第5話
待ち合わせ場所の駅前につくと、帽子を目深にかぶった三星が壁にもたれかかって、退屈そうにスマホを触っていた。
土曜日ともなるとやはり通行人は多い。帽子の上からでもわかる美貌を持つ三星は、周囲からチラチラと視線が注がれていた。
待ち合わせ時間を勘違いしたか? と慌ててラインを確認するが、まだ予定の五分前であった。
三星のことだから遅刻もあるだろう。そんな大雑把な考えから直前に来たが、結果的に先輩を待たせることになってしまった。
「すみません、お待たせしました」
駆け足で近寄って声をかける。
「まだ時間前だし大丈夫」
待たされたことは特に気にしていないようで、三星は涼しい顔で言って壁から身体を起こした。
ジーパンにパーカーとラフな服装だが、ファッション誌に取り上げられていそうなオシャレな格好に見える。
そもそも顔が良ければ、何を着ても似合うのではと思ったりもするが。
「行こうか」
歩き出した三星の横に並ぶようについていく。
周囲からチクチクとした視線を感じるが、気づかないふりをすることにした。
交通系ICを改札にかざし、ホームへ。
「それで、今日はどこへ行くんですか?」
行先はまた連絡する、と言っておきながら、事前にラインで伝えられていたのは『駅前に九時集合』という文言のみだった。
そもそも同じ寮に住んでいるのだからわざわざ駅前で待ち合わせる必要もないと思ったが、寮内に交際の話が広まっても嫌なので、素直に従うことにした。
「着いてからのお楽しみってことで。それより、寮生活には慣れた?」
「ぼちぼち、です」
二人部屋を三人で使うという窮屈さはどうかと思うし、プライバシーが欲しいとも思うが、とりあえず最低限生きていくことはできる状態になった。
望子が葉名に対して露骨につっけんどんなのは、ちょっとどうにかならないかと思う部分もあるが。
「吉根君、いつもその赤いヘアピンつけてるね」
頭を見やって尋ねてきた。
「まあ、はい。オシャレの一環で」
居所なくポケットにしまった右手が、キーホルダーに触れる。
「オシャレっていうには似合ってないねえ」
「そんなバッサリ言います?」
本当にオシャレだと思ってつけていたとしたら、心が折れていたかもしれない。
「吉根君に赤は合わないよ。しかもそれ歪んでるし」
「ほっといてください」
憮然と、不貞腐れてみせる。
「そういえば祭ちゃんは赤いカチューシャつけてたし、もしかしてお揃いでつけてる感じ?」
「たまたまですよ。たまたま」
「ふぅん。たまたま、ねぇ」
意味ありげに言う。その見透かしてくるような目に、カズマは思わず顔をそらした。
「吉根君って、祭ちゃんと仲良いの?」
ぐむ、と、喉がつっかえる。
仲良いよね、ではなく、仲良いの? という言い方に引っ掛かりを覚えるのは、考え過ぎだろうか。
「仲悪いように見えるんですか?」
「別に? そもそも仲悪かったら一緒の部屋に住まないでしょ」
三星はひょうひょうと言って、視線をそらした。
ロボットみたい、というのはさすがに誇張表現だが、そのあまり表情の変わらない横顔からは、全く感情が読めなかった。
三星から視線を外し、両手を握り合わせた。小さく開いたままの口が渇く。
カズマにとって望子との関係は、手を触れればそのまま沈み込むような、弾力を失った部分である。
葉名には話の流れで多少明かしたが、基本的に他人に話すつもりはない。
ちらりと三星へ目をやる。
彼女は口をつぐみ、ぼんやりと虚空を見上げていた。
カズマは小さく息を吐く。
どうやらこれ以上言葉を続けるつもりはないらしい。
それからお互いに沈黙を保ったまま、けたたましい音を鳴り響かせてやってきた電車に乗り込んだ。
なんとか二人分座れるスペースを見つけ、腰を下ろす。
彼女は、カズマと同じく、会話の間に降りる空白があまり苦とならないタイプであるようだ。電車がレールを走る音だけが二人の間に流れる。
二駅、三駅と通り越して、『水族館へお越しの方は次の駅でお降りください』という車内アナウンスに、ピクリと三星が身じろぎした。
「次だよ」
「……………………水族館、ですか」
絞り出すように確認するカズマ。三星はおや、と首をかしげた。
「もしかして水族館苦手だった?」
「いえ……大丈夫、です」
最悪だ、と思った。
じわりと背中に汗がにじむ。
小学校の修学旅行以来、カズマは水族館を極力遠ざけてきた。現地に行かないことは当然として、本屋ネットでも視界に入ったら即座に目をそらすようにしてきた。
せめて事前にラインで通知しておいてくれれば、苦手だと言って場所を変更することもできただろうに。
日時も場所も決めてもらっておいて文句を言うものではないが、不満をたれたくなる気持ちがわき出てくる。
とはいえ、ここまで来て予定変更をお願いするのも筋が悪い。覚悟を決めるしかない。
ここは修学旅行先ではない。全く縁もゆかりもない水族館だ。大丈夫。そう言い聞かせる。
停止した電車から降りて、改札を出る。同じ車両に乗っていた若い男女、家族連れたちが一斉に同じ方向に歩く。
カズマは地面を凝視しながら、なんとか周囲と歩調を合わせた。
「大丈夫? 魚が苦手なら、焼き肉屋もあるよ」
「いえ。平気です」
顔を上げて、まっすぐに前を向く。牛角を尻目に、イルカやクラゲのイラストの描かれた外壁に沿って歩くと、青を基調とした巨大な建物にたどり着いた。
見知らぬ建物だ。望子に消えない傷をつけた場所とは違う。問題ない。息を大きく吸って、吐いて、吸う。
潮の匂いに、朝食が少し胃の中で暴れた気がした。
「私は年パス持ってるから」
水族館の入場料ってこんなに高かったっけ、とはさすがに口に出さず、カウンターでカズマの分だけチケットを購入。
館内は家族連れやカップルたちで賑わっており、思ったよりも騒々しかった。
「週末はやっぱり混むねえ」
「平日に来ることもあるんですか?」
それほど遠くはないけれど、学校終わりに寄るには少し抵抗感を覚える距離である。
「その方がゆっくり見て回れるしね。平日の朝イチが一番のんびりできるよ」
平日の朝イチは学校があるのでは、と思ったが、きっと長期休暇中の話なのだろうと納得した。
「ところで、祭ちゃんたちと合流しなくて良いの?」
「えっ」
濁点がついたかもしれない。ちらりと後ろに目をやる三星につられてカズマも振り返る。望子と野田が柱の陰からこちらをうかがってきていた。
望子の睨みつけるような鋭い眼力に、カズマは反射的に視線をそらした。
さすがに木の枝を頭につけたりサングラスにマスクをしたりといったベタなことはないが、一切の変装をしなければ普通にわかるものだなと思った。
「……すみません。実は、僕と先輩の仲を疑って、尾行してきてるんです」
望子たちのことを伝えるつもりはなかったが、バレてしまっては仕方ない。
「僕たちがよっぽど変なことをしなければ何もしてこないと思います」
「そう。なら、デートらしく手でもつなぐ?」
左手をおもむろにカズマに差し出してくる。
「いえ」カズマはふい、と右手をポケットにしまう。
「そこまではしなくても」
「そ。まあ、私は飽きるくらいここに来てるから、吉根君のペースに合わせるよ」
年パスを持っているくらいだから、飽きるほど来ているというのもあながち嘘ではないのだろう。
できればこのまま退館したいというのが本音だったが、一応デートだ。さすがにそういうわけにもいかない。
電車代もかかったし、安くはない入館料も払ったし、何かを得なければ勿体ない。
ポケットの中でキーホルダーを握りしめた。仮面を被れ。心の中で言い聞かせる。水族館にトラウマを覚える自分を仮面の下に追いやる。それこそが今自分がなすべきことである。
大丈夫。小学生のころに行った水族館とは、館内の構造も雰囲気も、周囲の人間も異なる。だから、大丈夫。
目を閉じ、その場で呼吸を整える。波一つない水面を思い浮かべる。ゆっくり息を吐いて、吸って、吐いて、吸う。潮の香りはだいぶ薄くなった。心臓の音もゆっくり、落ち着いてきた。
ゆっくり瞼を開ける。
「……お待たせしました。行きましょう」
帽子をかぶったまま、心配そうに顔を覗き込んでくる三星。カズマは小さく笑って見せて、一歩踏み出した。
青を基調としたライトで薄暗く照らされた館内は、やはり人が多く、なかなか水槽の前でじっくりと見るというわけにもいかなかった。
水槽の前で魚より人間ばかり見ているカップルたちを避け、はしゃぐ子供たちから距離を取り、ゆっくり歩いて回る。
「先輩はどんな魚が好きなんですか?」
「サンマ美味しいよねえ」
「食べる方じゃなくて」
この人もこんなベタなことを言うんだなと思った。
「クラゲとかいいよね。ふわふわ流されるだけで良くて。あんな風に生きていきたい」
可愛いとか綺麗とか、そういう理由かと思ったら、斜め上方向から来た。
「知ってる? クラゲって脳がないんだよ。血管も心臓もない。全身に張り巡らされた神経の反射で生きてるだけ」
「それって生きてるっていうんですか?」
「哲学的なことを言うねえ。そういう難しいことは私にはわからないから、後で葉名先生にでも訊いてよ」
スルーをされてしまう。別にそんなに気になる話でもないので、問題ないのだが。と、ふと気づいた。
「葉名先生のこと、名前で呼ばないんですね」
入寮初日も屋上でも、最初、アカネちゃんと呼んでいた。てっきり普段からそうなのだろうと思っていたので、少し面食らった。
「ここに先生いないし。名前で呼んでも面白くないから」
「面白いから名前で呼んでたんですか」
「先生の嫌そうな顔、好きなんだよねえ」
口角を上げて言う。
良い趣味しているなと思った。
「先輩は先生とどういう関係なんですか?」
問いに、葉名は大水槽を見上げた。
「別に、ただの教師と生徒だよ。一応去年はあの人が担任だったけど」
「仲が良さそうなので、てっきり何かあるのかと」
「何かって?」
「いえ……」
大きなサメがカズマたちの前を横切る。大小さまざまな魚たちが、空を飛ぶように気の向くままに泳ぐ。
「過去に先生を追い出そうみたいなのはなかったんですか?」
「どうかな。あってもおかしくはないと思うけど、そもそも先生が寮に住んでることで困る人ってあんまりいないと思うから」
「僕は今困ってますけど」
「先生がうちに住んでなかったらあの部屋は物置だろうから、吉根君は相部屋か、個室の寮に行くことになってたんじゃない?」
どっちみち詰んでいたという話である。そういえば最初のころに、葉名からも似たようなことを言われていた。
三星や歴代の寮生たちを責めるのがお門違いであることはわかりつつ、なんとなく釈然としない思いに胸がモヤモヤする。
そうして歩いていると、いつの間にか外に出ていた。
春先のまだ少し肌寒い海風が鼻腔をくすぐる。
「あと10分くらいみたいだね。ここで待とうか」
コロシアムの形。巨大水槽を中心に、円形に伸びる階段。イルカショーの会場だった。
階段の一番上から二番目、右手側の座席に、端を一つ開けて座る三星。しかし、カズマの目はもう彼女をとらえてはいなかった。
「うっ……」
眼下に映る風景に、朝食がせりあがる。
円形の座席。階段。水色の床。真ん中の巨大水槽。その奥に覗く大海原。
望子を突き落としたのも、こんな場所だった。
「吉根君、どうしたんだい? 真っ青だよ?」
異変に気付いたのだろう。ぐるぐると目を回すカズマを、眉を下げて見上げる。
「あ、いえ。大丈夫、です。すみません」
途切れ途切れに言って、三星の左に座る。
万が一にも右手で彼女に触れてしまわないよう、今日一日立ち位置にはかなり気を配っていた。
が、現状のカズマではそこまで気を回すことは不可能となっていた。
座席も、できれば一つ間を開けて座りたい気持ちが大きいが、それも難しい。
項垂れ、ゆっくりと呼吸を整える。ポケットからキーホルダーを取り出し、両手で強く握りしめる。
仮面を被れ。平常心を装え。心に言い聞かせる。
「お茶飲む?」
「……いただきます」
ペットボトルのお茶を受け取り、勢いのままに流し込んだ。
喉元まで上がってきている異物を胃まで落とす。
半分ほど飲んで、ふぅと息をつく。渋い苦みが口の中に残る。ラベルを見ると、寮の最寄りスーパーで売っている、一番安い緑茶だった。
「すみません、飲み過ぎました」
「悪かったね。水族館が苦手な人がいるだなんて思わなくて」
カズマからお茶を受け取った三星が、遠くを眺めてぽつりと言う。
「いえ。僕の場合は苦手というのとも少し違うので。先輩は悪くないです」
水族館に対して嫌な感情を抱いているわけではない。
むしろ魚や水生生物そのものについてはどちらかというと好きな方である。
カズマがこうして体調を崩しているのは、水族館という環境から連想される、望子への罪の意識によるものである。
「先輩、タバコは吸わなくて大丈夫なんですか?」
気を紛らわせるために話しかける。黙っていると意識が記憶に引っ張られそうになるから。
「そこは、タバコなんて吸っちゃダメですって言うところじゃない?」
「たしかに」
とは思ったが、別に咎める理由も止める義理もない。
「タバコはねえ。別に、好きじゃないのよ。ただなんとなく、道を踏み外したいだけ」
「はぁ……」
意味がよく分からなかった。
「てっきり、葉名先生が吸ってるからかと思っていました」
「それもあるよ」
「あるんですか」
その時、「こんにちはー!」イルカショーのお姉さんの元気な挨拶とともに、イルカが早速大ジャンプを決めた。いつの間にか満席状態となっていた座席から拍手と歓声が沸き起こる。
「イルカにはなりたくないねえ。毎日何回もショーさせられて、大変そう」
「イルカショーに対してそんな見方する人います?」
水族館の年間パスポートを持ってる人の言葉とは思えない。
「やっぱりクラゲみたいに何も考えず、流されるがままに生きるのが一番楽だよ」
「楽でしょうけど、なんのために生きてるのかよくわかんなくなってきますよ」
「吉根君は生きる理由があるんだ」
「え」
一瞬、三星の声がものすごく渇いて聞こえた。
反射的に隣へ目をやるが、彼女はじっとイルカショーを眺めている。
四月の風が、少し肌寒く感じた。
「どういう意味ですか?」
「君はそのままで良いよってこと」
「よくわかんないんですけど」
「意味なんてないからね。私の言うことは真に受けないほうが良いよ」
軽い調子で言うと、彼女は唇を固く結んだ。
これ以上の対話の拒絶。カズマは三星の口元から読み取り、視線を外した。
芸をこなしたイルカが、魚を数匹与えられていた。
それから数十分のショーは、盛況のうちに終わった。
ショーの間チラチラ確認した感じ、望子が時折笑顔をショーに向けていて驚いた。
「先輩、トイレってどこにあります?」
「そこのコンビニの隣の扉から戻れば……あ」
振り返って指さす三星が、何かに気づいたように声を上げた。
ちょうど通りがかったカップルの男の方と目をぱちくり合わせている。
知り合いだろうか。そう考えて二人を見比べていると、
「三星。今日は随分冴えない男を連れてんだな」
チャラそうな男がバカにするように言う。
カップルの女の方もどことなく嘲笑を顔に張り付けているように見える。
「よぉ、そこの。こいつには気を付けたほうが良いぜ。ちょっと顔が良いからって何股もするような奴だからな」
ニヤニヤと人の悪そうな笑みを浮かべる。
彼の言葉から、屋上での葉名と三星の会話を思い出す。
『今は彼氏いないんだっけか』『多分いなかったと思います』
あの時は何をボケたことを言っているんだと思った。
が、なるほどこの男のいう事が真であるならば、葉名は何股もし過ぎて、彼氏が何人いるのかもわからないという時期があったのかもしれない。
いやそんなことあるか?
心の中でセルフツッコミを入れるが、これほどの美人だ。漫画みたいな展開になっていてもおかしくはないのかもしれない。
「こいつが前言ってた悪い女~? ダッサ~」
女の方が、三星を指差して軽薄に笑った。
一方の三星は二人から視線を外し、曖昧な笑みを浮かべて黙り込んだ。
「……」
カズマにとって。三星がどういう人間であろうと知ったことではない。
付き合うフリであって、実際に付き合ってはいないのだから。
ただ、こうしてわざわざこちらの都合に合わせてくれた三星を悪く言われたことに対しては、腹の底からふつふつと何かが湧き上がってくる感覚を覚えた。
だから、右手で三星の手を取って、立ち上がった。
高圧電流を流されたような、あるいは引き裂かれたかのような激痛。反射的にひっこめそうになる右手。脂汗が吹きあがる。
こんなことだったら、不自然にでも三星に左に座ってもらうべきだったと思った。
後悔しても遅い。歯を食いしばって、死んでも離さないよう、ぐっと握りしめた。
「ご心配なく。そういうの気にしないんで」
右手がバラバラに切り落とされていく錯覚。それでも声をこらえ、カップルに向けて笑ってみせた。
面食らうカップルを置いて、三星を引っ張って立ち去る。
「……ありがとう」
足早に歩きながら、三星のそんな声が聞こえた気がした。
カップルが見えない場所まで来て、手を離す。
「すいませんトイレ」
「あ、うん」
了承を得ないまま小走りに去ってゆくカズマに、三星は戸惑ったように了承を返した。
近くのトイレに駆け込み、洗面所で蛇口を思い切りひねった。
漏れ出そうになる声を必死に抑え、浅くなる呼吸を整える。背中が汗で貼りつくが、右手以外に気を回すような余裕はない。
保冷剤ほどではないが、トイレの水もそれなりに冷たい。痛みから気をそらすべく、ひんやりした感触に神経を集中させる。
「カズマ!」
望子の甲高い声が入口の方から響いた。
そちらへ目をやると、望子が男子トイレの中に入ってきていた。
「え、いやここ男子ト「カズマ! 大丈夫!?」
小便器の前に立つ何人かの男性のぎょっとした視線が集まるが、望子は気にした様子もなく、カズマのもとへ駆け寄る。
「あ、う、うん。いやそれより男子トイレだからここ」
「ロキソニンあるよ!? 飲む!?」
「待って落ち着いて」
全くカズマの言葉を聞かず、ガサゴソとリュックを漁る。
「吉根、どうしたんだこれ。大丈夫か」
野田が、軽く息を切らしながら、目をぱちくりさせて尋ねてくる。きっとダッシュで駆けだした望子にようやく追いついたところなのだろう。
カズマの右手のことも知らなければ、望子が何故これほどまで取り乱しているのかもわかるわけがなく、戸惑うのも至極当然と言えた。
「望子が大丈夫じゃないからいったん外に出よう」
ものすごく取り乱している人間を見ると逆に落ち着く、と聞いたことがある。
今がまさにそういう状況だった。
鬼気迫る表情でロキソニンを探す望子を前にして、カズマは冷静に野田と協力して男子トイレから脱出した。
「勢ぞろいだね。あとは三人で回るかい?」
「あったロキソニン!」
歓喜の声。三星の言葉が聞こえていないというか、もはや視界にも入っていないのだろう。
「ありがと」
受け取って、気づいた。すっかり痛みが飛んでいる。
普段はじわじわと続く痛みにひたすら耐え続けていたが、今回はそれどころではなかったからだろうか。
そうは言っても、せっかくもらった痛み止めを飲まないのも忍びない。お茶で流し込んだ。
「いやー、バレちゃいましたねえ」
未だ状況が理解できていないはずの野田だが、尾行相手を前にしては後頭部に手をやって苦笑するしかないらしい。
「大丈夫。最初からわかってたから」
「マジっすか? もっと変装とかすべきでした?」
「サングラスとマスクをしてれば、君らだってことはわからなかったかもね」
「それ完全に不審者じゃないっすか~」
談笑する二人を前に、望子がぼそりとカズマにささやいた。
「寮長と何があったの?」
彼女らの座る場所的に一部始終が見えてはいたのだろうが、当然会話内容までわかるはずもない。
具体的な話をするのはなんとなく憚られて、微妙にぼかすことにした。
「なんか元カレっぽい人から三星先輩の悪口言われて、ムカついたから」
「ふーん」
むっつりした顔で意味ありげに言う。
「カズマ、変わったね」
そうかな。返事をしようとしたところで、野田の声が挟まった。
「なあ、これからどうする? 四人で回る?」
「先輩はどうします?」
カズマの問いかけに、三星は肩をすくめた。
「私は帰るよ。あいつらにまた出くわしたくないし」
「なら僕も帰ります」
尾行相手と合流してしまったが、一応デートである。三星が帰るというなら、カズマも同行するのが筋というものだろう。
それと単純に、これ以上水族館にいたくない。
「私も」
「じゃあ俺も帰るかな。結構面白かったしまた今度三人で来ようぜ」
「そ、そうだね」
できればもう二度と来たくないが、さすがに口にするわけにもいかず、曖昧に首肯した。
「三星先輩たちは先に行ってください。俺たち尾行続けますんで」
カズマについてこようとする望子を押しとどめて、野田が言う。
お言葉に甘えて、数々の展示を無視して出口へ向かった。
外へ出ると、朝よりかなり暖かい陽気に包まれた。
潮風が髪を乱す。まだ良い匂いとは到底思えず、反射的にポケットのキーホルダーを握りしめる。
「……寮のさ」
黙って駅までの道のりを歩いていると、ぽつりと三星が呟いた。
なんだろうかと顔を向けるカズマに、三星はゆっくりと言葉を続けた。
「あの長い廊下に、長い水槽置きたいんだよね」
「死ぬほど邪魔じゃないですか?」
神妙な顔をして何を言い出すのかと思いきや。思わず突っ込んでしまった。
「邪魔だけど、ロマンがあるよね」
「知りませんよ。寮長権限でなんとかしてください」
「そんな力があったら良かったんだけどねえ」
空を見上げてため息をついた。
「寮長なんて何も面白くないし、ほとんどメリットないから、なんか滅茶苦茶させてほしいね」
「なりたくてなったんじゃないんですか?」
「クラス委員って基本、担任が指名するでしょ? 寮長もそんな感じで、基本やりたがる人がいないから、上級生が指名してくるのよ。まあモリヨシは立候補してたけど」
「へえ。三星先輩の前の寮長が守良先輩だったんですか」
「違う。守良が立候補した後、先輩から圧力かけられて、私も立候補する羽目になったんだよ」
三星の説明によると、毎年六月に寮内で選挙があり、立候補した二年生の中から任期一年の寮長が選ばれるらしい。
基本的にやりたがる人間がいないため、信任投票で雑に済まされるのが通例。
しかし昨年は、立候補した守良と立候補させられた三星による決選投票になり、大差で三星が勝ったとのこと。
「守良先輩がいたのに、三星先輩も立候補させられたんですね」
「一部上級生が嫌がったんだ。あいつ、誰に対してもクソ真面目で口うるさいから。葉名先生にもそうだったでしょ」
入寮初日、部屋を散らかしたままの葉名にキレていた守良を思い出す。
教師に対してすらそうなのだ。きっと一学年違いの上級生に対しても全く臆せずあの調子だったのだろう。
「真面目なのは寮長向きじゃないですか?」
「組織としてはね。でも残り一年も寮にいない上級生にとっては、自分の居心地の方が大切だから」
感情として理解できる話ではあるが、腹の底にモヤモヤとした何かを感じる。
「もちろん全員がそうだったわけじゃないよ。私の立候補への反発もあった。でも選挙って結局好き嫌いだから。モリヨシを煙たがる人は私に投票するし、無党派層は大体顔の良い方に入れる」
恐ろしく整った顔で言われると、有無を言わさぬ説得力があった。
その説得力の理由が、顔面偏差値による好印象だったら嫌だなと思った。
「寮長になるとたしか一人部屋が割り当てられるんですよね。七月からはどうなるんですか?」
「新しい寮長のルームメイトが私の部屋に来ることになるね」
「急にお引越しすることになるなんて、大変ですね」
「まあ意外と何とかなるよ。相部屋だから、みんなそんなには私物増やさないようにしてるし」
「うちの部屋、先生の私物が山ほど転がってるんですけど」
「相部屋になる予定がなかったからねえ」
幸いカズマも望子もさほど潔癖なタイプではないので、半分くらいはベッドの下に押し込んで過ごせているわけだが。
「そっかもうそろそろ七月か」
三星が宙を見上げてため息をついた。
「やっぱり一人部屋の方が快適ですか」
「それもだけど、去年一人部屋になったタイミングでアクアリウム始めて、部屋が結構狭いんだよ」
「アクアリウムって、あの水槽に魚とか水草入れる奴ですか?」
「そうそう。最初は小さな水槽一つだったんだけど、始めたらすごく良くて。気づいたらすごい増えてた」
「すごいですね。手入れとか大変そうなイメージあります」
「最初のうちは面倒くさいけど、慣れてくれば意外となんとかなるよ。見に来る?」
「いいんですか? 先輩の部屋女子フロアですけど」
「女子の許可があれば入って大丈夫だから」
本音の部分では、他人の部屋に入りたくはない。右手が他人に触れる可能性は極力排除しておきたい。
が、こうして誘われて断るのも気が引けた。
「それなら、少しだけお邪魔します」
少し見て、すぐに部屋を出る。それならば問題も起こらないだろう。
実際、アクアリウムが気になるというのも本心としてある。
それから電車に乗り、寮までまっすぐ帰った。
玄関でスリッパに履き替え、三星の後ろについて女子フロアの扉をくぐった。
寮内を一枚の扉で隔てただけの空間なのに、何か違う空気感を覚えた。
三星の案内による正当な侵入であるが、悪いことをしているかのような感覚。ドキドキとというべきかハラハラというべきか。鼓動が早い。
先をズンズン歩く三星から離れないように歩く。彼女とはぐれてしまえば、正真正銘一人で女子フロアをうろつく男子になってしまう。
やがてたどり着いた部屋の扉は、他と何ら変わりない、年季を感じさせる錆び方をしていた。
お邪魔します、と申し訳程度に言って、三星の部屋へ入る。
「一人部屋だから、リラックスして大丈夫だよ」
部屋のサイズは他の部屋と変わらず、二段ベッドもそのまま。
部屋の上部に吊るされたロープには制服や私服、下着の類が干されており、反射的に目をそらした。
視線をそらした先、ベッドの脇の洗濯物カゴの中にも乱雑に放り込まれており、やはり目に毒というべきか薬というべきか。
葉名もそうだったが、男子を招くのならばその辺りのものは普通隠すものだと思うのだが、こうまで堂々とされると、自分が間違っているのだろうかと疑念がわいてくる。
学習机が隅に二つ並んでいるが、奥の方に大きな水槽が一つ鎮座している。
もう一つの机には教科書やノートが陳列されており、おそらくそちらが三星の勉強机なのだろうとわかった。
カズマたちの部屋と違い、ちゃぶ台もテレビもなく、比較的簡素に見える。三星も入寮当初は二人部屋で過ごしていたのだ。あまり私物を持たないようにしているのだろう。
ただ、床に大小さまざまな水槽が四つ。これがかなり部屋を狭くしているのは間違いなかった。
三星が扉を閉め、部屋の電気を消した。
魚や海藻が、青や紫のライトに照らされ、水族館に近い幻想的な空気感で部屋を彩る。一人で過ごす分には気分良いだろうなと思った。
水族館のような空気感を醸し出しながらも、水族館ではない空間。
「いいですね。帰ってきてまず魚が目に入ってくるの、落ち着きそうです」
自然と頬が緩むのがわかった。特別オシャレさを意識して設置しているようには見えないが、それでもこの雰囲気を出せているのだ。
カズマの言葉を受け、三星が顔をほころばせる。「そうなんだよ」と言ってベッドに腰掛けた。
じっと水槽を観察するカズマを満足げに眺める三星。
やがて、ぼふんと仰向けに倒れ込んで、呟くように言った。
「さて。……するんだろう?」
暗がりの奥から、手を差し伸べられた。
最初、意味が理解できず、目を瞬かせた。
数秒の思考を経て、ようやく理解する。
ベッドに横たわる三星の姿に、ドクンと鼓動が跳ねる。
するのか、確認をされているのだ。恋人同士がベッドの上でするその行為を。
そこらの女優をはるかに超える美人から。
水槽から届く紫色の明かりが、三星の顔を静かに照らす。
カズマは、彼女の顔から目が離せなくなった。
三星の方から誘っているはずなのに。
そこに浮かぶのは、諦めにも似た無表情だった。
脳裏に、望子の姿がよぎる。
「そういうのじゃないんで」
「そ」
視線をそらして言うと、一音だけで了承された。
「これ、あげる」
身体を起こした三星が放り投げた。放物線を描いて、金属の塊が手のひらに収まる。
「学校の屋上の合鍵。先生に秘密で複製したんだ。バレないようにね」
先の無表情が嘘のように、いたずらっ子みたいに笑う。
「吉根君も、たまには授業でもさぼってバランス取ったほうが良いと思うよ」
「なんのバランスですか」
苦笑いしながら鍵をポケットにしまう。かちゃりと、鬼のお面のキーホルダーとぶつかる音。ちょうど良いかもしれない。キーホルダーを鍵につけた。
サボるかどうかはともかく、一人になりたいときなんかに屋上でのんびりするのは悪くないかもしれない。
できればタバコがなければ良いなと思った。
「先輩、面倒ごとに付き合っていただいて、ありがとうございました」
軽く頭を下げる。ドアノブに手をかけたところで、再び声をかけられた。
「吉根君は、諦めないようにね」
「……はい」
湿度の高い声に、何とか返事をして、部屋を出た。
扉を閉じて、ふぅ、と息をつく。
顔を上げると、「うわっ」望子と野田が目の前に立っていた。
考えてみればずっと彼女らはカズマたちを尾行していたのだから、ここにいるのは当然なのだが、すっかり頭から抜け落ちていた。
「カズマ。寮長の部屋で何してたの?」
望子の静かな、重い声。冷たい視線も相まって、カズマを押しつぶさんとする圧が放たれる。
どう答えるべきか。迷いは、一瞬で断ち切れた。
「アクアリウムを見せてもらって。それで、フられてた」
「へ?」
目を丸くする望子。
「フられ……? どうして?」
「価値観の相違とか、まあいろいろ。僕じゃ不釣り合いな人だったし」
「何それ意味わかんない」
望子は不満げにむくれた。
「え、なんか怒ってる?」
「怒ってない。普通」
望子がそっぽを向く。と、野田が重苦しい空気を振り払うように口を開いた。
「よーし、誕生祭しよう」
「誕生祭?」
「失恋した奴がいたらパーティして、生まれ変わらせてやるのがこの寮の伝統なんだってよ」
「なにそれ」
滅茶苦茶な話に思わず笑ってしまった。
人の不幸は蜜の味というが、つまりその甘い汁を啜ろうという話だろうか。
あるいは本当に慰めてあげようというイベントなのかもしれないが、なんにせよ、とんだ伝統もあったものである。
「誕生祭の時だけは酒を飲んでもいいことになってるらしい」
「いやもう全然わからない」
「失恋は美味いもん食って飲んで忘れるのが一番ってことなんじゃね? 知らんけど」
そういうものだろうか。恋愛も失恋も漫画の中でしか知らない世界なので、反論をしようにも何も思いつかなかった。
ただ、意気揚々と男子フロアの方へ戻る野田の姿は、助かるなと思った。
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