人の飲み会に混ぜてもらって、私も飲んでたんだけど、その時OGの人に教えてもらったの。理由」

「教えてくれるんですね」

「先生が寝た後にね。ちなみにその人も、先生を泥酔させて聞き出したみたい」

 誕生祭の日も、野田と二人でべろべろになるまで酔っぱらっていた。あそこで訊けば教えてもらえたのだろうか。

 多分無理だろうなと思った。先生からの信用、信頼がまるで足りないだろう。

「どんな理由だったんですか?」

「寮生活が楽しくて、寮から離れられなくなっちゃったんだってさ」

「……は?」

 まったく意味が分からず、ぽかんと口を開ける。

「小中学生のころ、不登校だったんだって。先生。で、高校に入ると同時に地元を離れたんだけど、この寮があまりにも居心地が良くて、寮生たちと凄く仲良くなって、手放せなくなったみたい」

「………………いや、全然意味わかんないんですけど」

 どんなに居心地が良かったとしても、だからと言って卒業後も寮にこっそり残ろうだなんて、常軌を逸している。

 そのために寮生に賄賂を渡し、学校にバレるリスクを背負ってまで、八畳一間の風呂トイレ炊事場共用の部屋に住み続けるなど。

 そもそも論として、当時の寮の居心地が究極的に良かったとして、卒業して二、三年も経てば当時仲の良い寮生はみな卒業してしまう。

 そうして知人のいない状態で寮の座敷童になったとして、当初の『手放せないほどの居心地の良さ』が残っているとは思えない。

「ね。正直私も全然理解できない。でも、格好いいなって思ったよ」

「どこがですか」

「諦めないところ」

 三星は道の先をまっすぐ見つめて、迷わず言った。

「先生は多分、ものすごく臆病なんだと思う」

「寮に住み続けてる時点で相当強気じゃないですか?」

「ううん。そういう事じゃない」

 カズマの反論に、三星が小さく首を振る。

「大学で新しい友達を作れるか、とか、居心地の良い空間を見つけられるか、とか。そういう不安に耐えられなかったんじゃないかな。小中学校のころがトラウマになって、高校に、この寮に依存するようになったんだと思う」

 不安。依存。葉名からは到底出てこない単語だと思うが、三星の目は冗談を言っているようには見えない。

 そういえば屋上で、葉名は望子について『カズマに依存している』と断定していた。

 もしかしたら、彼女自身がそうであるからこそ、望子に同じ要素を見出したのだろうか。

「って、OGの人が言ってた」

 黙りこくるカズマに、三星は眉を下げ、冗談めかして笑った。

「そんな不格好で情けない先生だけど、自分の『好き』を諦めきれず、明らかに釣り合わないリスクを背負う姿を、私は格好いいと思うんだ」

 葉名について語る三星の目は、子供のように輝いて見えた。

「喋りすぎたね。今の、誰にも話したらダメだからね。私が怒られるから」

「……先輩も、諦めたらダメですよ」

 絞り出すようなカズマの言葉に、三星は虚を突かれたような表情を浮かべ、やがて頬を緩めた。

「君は、良い人だね」

 三星は伸びをして、ふぅと深く息を吐いた。

「もう一個くらい質問しておこうか。んー………………………………。……………………好きな魚は?」

「先輩のそういう露骨なとこ嫌いじゃないです」

「これが歴代の彼氏にはことごとく不評でねえ」

「でしょうね」

 これほどわかりやすい無関心を喜ぶ恋人はいないだろうと思った。

「なんでそんな興味ない相手と付き合うんですか」

「告られたから」

「断れば良いじゃないですか」

「出来たらよかったんだけどねえ。それで、吉根君は何か質問ある?」

 サラッとカズマの追及を躱して、三星が尋ねてくる。

 好きな魚を答えていないが、きっと本当にどうでも良いのだろう。

 カズマは数瞬ためらって、おずおずと口を開いた。

「その……なんで、あんなことしたんですか?」

「あんなこと?」

「その、ベッドで……」

「それ訊くんだ」

 三星は目を丸くした。

「私が本当に君に好意を抱いていたとしたら、その質問はひどすぎると思わない?」

「あんな顔しといてよく言いますね」

 ベッドの中、暗闇に紛れた、諦観にも似た無表情を思い出す。

 恋愛ごとには縁のないカズマだが、好意を持った相手に向ける顔でなかったことくらいはわかる。

「そういう目的だと思ってさ」

「本当に付き合うんじゃなくて、フリだって言ったじゃないですか」

「フリ、のフリだと思ったんだ。私、こんなだから」

 帽子に隠れてもわかる、自身の、恐ろしく整った顔を指さす。

 なるほど、と強引に納得させられた。

「それに、助けてくれたからね」

「え?」

「水族館の時の話だよ。よく知らないが、君にも事情があるんだろう? 祭ちゃんが取り乱すほどの何かが」

 元カレに絡まれた三星の手を取って逃げた時の話だろう。助けたというほどの行動ではなかったが、三星にはそう映っていたらしい。

「私は、君に助けてもらえるほどの関係性を構築していない。だから、あれは下心からくる行動だと思ったんだよ。悪かったね」

 そういう理屈か、と納得する。

 痴漢から助けた男がナンパをしてくるなどという話も聞くし、三星ほどの美人ならきっとその手の経験は山ほどしてきたのだろう。

「しかしそう考えると、どうして君が私を助けてくれたのかわからなくなるね」

「別に、なんとなく腹が立って、スッキリするためにやっただけです」

「……そうかい。格好いいね。君は」

「それはどうも」

 そっぽを向いてぶっきらぼうに言う。

 リップサービスとはわかっていても、少し照れてしまった。

 そうして二人の間に沈黙が降りたタイミングで、

「別れても平然と話すもんなんすねえ」

 後ろから追いついてきた野田が割って入ってきた。

「やあやあ。えーっと、」

「野田っす。こないだハンコいただいたじゃないっすか」

「そうそう野田君。元気かい?」

「先輩、そこまで興味なさそうにされるとさすがに寂しいっす」

 野田が苦笑を浮かべて言った。

「悪いね。どうも他人の顔覚えるのが苦手で。男子とか特に、みんな同じに見えるんだよ」

「そうっすか? 野球部は確かにみんな坊主頭なんでわかりにくいっすけど」

「アニメみたいにカラフルな髪色だったら楽なんだけどねえ」

 空気感が合うのか、単純に野田のコミュ力が高いのか。水族館の時もそうだったが、野田と三星はよく会話が弾むなと思った。

「野田君、なんで僕と三星先輩が付き合ってないって分かったの?」

「あら、バレてたんか」

 ぽりぽりと頭を掻いて、少し照れたように言った。

「結構ちゃんと付き合ってるっぽく振舞ってたつもりなんだけど、いつ気づいたの?」

「最初から怪しいとは思ってたぜ。ただ確信はないから葉名先生にカマかけてみたら、引っかかってくれた」

「先生、チョロいなあ……」

 誕生祭の日、『そういえば野田にはバレてたぞ』なんてちょっと格好良さげに言っていたが、まだバレていなかったところでボロを出してしまったというわけだ。ダサすぎる。

「最初って一緒にお昼食べた時? なんであそこで怪しいと思ったの?」

「だって、どう考えても吉根、祭のこと好きだろ。なのに先輩と付き合うわけなくね?」

 ぐむ、と喉奥に空気がつっかえた。

「まあ、そうだよねえ」

 カズマに代わって、三星が野田に同意する。

「いやいやいやいや待って待って」

 右手を全力で振って否定する。

「前提がおかしい。僕の内心を勝手に決めないで。三星先輩もなにしれっと同意してるんですか」

「バレてないと思ってたん?」

「それは無理があると思うよ」

 きょとんとする二人を前に、カズマは先にもましてブンブンと手を振った。

「違う違う違う。そういうのじゃない。僕にとって望子はそういうのじゃないし、望子にとってもそうじゃない」

 動悸が速い。じわっと変な汗がわきでてくる。

「俺は望子がどう思ってるかは言ってねえけど」

「これは尻尾を出してしまいましたねえ」

「うるさい。揚げ足を取るな」

 早口に言って、二人の間をすり抜けてずんずんと先に進んだ。

「悪い悪い、茶化すつもりはないんよ」

 野田がへらへらと笑って追いかけてきた。

「俺にはそう見えたってだけだから。悪かった」

 むぅ、と口をへの字に歪ませる。足を止め、両手を合わせて謝る野田にため息をついた。

「僕の方こそ怒ってごめん。でも、本当に違う。僕と望子は、そういう関係じゃない。そこだけは、勘違いしないでほしい」

「オーケー完璧に理解した」

 両手でサムズアップして歯を見せる野田。

 絶対に理解していないだろうが、この明るいキャラクターを前にすると怒りが削がれる感じがあった。

「すまなかったねえ。これはお詫びの印」

 ぽすりと視界の上半分がブラックアウトする。

 振り向くと、寝癖をぴこんと立てた三星が全く悪びれない顔でこちらを見ていた。

「あとで返してね。それ結構高かったから」

 普通に要らなかったが、とりあえず帽子の角度をずらして視界を確保した。

「ところで、吉根君と祭ちゃんがそういう関係でないなら、どういう関係なんだい?」

 再び歩き始めたところで三星に尋ねられる。まだこの話を続けるのか、と思ったが、彼女らしいなとも思った。

 野田は少し不安げにしつつ、こちらをチラチラを見てくる。

「ただの幼馴染ですよ」

 親指の爪をこすりながら言う。

「ただの幼馴染が同じ部屋に暮らす? 仮にも年頃の男女が?」

「幼馴染だからこそ、でしょう」

 むしろ赤の他人であった方が、同じ部屋で暮らすことには大いに抵抗が生まれるものだ。

 望子とは、昔はよく一緒に遊んだし、同じ風呂に入ったことすらある。

 もちろん高校生になった今、昔と同じようにとはならないが。

「祭ちゃんが君のこと好きなんじゃないかって思ったことはないのかい?」

「ないですよ。ないない」

 三星の声に被せるように否定。

 べしゃりと、水たまりを踏んだ。履き古した靴の側面が泥でコーティングされる。

 じわじわと内側に浸食してくる泥水。長靴で来るべきだったと嘆息した。

「そういや水族館で、祭も似たようなこと言ってたっすわ」

 思い出したように野田が言う。

「似たような?」

「付き合ってるのか聞いたら、『私とカズマはそういうのじゃない』って」

「ふぅん。君たち、変な関係だねえ」

「三星先輩は幼馴染とかいるんすか?」

「私はいないねえ。小学生の頃の友達も、いつの間にか疎遠になったよ」

「あーわかるっす。俺も――」

 盛り上がる二人の半歩後ろを歩きながら、カズマは帽子のつばを深く下ろした。

 先の三星の言葉。望子がカズマのことを好きなんじゃないか。

 そう思ったことは、ある。

 果てしない思い上がりの末にたどり着く思考。

 認めたくはないが、認めざるを得ない事実として、幾度も考えてきた。

 何しろ、顔に傷を負って以来、彼女の交友関係はほぼカズマのみなのだ。

 小学生のころに彼女の顔に消えない傷をつけて以来、登下校はほぼ一緒に行ってきた。

 中学生のころは、朝、カズマの部屋に起こしに来ることすらあった。

 かといって兄弟のような関係かというとそういうわけでもなく、異性としての恥じらいもあれば、血のつながりのなさによる一定の距離感も存在した。

 葉名との相部屋が発覚した時の、望子の憤怒。

 葉名はあれを嫉妬と呼んだ。

 そうかもしれないと、カズマも何度も考えてきた。

 考えるたびに、腕に爪を立てた。

 あまりにも傲慢で、高慢で、増長しきった自己に吐き気をもよおす。

 加害者が被害者に対して抱いて良い感情ではない。

 自分はただひたすら、彼女の優しさによって生かされているだけの悪人である。

 望子を好くなど言語道断であるし、彼女から好かれているなど思い上がりも甚だしい。

 自分がするべきは、贖罪であり、望子の幸福のために、彼女のもとを離れる事だけである。

 彼女の傍にいたところで、自分は彼女を不幸にするだけな「――根。吉根! おい危ねえって」

 肩を掴まれ、ふっと視界が戻る。

 足元数センチのところ、木々の生い茂る、崖と言って差し支えない急斜面が迫っていた。

「うわっ!」

 慌てて後ろに飛びのく。

 呼吸が止まり、筋肉の縮こまる感覚。鼓動の音が耳まで届く。目を見開いて周囲を見回し、野田と三星の姿を確認した。

「吉根、大丈夫か?」

「あ、うん。ごめん、大丈夫」

「どうしたんだよ前も見ないで。何かあったか?」

 カーブの先を指さして尋ねる。

 曲り道に気づかず、まっすぐと崖に向かって歩いていたらしいことをようやく理解した。

 胸に手を当てて、呼吸を落ち着かせる。

「私の帽子が邪魔したかな。悪かっ――」

 三星が、カズマの頭から帽子を取ろうと手を伸ばしたところで、反射的にカズマの左腕が動いた。

 帽子を掴んだ三星の腕が弾かれる。

「あ、すいませっ……」

 驚きと、弾かれた痛みで、三星の顔が一瞬歪んだ。

 が、彼女はすぐに表情を戻すと、腕をさすりながら笑って見せた。

「平気平気。こっちこそごめんね」

「すみません先輩痛くないですか」

「心配性だなあ吉根君」

 腕を見せてもらうが、怪我をしたり赤くなったりという事もなく、そもそもどこをぶつけたのかもわからなかった。

 ほっと胸をなでおろす。

 そうして少し冷静さを取り戻して、彼女の手に帽子が握られていないこと、カズマの頭上が涼しくなっていることに気づいた。

 周辺を見回し、「あ、帽子が」すぐに気づいた。先の急斜面を数メートル落ちたところに引っかかっていた。

「いいよ別に。大したものじゃないし。大自然に還してあげよう」

「いえ。そういうわけにはいきません」

 カズマは強い語調で彼女の言葉を拒否した。

 先ほど三星は帽子について、高かったと言っていた。

 仮にそれが冗談で、本当は安物だったとしても、他人の帽子を飛ばしておいて、そのまま放置するべきではないだろう。

 カズマは慎重に、斜面に向けて足を踏み出した。

「吉根君、本当に大丈夫だから」

「いえ、これくらいなっ」

 言いかけ、ぬかるみに踏み込んだか、ずるっと足が滑り、背中がべシャリと泥にまみれた。

「おいおい吉根、無理すんなって」

「大丈夫。野田君は危ないから待ってて」

 ついてこようとする野田を制止して、カズマはずるずると斜面を下りてゆく。木の幹を伝って、蜘蛛の巣に引っかかったりしながら降りた。

 右足の靴が脱げ、すでに湿っていた靴下がぐっしょり濡れる。

「くっそ……」

 不快感をあらわに呟き、靴を履きなおす。

 そうして数メートルの距離を下りて、なんとか帽子を手に入れた。右手にしっかり握り、来た道を見上げた。

 不安げにこちらを見下ろす人影が、もう一人増えていた。

「カズマ君! 大丈夫!?」

 守良だった。

 カズマは帽子を掲げて見せ、来た道を戻り始めた。

 坂道は登りより下りの方が大変というが、この急斜面においてもそうだった。

 登りは視界もはっきりとしているため、しっかり安全な道を選んで進むことができた。 

「吉根、掴まれ」

 一番最後、山道に戻る箇所。その入口で野田が手を伸ばしてきた。

「大丈夫」

 拒否して、一人で登る。

 が、そこでぬかるみに足を取られた。

「うおっっとっと、」

 前に倒れかけた身体を立て直そうと地面を踏み込み、重心を後ろに。

 が、やりすぎた。今度は身体が背中から重力に引っ張られた。

 まずい、落ちる。脳裏をよぎる一瞬後の未来に血の気が引く。

 反射的に、右手の帽子を決して離さないよう胸の前に抱えた。

「大丈夫じゃねえって!」

 落ちかけたカズマの左腕を、野田が間一髪掴んだ。

「え、あ、ご、ごめ「いいから踏ん張れ!」

 目をぱちくりさせるカズマの言葉を遮って、野田が怒声を上げる。

 そうだ。カズマは正気を取り戻し、何とか野田の手を頼りに泥だらけの足を踏み出した。

「どっしゃああああああい!」

 野田は奇声を上げ、力を振り絞ってカズマを引っ張り上げた。

「っでぇ!!」

 勢いのまま後ろに倒れ込んだ野田が、後頭部を押さえてじたばたともんどりうつ。

「一九君大丈夫!?」

 守良が真っ先に駆け寄った。

 野田が後頭部から手を離すと、赤黒い液体がわずかに付着していた。

「当たり所が悪かったわね。応急処置するから少し待って」

「うぁー、クッソいてえっす」

 地面に転がる尖った石を確認した守良が冷静に言って、鞄から救急セットを取り出した。

 四つん這いになって荒い呼吸を整えていたカズマは、状況を理解するにつれ、顔を青く染め上げていった。

 脳裏によみがえる在りし日の記憶が、眼前の光景と重なる。

 階段の下で痛みに悶える望子の姿と、目の前でのたうつ野田。

 呼吸は浅くなり、胃がぎゅっと縮みあがる。

 瞳孔は見開かれ、端から熱い液体が溢れ出てくる。

 眼前の光景を否定するように首を小さくふり、瞼をパチパチと幾度も開閉した。

「どうし――」三星からかけられた声に、びくんと身体が跳ね上がった。

 開きっぱなしの口元がわなわなと震え、全身から汗が噴き出す。

「ご、ご……ごめ……………………ごめ……………………」

 口の中が渇き、声が出ない。

 目の前がチカチカとフラッシュする感覚。

「おいおい吉根君大丈夫か」

 三星に両肩を掴んでゆすられ、「うっ」胃の中のものがせりあがった。

 べしゃ、と朝食が地面にまき散らされた。

「タクシー呼んで。わたしが二人連れて寮に帰るわ

 カズマの様子に気づいた守良が、毅然とした口調で三星に指示を出した。

「わかった」

「俺もっすか?」

「一応ね。一九君も頭から血が出たんだから、安静にしておいた方が良いわ」

 きょとんとする野田に、守良がハッキリと言う。

 三星はスマホを取り出して尋ねた。

「私も手伝うか?」

「アンタはこっちの仕事があるでしょ」

 三星が頷いてスマホを取り出すと、守良はカズマにお茶を差し出した。

「飲める?」

「……」

 手を振って力なく拒否する。今胃に入れても、受け付けない気がした。

「さ、下山しましょう。野田君は歩ける?」

「いけるっす。それより、吉根支えるなら多分左が良いっすよ」

 帽子のように頭にネットをかけた野田が言う。彼には右手のことは話していないはずだが、水族館のこともあってか、なんとなく察している部分があるようだった。

 守良に支えられて立ち上がり、カズマはよたよたと歩き出した。

 三星がきちんと呼んでおいてくれたのだろう。ふもとに降りると、タクシーが待っていた。

 野田が助手席に座り、カズマと守良で後部座席に座る。

「三星がごめんね。顔真っ青だけど大丈夫?」

「は、はい……だいじょぶ……です」

 顔色を覗き込んでくる守良に、たどたどしく返事をする。

「すみません……ご迷惑を……」

「いいのよ。それにそもそも三星の帽子なのに、自分で取りに行かないで、後輩に取りに行かせたアイツが悪いのよ」

 腕を組んで、憤然として言う。

「ちが「あいつは昔からそうなのよ。元が悪い奴は変わらないわね」

 違う、と言いかけたところで、守良の声にかき消される。

 三星は悪くない、と言いたいが、これ以上喋ると、胃の中のものも出てきそうで、口をつぐむ。

 うなだれるカズマの背中を、守良がゆっくりさすった。

 雨がぽつぽつと、窓をたたき始めた。

 

 タクシーの中で守良が連絡をしていたおかげで、寮に着くとすぐに葉名が出迎えてくれた。

 ピンピンしている野田と別れ、身体を引きずるように自室へ戻る。葉名の用意しておいてくれた布団に崩れ落ちるように横たわった。

 うつ伏せだと胃が苦しく、仰向けになる。天井の明かりが鬱陶しいなと思った。

「サンキューな。今度なんか奢ってやるよ」

「いえ。そういう目的ではないので。先輩としてするべきことをしただけです」

 部屋の入口から、二人の会話が聞こえてくる。

 ここに至る経緯――三星の帽子を取る流れで、カズマが勢い余って野田に怪我をさせ、その後カズマの精神が著しく不安定になったことが、守良から説明された。

「それで、お前はこれからどうすんだ。今から追いかけるか?」

「部屋に帰ります。雨も強くなってきましたし、どうせお花見は中止でしょうから。カズマ君のことは頼みましたよ」

 守良は部屋に帰っていった。

 部屋の扉を閉めて、「さて」カズマの隣に腰掛ける。

「吉根、何か飲むか? コーヒーかココアくらいしかないが」

「大丈夫、です」

 ようやく落ち着いてきた。とはいえ、まだ胃に何か入れられる気はしなかった。

「で、何があったんだ? 野田に何か言われたか?」

「いえ。野田君は何も悪くない。僕が悪いんです」

「怪我させたって話か?」

 カズマは黙って頷く。

「怪我っつったって、ちょっと血がにじんだくらいなんだろ? アイツさっき、もう止まったっつって頭のガーゼ外してたぞ」

「でも、怪我をさせて……痛い思いをさせて……」

「昔のことを思い出したか」

「……」

 わずかに顔をそらして、無言で肯定する。

 怪我の大小が問題なのではない。もし怪我の程度で罪の大きさが変わるのであれば、それはすなわち運でしかなくなる。

 たまたま頭の打ちどころが悪く、もっと大きな怪我をしていたら。あるいは逆に、全く出血も伴わない程度であったら。

 望子の時のように、一生消えない傷をつけていた可能性もあるのだ。『たまたまちょっとの出血で済んだねラッキー』で納得して良い話ではない。

 葉名は頭をガリガリと掻いて、一つ、大きなため息をついた。

「吉根、何かスポーツやってた?」

「なんですか急に」

「スポーツじゃなくてもいいや。何か習い事とか」

 戸惑うカズマに構わず、質問を続けてくる。

 カズマは一瞬考えて、素直に答えた。

「小学生のころ、スイミングには通ってましたけど」

「週何回くらい?」

「スクールは週二で、あと三日くらいは市民プールで泳いでました」

「よく練習してたんだな。実力はどうだった?」

「そこそこ上の方でした」

 なんの話だ、と困惑していると、葉名は一瞬溜めて問うてきた。

「努力と才能、どっちが大きかったと思う?」

「……努力です」

「違うね」

 数瞬の逡巡を挟んだ答えを、迷いなく斬って捨てた。

「才能だよ。努力なんて関係ない。吉根には、水泳でそこそこ上の方まで行く才能があった。だからそれなりに行った。けど本物レベルの才能はなかった。だからそこそこで終わった」

「……何が言いたいんですか」

「傲慢だって話だ。お前に、誰も傷つけずに生きていけるだけの才能はない。諦めて、身の丈に合った生き方を探ったほうが幸せだよ」

「それは……」

 言葉に詰まり、視線を逸らす。

 風も吹いてきたのか、大きな雨粒が窓にばちばちと叩きつけられる。

 葉名の言葉が至極真っ当であり、反論の余地が一ミリもないことは完全に理解している。

 才能だ努力だと言うまでもなく、そもそも、誰も傷つけずに生きていける人間なんていないことも、とっくにわかっている。

 理解しつつも、受け入れることのできない自分にもがいてきたのだ。

「僕の右手が人に触れると激しく痛むって話、覚えてます?」

 身体を起こし、未だ血色の悪い顔で葉名に向かい合う。

 他人に触れると痛みが走る理由については、実際のところわかっていない。

 医者に相談したこともあるが、どこにも異常はなく、多分精神的な問題だろうと片づけられた。

 望子からも両親からも、気持ちの問題でありいずれ治ると言われた。

 多分皆が言う通りなのだろうと思いつつ、カズマの中の価値観が、そう考えることを良しとしなかった。

「罪であり、罰なんです。僕の右手は、これから先誰も傷つけないように、人に触れられなくなったんです」

 右手をぐーぱーして言う。

「身の丈に合わないことを言っているのはわかってます。でも、望子に一生消えない傷をつけておいて、幸せになって良いわけがないんです」

 うなだれるように顔を下げた。

 小学生のころ、望子を傷つけてからずっと胸の内に秘めてきた言葉を、初めて口にした。

 カズマの独白に、葉名は頭をぐいと後ろにそらし、天井を見上げた。

 二秒、三秒、無機質な天井を見つめ、「んー」視線をカズマに戻した。

「知っての通り、アタシは不正にここに住んでる。吉根の言葉を借りるなら、罪人だな」

 後頭部をぽりぽりと掻いて、困ったように笑う。

「アタシは、不幸になるべきだと思う?」

「先生は人を傷つけてないじゃないですか」

「ケガさせなきゃ幸せになっていいのか? 罪人なのに?」

「そういう話では……」

 言葉に詰まっていると、玄関の方からドタドタと激しい足音が響いてきた。

「カズマ!」

 金属の激しい音とともに、勢いよく扉が開いた。

 ずぶぬれになった望子が、ぼたぼたと水滴を垂らすままに、息を切らして駆け寄ってきた。

「ど、どうしたの、望子」

「どうしたはこっちのセリフ! カズマが急に具合悪そうにして帰ったって聞いて」

 カズマの前に座り込んで、ぺたぺたと身体を触ってくる。

「怪我してない? 痛い? 気持ち悪い? 風邪ひいえっくしょん!」

「だ、大丈夫。望子こそ風邪ひいちゃう」

 大きなくしゃみをする望子。カズマより彼女の方が布団を必要としているのは誰の目にも明らかである。

「私はいい。それよりカズマほんとに大丈夫? 寮長に何かされた? 野田の方?」

「違う違う違う。三星先輩も野田君も悪くない。僕が一人で勝手に気分悪くなっただけ。もう大丈夫」

 早口にまくし立てる。

「それより望子早くシャワー浴びて着替えよう。先生手伝ってください」

「わかった」

 いまだ懐疑的な目を向けてくる彼女の肩を掴んで風呂場へと連れて行った。

 さすがに着替えを準備するわけにもいかないので、カズマは部屋と廊下と、望子からぼたぼた零れ落ちた雨粒たちを拭き始めた。

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