第6話

「――そういうわけで誕生祭やるんで、この部屋借りて良いっすか?」

 部屋で漫画を読んでいた先生に、野田が状況説明をする。

 すると葉名は二つ返事で「そういう事ならアタシの秘蔵の酒を提供してやろう」と賛同した。

「マジっすか! あざっす!」

 野田がテンションを上げて言う。

「買い出し行ってくるけど、吉根か祭ついてきてもらっていい?」

「私行く」

 望子が手を挙げた。

 カズマは口をぽかんと開けて、望子をまじまじと見た。

 すました表情をしているが、間違いなく立候補していた。先日までの彼女ならば間違いなく黙って突っ立っていただろうに。

 野田と一緒に買い物に行く事を選択するとは、もしかしたら、今日の尾行が彼女の心境に大きな変化をもたらしたのかもしれない。

 あるいは単純に、先生と二人でいるよりそちらの方がマシだと思っただけかもしれないが。

「ならアタシらはこの部屋掃除しとくわ」

「了解っす。吉根、お金は後で清算な」

 言って、野田と望子が部屋を出て行った。

「うし、部屋の掃除任せたわ」

「せめて自分のものは自分でやってください」

「ほとんどアタシのなんだけど」

「なら全部自分でやってくださいよ」

「えー、だるい」

 ため息をついて動き始める葉名に合わせて、カズマも部屋の掃除を始めた。

 黙々と掃除を進めていると、おもむろに葉名が口を開いた。

「そういえば、野田にはバレてたぞ」

「ばれ?」

「三星と付き合ってないって」

「え、なんでですか」

「さあな。で、今日のデート、何があったんだ?」

「え?」

 思わず振り向くが、葉名はこちらを見ようともせず、本を棚に戻していた。

 問いかけの意味か分からず、答えに窮する。

「何もないですよ」

 視線を外して、再びゴミ袋にペットボトルを突っ込む。

「何もないことないだろう」

「水族館は行きましたけど、そのほかは大したことないですって」

「三星の部屋に行っただろ」

「……」

 この部屋は、立地上、玄関での会話がかなり筒抜けになる。部屋でだらだらしていた葉名の耳にカズマたちの会話が届いていてもなんら不思議ではない。

「お前が何かしたとは思ってないが、三星から男をフるなんて聞いたことなくてな」

 口をぽかんと開けて、葉名の言葉を脳内で反芻する。

 三星からフることがない。

 あれほどの美人が自分からフったことがなく、今まですべてフられてきたとはとても考えられなかった。

「三星先輩、何者なんですか」

「お前はもう知ってるだろ。ノーと言えない日本人だ」

 平然と言う。冗談にしか聞こえないフレーズだが、もしかして本当にそうなのだろうか。

「僕たちはあくまで付き合っているフリでしたから、そもそもフられてもないですよ」

「それにしてもだ。普通にしていて、あいつから関係の解消を言い出すとは思えない」

「三星先輩のこと詳しいんですね。好きなんですか?」

 へらへらと笑って茶化す。

 葉名は手を止め、カズマに背を向けたまま軽く目を伏せた。

「責める気はない。アタシが強引にやったことだしな。ただ、本当にこれで良かったのか気になっただけだ」

 表情筋が力を失う。葉名の曲がった背中が、わずかに、小さく感ぜられた。

 玄関から響く寮生の声が、やたらと大きく響いた。

「……ああいうのはやっぱり、性に合わないです」

 手のひらにキーホルダーを乗せて、静かに吐露した。

 実際のところ、望子にどの程度影響があったのかはわからない。結局今日も彼女は、カズマを心配して男子トイレにまで駆け込んでくる視野の狭さを発揮した。

 ただ、少なくとも今日一日、望子は野田と一緒に水族館をめぐり、買い出しに二人で行っている。

 三星と付き合っているフリを続けていればあるいは、と思う部分は、ある。

 心臓がぎゅっと縮む感覚。

 嘘をつきたくない、という自身の罪悪感のために、望子の未来を潰したのかもしれないのだ。

「不器用だな」

 エゴを捨てきれない身勝手さを不器用と呼ぶのならば、きっとそうなのだろうと思った。

「で、彼女のフリ作戦は終わったわけだが、これからどうするんだ?」

「やっぱり、僕がどうこうっていうより、望子本人がどうなるかだと思うんですよ。少しは野田君との距離感も近くなったっぽいですし、こっち方面で」

「お前自身はどうなんだ?」

 カズマの言葉を無視して葉名が尋ねてきた。

「何がです?」

「祭がお前の呪縛から解き放たれて、自由になったとして、その時お前はどこで誰と何をしているんだ」

 葉名の問いかけに、カズマは一瞬言葉に詰まった。

「……未来のことなんて、わからないですよ」

「そうだな。未来のことはわからない。だが、想像くらいはしておけ。お前にも良い人生を送る権利はあるんだから」

 葉名の声が、妙に柔らかく聞こえた。

 どう答えて良いかわからず、押し黙る。

 葉名もこれで話は終わりとばかりに、再び手を動かし始めた。

 それから二人で黙々と掃除を進めていると、「ただいまー」扉の奥から元気な声が届いた。

 扉を開けると、二人とも両手にパンパンのレジ袋をぶら下げていた。

「買い過ぎじゃない?」

「失恋したらやけ食いって相場が決まってるだろ?」

 どこの相場だろうかと思いつつ、購入してきたものをテーブルに広げる。

 二リットルサイズのジュース、スナック菓子、チューハイと、明らかに四人では食べきれない分が所狭しと並べられる。

 というか明らかに乗り切らないので、半分くらい床に並べられた。

「酒あるっつったのに買ってきたのか」

「このほろよいってやつが美味いって聞いたんで」

「ストゼロもあるが?」

「これは名前だけよく聞くんでついでに」

「……いや、まあいいか」

 何か言いたげな口を閉じて、葉名は軽く首を振った。

「カズマは飲まないの?」

 マグカップにコーラを注いでいると、チューハイのタブを開けた望子に怪訝な顔をされた。

「一応まだ未成年だし」

「どうせバレないでしょ」

「一応ね」

 バレるバレないではなく、自分の中の基準として、未成年のうちに酒を飲むことには抵抗が強くあった。

 正義感というべきか道徳心というべきかはわからない。いらぬ頑固さだと自分でも思う。

「そうそう、その手の缶や瓶を捨てるときは、バレないようしっかり潰して、スーパーの回収ボックスに持っていくようにな。寮のごみ捨て場に置いとくと、ごみ処理のおっさんにバレるぞ」

 飲酒や喫煙は、バレたら一発で停学もあり得る話だろう。ここに長く住んでいる人間ならではのアドバイスだが、教師がそれを言うことに対して違和感を覚えていないことが嫌になった。

 結局、カズマがコーラ、望子と野田がチューハイ、葉名がビールを手に取った。

「そんじゃ、吉根の誕生を祝して乾杯!」

 野田が音頭を取って、各々の飲み物をぶつける。

 祝すべきことではないだろうと思ったが、誕生祭とはそういうものなのかもしれない。

「おっ、これ美味いな。グレープフルーツジュースみたいだ」

 一口飲んだ野田が目を丸くして言った。果汁たっぷりのチューハイだったらしい。

「野田君、尾行はどうだった?」

 カズマの問いかけに、野田が気分よさそうにスマホの写真を見せてきた。

「アザラシが可愛かった」

「それ尾行の話じゃなくない?」

「いやーだって尾行自体は特に面白くなかったし。吉根達、デートっていうより、それぞれ一人で水族館に来ましたみたいな雰囲気だったから」

 カップルの数だけデートの仕方があって良いだろうと思ったけれど、野田の言うことももっともである。

「けど水族館祭自体はかなり楽しかったわ。祭があんなに水族館好きなんて知らなかったぜ」

 陽気に話す野田。

 体育座りで話を聞いていた望子は、チューハイ缶を両手両ひざに挟んで、そっぽを向いた。

「べつに、フツー。フツーだから」

「けど水槽の前に張り付いて、何回か吉根達見失ってただろ?」

「たまたま! 人が多かったから、人ごみに紛れて見失っただけ」

 少し頬を赤くして、取り繕うように言う。話は終わりとばかりにぐいっとチューハイをあおった。

 白いラベルのチューハイを喉奥に流し込む望子に、野田はニヤニヤとした笑みを向けた。

「祭、それ美味い?」

「カルピスソーダみたい。でもなんかぐらぐらする」

 野田の問いかけに、望子がとろんとした目で言う。

「グラグラ?」

「んー。ぐらぐら」

 目を細めて、どこか愉快そうに頭を左右に小さく振る。

 よく見ると、望子の顔は先の照れとは別の意味で赤く染まっていた。

「祭、もしかして酔ってる?」

「えー、知らないよー」

 上機嫌に言って、ぐいっとさらに喉奥に流し込む。

「あ、なくなっちゃった。どれか取って」

「大丈夫か? もうやめた方がいいんじゃ」

「大丈夫大丈夫。ほらそれ、そのストゼロ取って」

 野田が言われるがままに渡すと、望子は躊躇なくプルタブを開けて口につけた。

「……なにこれ」

 静かに缶を置いて、先までの上機嫌が嘘のように顔をしかめた。

「ちょっともらうね」

 返事を待たずにカズマのコーラに口をつける。

「不味いの?」

「なんか、なんだろ。わかんない」

 カズマの問いかけに、首を捻る。

 ばたんと後ろに倒れた。

「あー、ぐらぐらする。なんか気持ち悪い」

 ろれつの回らない声。焦点の合わない瞳。

 大丈夫だろうか。様子をうかがっていると、目を閉じた彼女の口元から、落ち着いた呼吸音が聞こえてきた。

「え、寝た?」

 野田と顔を見合わせる。

「先生、望子大丈夫なんですか?」

 いつの間にかテーブルから離れ、部屋の隅の方でちびちびと日本酒を飲んでいた葉名に尋ねる。

「こいつこのナリで滅茶苦茶酒に弱いの面白いな」

「いや面白いじゃなくて」

「まぁ大丈夫だろ。風邪ひかないように、布団だけかけてやれ」

 毎日飲酒している葉名が言うのならば、多分問題ないのだろう。

 両親家族誰も酒を飲まないタイプだったから、実際のところどうなのかはわからないが、とりあえず信用するしかない。

 隅の方に畳んでおいた布団をかぶせる。本当はベッドに運んだ方が良いのだろうと思ったが、カズマ自身は右手が使えないし、葉名はどうせ手伝わないし、野田に手伝ってもらうのはなんとなく抵抗感があった。

「野田君はお酒大丈夫?」

「あぁ、身体が熱い感じはあるけど、そのくらいだな」

 望子と違って見た目は何も変わらない。その辺りも個人差という事なのだろう。

「野田君、ごめんね」

「? 何が?」

 口につけかけた缶チューハイを止めて、きょとんとする。

「僕たちに付き合わせちゃって。映画の舞台挨拶あったのに」

「なんだそんな話か。俺が、こっちの方が面白そうだって思っただけだよ」

「でも」

「でももヘチマもねえって。それより、次いつ水族館行く? 土日は混むだろうし、どっか平日で行こうぜ」

「平日っていうと夏休み?」

「いや学校サボって」

「先生がいる部屋でそれ言う?」

 ちらりと葉名を見やると、おちょこを口につけたままニヤニヤこちらを見ていた。

「サボるなら仮病でもなんでもいいから連絡入れろよ。無断でサボられると事件性がないか確認せにゃならんくなる。お前らみたいな優等生っぽい奴らは特にな」

「同じ寮の人間が同時に風邪ひいたら不自然じゃないですか?」

「むしろ、寮のイベントで風邪ひきましたとか、同じ寮だからこそいくらでも言えるだろ」

「なんで教師がガチアドバイスしてるんですか」

 思わず冷静に突っ込んでしまった。

 と、チューハイを飲み終えた野田がマグカップを手にした。

「先生、日本酒いただいていいすか?」

「お、行ける口か?」

「わかんないっすけど、せっかくなんで」

 マグカップに日本酒をどぼぅと注ぐ。

 匂いを嗅いで、恐る恐るといった風に口をつけた。

「ん、なんか、変な味。これほんとにお米なんすか?」

 そんなこんなで雑談しながら、夜も更けていき、いつの間にか野田と葉名が二人とも寝静まった。

 カズマはベッドの布団をひっぺ返し、二人に被せた。

「僕の分は……まあ、いっか」

 当然、部屋には三人分の布団しか用意されていない。

 せめてこたつだったらなぁと思ったが、ないものねだりをしても仕方ない。

 ジャンバーでも着ておけばおそらく大丈夫だろう。

 カズマは電気を消して、ベッドに横たわった。


 明け方、望子が目を覚ました。

 鈍い頭の痛み。これが二日酔いという奴だろうか。

 喉が渇いたな、と、重い身体を起こす。布団がずり落ちる。

 トイレも兼ねて一回部屋を出る。汗で湿った身体が夜の空気に冷やされ、思わず両手で身体を抱えた。

 足早に向かった女子フロアで用を足し、炊事部屋で蛇口をひねった。

 コップ一杯の冷えた水が、身体の隅々まで浸透してゆく感覚。これほど美味しい水道水は初めてだなと思った。

 部屋に戻る。暗くてよく見えないが、電気をつけるわけにもいかない。スマホの明かりをつけて部屋の中を確認すると、布団もかぶらず、ベッドで身体を縮めて眠るカズマの姿を見つけた。

 何故布団をかぶっていないのか、という疑問は、ベッド脇、爆睡する二人を見てすぐに氷解した。

「まったく、そういうところだよ」

 柔らかく呟いて微笑む。

 望子は自分のかぶっていた布団を手に、野田と葉名をよけてベッドへ入った。

 布団を、二人分かぶれる大きさにしっかり広げて、カズマの隣に寝転ぶ。

 そっとカズマに触れた。

 冷たい。布団をかぶらなければ、きっと風邪をひいていたことだろう。

 眠っているカズマの右手をそっと握りしめた。

 カズマの頬が、少し緩んだ。

 望子は目尻を下げて、そのままゆっくり瞼を閉じた。

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