60.眠りへ ***

 二人の新たな生活は、貧しくも幸せに溢れた日々だった。

 「それじゃ、行ってくるわね。お利口にしててね、なんて言う必要はないかしら」

 「お母様、行ってらっしゃい!」

 快晴の朝。どうにか見つけた仕事場へ向かうオリハと、それを見送るダイト。二人は小さな玄関で、しばしの別れを告げる。

 扉が閉まれば、少年には孤独感がこみ上げる。しかしそれが彼を無気力の渦中へ誘うことはなく、むしろ彼を奮い立たせた。

 「……さ、今日は歴史でも勉強しようかな」

 ダイトは少し窮屈な居間に戻ると、その隅に置かれた古いデスクへと向かう。小さな硬い腰を椅子に乗せると、分厚い本を開いた。




 日が沈みすっかり暗くなった後、オリハはようやく家へと戻る。工事での重労働は、生まれつき体の弱い彼女の体力を着実に奪った。それでも彼女が、それを自ら露わにすることは無い。

 「ダイト、ただいま。さ、今からご飯作るから」

 「ま、待って。僕に作らせて。その……お母様の顔、とても疲れてる」

料理などしたこともない少年の言葉に、その母は小さく笑う。

 「ありがとう。でも、大丈夫よ。ダイトは優しい子ね」




 ささやかな日々の営みは変わること無く、ただ時は過ぎてゆく。初めての冬が訪れたのは、あっと言う間のことだった。それは酷く肌寒い朝。粉雪がちらちらと舞う。

 「――それじゃ、行ってくるわね」

いつもどおりの挨拶をするオリハの顔には、取り繕った笑顔が貼り付く。ダイトは笑顔で母を送り出した。




 白く化粧を済ませた街を一人寂しく進んでゆく。そこはもう随分と慣れた道だが、その日はたった一つの気がかりがあった。ふと額に手を当てたところで、それは確信へと変わる。

 「……少し熱っぽいかも」

 寒い風が吹く中、妙に火照った体の違和感は確かだった。昨日よりも体調が優れない。それでも、オリハが足を止めることはなかった。貧しくとも幸福な暮らしを守りたくば、引き返すことは許されないだから。




 工場へ辿り着いた頃、オリハはもう酷い疲労を覚えていた。それでも工場は彼女の都合など知る由も無く、ただ無機質に稼働する。所狭しと並んだ紡績機は回り続け、群がる人間もいつも通りにそれを操る。オリハもまたそこへ歯車の如く組み込まれ、工場の動力となる。そのはずだった。

 「……あ……れ」

 作業に従事して僅か数分後。彼女は床へと倒れ込む。一室に荒い呼吸が響き渡った。しかし大きな音をたてて稼働する機械に阻まれてか、直ちに彼女へ駆け寄る者は現れない。




 母が倒れた。その言葉を告げるために忙しない様子で彼の家へとやってきたのは、勤め先の工場長である中年の男だった。

 「ボウズ、乗れ。ギノバス王立病院へ向かう」

 ダイトは訳も分からぬまま、母の待つ病院へと向かう。まだ昼食には手を伸ばさないような時間だったが、空はやけに暗く映った。真っ白なはずの雪でさえ、くすんで見える。絶望が、少年を盲目にした。




 ダイトが駆け込んだ病室では、意識の無いオリハが治癒魔法を施されていた。母の前に立つ治癒魔導師は、まだダイトとそれほど年の変わらない少女。それでも彼女はどこか達観したように、大人と違わぬ精神性でダイトへと語った。

 「君のお母さんは、生きている」

ダイトの顔を見向きもせず、少女は言葉を変えた。

 「……いや、正確には無理矢理ボクに生かされている。そんな状態」

 「……どういうこと……ですか?」

 「ボクは疲労・意識回復系の治癒魔法なら、この病院で一番腕が立つ。そのボクの治癒魔法でも、まだ意識が取り戻せない。ボクが定期的に治癒魔法を行使してあげないと、君のお母さんはきっとすぐに死ぬ」

 「……そんな」

 鼓動は加速度的に早まり、視界はもうどこにも焦点が合わない。涙の零れた感覚はあっても、その意味が理解出来ない。混沌とした情緒に飲み込まれ、少年の心はついに砕かれた。

 それでもダイトは我に返り、床に頭を叩きつける。死にゆく親を見るのは、もう耐えられない。

 「どうか……どうかお母様を死なせないでください……!」

静かな一室に、涙の滲んだ若い声色が響く。冷淡な口調を貫いていた少女にも、その光景は見るに堪えない。

 「……くそっ、こんなこと言いたくない。けど、けど言うよ。君の為なんだから」

ダイトはすかさず頭を上げる。きっと酷い顔をしていたのだろうが、少女に焦点を合わせるので必死だった。

 「ここは病院だ。だからボクは、君から治癒の対価を得なくちゃならない。それがこの病院の規則であり、治癒魔導師・セイカとしての誇りだから」

そして少女は息を詰まらせるように苦しい言葉を零す。

 「君が母を生かすだけのお金を作るんだ。それだけが君に出来ることで、君にしか出来ないことだから」

ダイトは黙り込んだ。しかしセイカはそれを一喝する。ぶかぶかな白衣が揺れる。

 「やるんだ!! 君がお母さんを救うんだよ!!」

それが可能か、あるいは不可能かを考えている暇は無い。ダイトは我に返り、少女の怒号に呼応する。

 「……お母様を……生かしてください! お願いします!!」

セイカはやるせない顔を隠さず、少年の言葉をただ黙って聞き受けた。あまりに無力な少年へ理不尽を押しつけなければならない、そんな自分への嫌悪感へと抗う。

 それでもまだ話さなければならない。セイカは冷静な口調を装い直しつつ、また現実と向き合って言葉を零した。

 「……期日は一ヶ月後。でもこれはいいや。ボクが誤魔化しておく。次は二ヶ月後。そこまでに君はなんとしてでも、お金を準備するんだ」

 「……わかり……ました」

自信の無い少年の返答に対し、セイカはまたあえて感情を露わに言い放つ。

 「なら、今すぐどうやって準備するか考えて! ほら、早く! ここに居る暇なんてあるのかい!?」

 ダイトは母に寄り添いたい気持ちを必死に押し殺しつつも、病室を駆け出した。少女は捲し立てるようにぶつけた言葉を悔いるが、それ以外に手段は無いのだ。

 部屋にはセイカとオリハだけが残される。また部屋は静まり返り、治癒魔法の優しい魔力だけがそこに満ちる。

 「……ああもう。子の前で親を殺すのか、親の前で子を苦しめるのか。どっちが正解だったっていうんだよ」

次第にセイカの独り言は、オリハへの問いかけへと変わった。

 「オリハさん、あなたが意識を取り戻す保証はない。それにまだ幼いあなたの息子が、高額な治療費を準備できるわけも無い。けど、それであの子にあなたを諦めさせるのは、間違っていると思うんです」

少女は治癒魔法の出力を強める。

 「ボクはこの病院一の治癒魔導師です。だから、絶対に繋いでみせます。たとえ何年耐えることになろうとも」

 そのとき廊下から、看護師の声がかかった。

 「――セイカ先生! 急患お願いします!」

彼女は頷く。

 「分かった。すぐに行くよ」






【玲奈の備忘録】

No.60 ギノバス王立病院

ギノバスでは最も規模の大きい病院施設。治癒魔法の使い手である治癒魔導師が多数勤務しており、その魔法をもって患者の治療にあたる。なおギノバス王立病院はギルド・ギノバスとの提携病院であり、負傷したギルド魔導師のかかりつけ医院となっている。

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