第3話

 映画を見に行くからと走って帰る望子を見送って、カズマは放課後の廊下をのんびりと歩いていた。

 久々の一人での帰路だ。何をしようか。と考えていると、向かいから足早に歩いてくる葉名を見つけた。

「あ、先生」

「おぉ、吉根。気を付けて帰れよ」

「先生、ハンコください」

「は?」

 足を止めて、何言ってんだこいつという表情を向けられた。

 カズマがそっと鞄からハンコノートを取り出して渡すと、葉名は「あぁそういう事か」と嘆息した。

 一瞬、周囲の様子をちらりと確認。顔をしかめた。

「わかった。ついて来い」

 まだ結構生徒が残っていることを理解したからだろう。葉名は嫌そうにノートを受け取って歩き出した。

「ちょうど、タバコ吸いに来るとこだったんだ」

 下駄箱の反対側、校舎の端の階段を一番上まで登ると、葉名はポケットから乱雑に鍵を取り出して、扉を開けた。

 ぶわ、と、春の暖かい風が全身に吹き付ける。

 同時に、運動部の掛け声が耳に届いた。

 アニメや漫画では放課後の屋上は定番スポットだが、まさか本当に来ることができるとは。きょろきょろと見回しながら妙な感動を覚えた。

「屋上って入って良いんですか?」

「良いわけないだろ。施錠されてんだから。アタシも勝手に合鍵作っただけだから、このことは誰にも言うなよ」

 葉名は屋上の端にたどり着くと、柵にもたれかかってカズマの方を向いた。

「吸うか?」

「未成年なんで」

「真面目だな」

 差し出されたタバコを突っ返す。

 葉名の隣――心持ち距離を取った場所でカズマも柵にもたれかかると、田んぼの間を野球部と思しき集団がランニングをしているのを見つけた。

 この間もこんなやり取りしたなあと思っている間に、葉名はタバコに火をつける。

「こんな場所に立ってたら、下から見られません?」

「見られたって、大体の奴は業者か誰かだと思うし、大丈夫だろ。多分」

「先生、寮に住んでるのもそうですけど、何かと雑ですよね」

 よくそんな調子で今まで誤魔化せてきたなと、逆に感心してしまう。

 葉名はタバコをふかしながらノートを広げた。

「楠寮の場所わかるか?」

「えー、どこだろ。あれですか?」

 カズマはパッと目についた白くて平べったい建物を指さした。

「違う。あれは別の寮。正解はもう少し左、あの灰色っぽいやつだ」

「あー、言われてみればたしかに。楠寮はあんなに綺麗じゃないですよね」

「年季の入り方が違うからな。ところで吉根って祭と付き合ってんの?」

「あれ、もうハンコ始まってます?」

 笑みを浮かべて尋ね返した。

 所在ない両手を握り合わせ、親指で爪を擦る。そういえば爪切りを買っていなかったな、と気づいた。

「せっかく祭がいないんだから、気になる事訊いておこうと思ってな」

「なるほど」

 寮に帰った葉名はすぐに酒でベロベロになって寝てしまうため、あえて学校にいる間を狙ってみたのだが、どうやら失敗だったらしい。

「アタシとお前が相部屋って知った時、アイツ滅茶苦茶怒ってただろ」

「あれは、そういうのじゃないんで」

「ふぅん。お前らの関係はよくわからないな」

 葉名は腕組をして、じっと観察するように見つめてきた。

「ただの幼馴染ですよ。家も近いし、友達というか、兄弟みたいなものです」

「関係切りたいのにか?」

「そういう兄弟もいるでしょう」

「たしかにな」

 葉名はどこか遠い目をして煙を吐く。

「で、なんで距離を置きたいんだ?」

「やけにぐいぐい来ますね」

「ハンコ巡りはお互いの気になることをぶつけてくイベントだぞ」

「なら僕も訊きたいんですけど、先生、どうしたら寮から出て行きます?」

「それがなあ、アタシにもわからないんだよ」

「は?」

 唖然とするカズマに、葉名は腕を組んでうんうんと唸った。

「多分、寮生活に満足したらもう良いかってなると思うんだが」

「満足するまで動かないとか小学生ですか」

「子供心を忘れない素敵な大人だからな」

 しれっと言う葉名に、カズマは身体が重くなったような感覚になった。

 深くため息をついて、柵に体重を預ける。

「もーいいです。訊きたいことなんもないです」

 不貞腐れたように言った。どうせまともな答えなど帰ってこないのだ。質問するだけ無駄である。

「なんだ、もう良いのか?」

「だって先生ずっと仮面被ってるじゃないですか」

「仮面もまたそいつの本質の一つだぞ」

「急にそれっぽいこと言わないでください」

 普段の駄目人間っぷりと対照的に、たまにまともなことを言うので、葉名に対してどういう印象を抱いたら良いのかがわからなくなる。

「まあいいか。で、吉根達の関係はいいとして、お前は祭に、どうなって欲しいんだ?」

「……これ、真面目に答える奴ですか? 適当に流す奴ですか?」

「さあな。どの仮面を被るかは、お前が決める事だ」

 心の内を読み取ろうとしてくるような、葉名の視線。

 先までふざけていたくせに、いきなりピリッとした空気を作らないでほしいと思った。

 カズマは逃れるように顔を背け、空を見やる。雲一つないと思っていた青空は、よく見るとところどころ灰色の雲が目についた。

「望子には、もっと自分本位に生きてほしいですね」

「自分本位に……かなり満たしてる気がするが」

「違うんです。望子は、優しいんです。優しさが行き過ぎて、自分本位に見えるだけなんです」

 カズマは葉名の言葉を遮るように否定する。

 望子は多くを語らない。だからこれはあくまで、カズマの想像である。

 中学時代、そして現在に至るまで、彼女の行動原理はカズマの平穏であった。

 彼女のカチューシャは、彼女自身は傷のことなど気にしていないのだと主張するためのアイテムだ。

 おでこの傷痕に囚われているカズマの心を救うために。

「葉名先生と僕の二人きりだと、何かの拍子に右手が触れるかもしれない。だから、望子は同じ部屋に住むことで、僕を守ろうとしてくれているんです」

 右手で他人に触れると激痛が走る。その、信ぴょう性も分からないカズマの言葉を信じ、望子はカズマを守るために行動してきた。

「望子は、もっと自由になるべきなんです。僕なんかを気にして、自分のことを置き去りにして。望子は被害者なのに、まるで僕を傷つけた加害者であるかのように思っているんです。そもそも――」

「言いたいことはわかった」

 堰を切ったように語りだしたカズマを、葉名が制止する。

 カズマは、知らず知らずのうちに力の入っていた拳を開き、サビた柵を掴んだ。ひんやりとした感触に、身体の熱を奪わせる。

「お前は、どうしたら祭が自由になると思う?」

「それは」

 望子に彼氏を作る、と答えようとしたところで、

「あれーアカネちゃんまたサボリですかー?」

 後ろからいきなりからかうような声がかかった。

「だから教師を下の名前で呼ぶな」

 嫌そうな顔をして振り返る葉名。カズマもつられて屋上に視線を戻すと、そこには三星が立っていた。

 入寮当初ほどではないが、立派な寝癖がバランス悪く立っている。美人はそのアンバランスさすらもチャームポイントに見えてずるいなと思った。

「吉根君も。早速不良してるねえ」

「はぁ……」

 あまりに平然と現れたものだから、どう対応してよいかわからず曖昧な返事になった。

「せんせー、火ぃ貸してください」

「ちゃんと返せよ」

「身体で?」

「黙れ」

 言って、葉名はライターを放り投げた。

 きれいな弧を描いて、三星の手のひらにすっぽりと収まる。慣れた手つきでタバコを咥え、着火した。

「せんせーナイスコントロール。体育教師でもやったほうが良かったんじゃないですか?」

「疲れるのは嫌いなんだ」

 カズマの反対側、葉名の隣で柵にもたれかかって、三星は楽しそうに煙を吐いた。

 未成年であるはずの三星がタバコをふかしている事実と、それを当然のように受け入れている葉名。

 目の前の光景に困惑しつつ、それを止めるほどの関係性でもなければ正義感も持ち合わせていないため、カズマは何も言わずに空を見上げた。先より雲が広がってきていた。

「せんせー、吉根君と何してたんです? 逢引きはもっとこっそりやったほうが良いと思いますよ?」

「お前も邪魔しに来るしな」

 葉名はけだるげに柵に身体を預けた。

「ハンコ巡りしてたんです」

 代わりにカズマが答えると、三星は虚を突かれたようにきょとんとした。

「寮でやれば良くない? 相部屋なんだし」

「それはもう本当にそうだったなと」

「何かあったの?」

 後悔をにじませるカズマの声に、三星は小さく笑った。

「三星、今彼氏いたっけか」

 葉名が二本目のタバコに火をつけて尋ねた。

「今はいないですね。多分」

「そんじゃ、吉根と付き合ってやってくれ」

「えっ」

 三星ではなく、カズマの方から声が出た。

 寝耳に水というレベルではない。そんな話は一ミリもしていなかったはずだが、記憶喪失にでもなったのか。

 あまりに意味の分からない事象を前にすると、人間は自分の頭の方を疑ってしまう生き物であるらしい。

「いいですよ」

 言葉を失うカズマに代わって、三星が一瞬の逡巡もなく受け入れた。

「念のため言うが、買い物に付き合うとかっていうオチじゃないからな」

「男女の交際をすれば良いんですよね? その代わりに一つお願いがあるんですけど」

「いやいやいやちょっとなんですかこれ」

 勝手に話を進める二人の間に慌てて割り込む。

「どうした。せっかくお前のために珍しく教師らしいことをしてやってるんだぞ」

「今までで一番反面教師やってますよ」

 当人を置いてきぼりにして話を進めることが教師らしい行動なわけがない。

「どんな理屈が繋がったら僕と三星先輩が付き合うことになるんですか」 

「お前は祭に離れてもらいたいんだろ? なら、お前がもう一人前で、あいつの保護がなくても大丈夫だって見せてやるのが一番早いだろ」

「なんですかその暴論。いきなり上級生と付き合うなんて不自然過ぎますよ。寮長もなんで拒否しないんですか」

「私、ノーと言えない日本人だから」

 ぷすー、と煙をふかして涼し気に言う。未成年で喫煙するくらいのガッツがあるならきちんと拒絶してほしいと思った。

「吉根。お前、今まであんま友達いなかっただろ?」

「まぁ、はい」

 望子の顔に傷をつけてからは、ゼロと言って良い。

「だからだよ。お前がボッチだから、祭はいつまでたってもお前から離れられないんだ」

 葉名は静かに、しかし強い語調で断言した。

「祭はお前を守ろうとしてるって話だったが、その実あいつはお前に依存してんだよ」

「先生、僕たちのこと嫌いなんですか?」

 思ったより温度の低い声が出た。

 自分のことはともかく、望子の優しさを否定されるのは納得がいかなかった。

 しかし葉名はひるんだ様子もなく、無表情にタバコをふかした。

「大好きだよ。アタシは博愛主義者だからな。全人類愛してる」

「なんですかそれ」

 冗談にしか聞こえないが、ぴくりとも笑みを見せずに言われると雑に流して良いのかわからなくなる。

「世界は待っていても変わってくれない。お前から動かないと、祭が変化することはないんだよ」

「それはそうかもしれないですけど、いきなり彼女じゃなくて友達を作るとかでも……」

「友達作れるのか?」

「……野田君とか」

「ほかには?」

「……」

「友達百人作れるならそれでもいいけどな。友達一人と彼女一人なら彼女の方が圧倒的に説得力があるだろ」

「で、でも、気持ちがないのに付き合うなんて変な話ですよ」

「フリでいいだろ。付き合ってるフリ。要するに、祭がお前の自立を納得できれば良いんだ」

 言いたいことはわかった。納得できるかどうかは別として、理屈は飲み込める。

 だが、そういう事ならば、カズマにも反論がある。

「僕はどちらかというと、望子に彼氏を作るべきだと思うんです」

「というと?」

「僕に彼女を作って望子の保護がいらないって見せるのは、まどろっこしいんですよ。それより望子に彼氏を作ったほうが、わかりやすいし確実です」

「彼氏作るアテはあんの?」

「野田君に持ち掛けて、とりあえず仲良くなるところから始めようって話になりました」

「ふぅん」

 カズマの言葉に、すう、と葉名が目を細める。

 数秒の思案。わずかに目を伏せると小さく息を吐いた。

「お前の言う事はもっともだ。が、それはアタシの案と食い違わないし、両方やればいいだけだろ」

「それは……」

 なおも反論しようとして開けた口から、空気が漏れる。

 葉名の言う通りであった。先の言葉を引用するならば、両方やったほうがより確実と言える。

 カズマは口を結んで、改めて考える。

 望子が、自分以外の人間と交友関係を広げるきっかけが欲しい。

 それを野田に求め、先日は強引に話を持ち掛けてしまった。

 改めて、彼には悪いことをしたと思う。

 焦っていたのだ。

 たった三年間。花の高校生活を、中学の頃のように棒に振らせてはいけない。そんな焦燥感に駆られていた。

 顔に傷がつく以前のような、明るく、人の輪の中心で笑う望子。

 彼女の人生を考えるならば、その方が幸せであるに決まっている。

 少なくとも、ほとんど笑わず、カズマを守るためにわざわざレベルの低い高校に進学するような現状よりは。

「……寮長は良いんですか? 僕なんかと付き合っているフリなんて」

 詰まりそうな喉から辛うじて声を出す。

 明後日の方を眺めながら煙草をふかしていた三星は「ん、大丈夫大丈夫」一瞬遅れて手を振った。

「そうそう、それで私からのお願いなんですけど、せんせー、今度私とデートしてくださいよ」

「一回だけな」

「やっさしー」

 三星は涼しい顔をほころばせて茶化すように言う。こんな表情もできるんだな、と思った。

「アタシはもう戻るから、お前らもさっさと帰れ。施錠忘れるなよ」

 葉名は思い出したようにノートにササっとサインをして、カズマに渡して去っていった。

 受け取ったノートを開く。

 Q.寮

 A.ハズレ

 Q.お祭り

 A.自由であるべき

 Q.友達

 A.いない

 滅茶苦茶雑なQ&Aが書かれてた。以降これを読んだ先輩たちは間違いなく困惑するだろう。

「吉根君、今週末は空いてる?」

 いつの間にかタバコを吸い終えていた三星が業務的に尋ねてきた。

「あ、はい」

 反射的に答えてから一瞬思案したが、翌週末に通院予定があったくらいだ。

 友達もいない、部活にも入らないで、スケジュール帳が埋まるはずもなかった。 

「今度の土曜デートしようか。ちょうどバイト休みだし。どこか行きたいとこある?」

「このあたりのことよく知らないので」

「なら行先はまた連絡するね」

 三星がスマホにラインのQRコードを表示させる。

 カズマは慌ててスマホを取り出し、読み込ませた。

「あの」

 屋上を後にしようとする三星に、改めて尋ねた。

「葉名先生とデートしたいから、僕との付き合うフリを了承したんですか?」

「さあ。どうだろうね」

 カズマの問いに、三星はピクリとも表情を動かさず、つまらなさそうにはぐらかした。

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