59.再出発 ***

 夜は明け、また新しい一日が始まった。朗らかな朝日が貴族街を優しく照りつける。しかしアダマンスティア家に訪れた朝は、決して平穏と呼べたものではない。

 ダイトは目を覚ますと自室を後にした。寝ぼけたまま居間を覗けば、そこに漂う重く苦しい雰囲気に、幼いながらも異変を感じ取る。

 そこには体調を崩しているはずの母が足を運んでいただけでなく、ゴートを始めとした使用人数名が神妙な面持ちを浮かべ対峙していた。家事を始めている使用人が居ないのも、今日という日が日常では無いことを如実に表している。

 オリハはこちらに気がつくと、少しだけ歪んだ笑みを見せた。取り繕った表情を見せたままの彼女は、少し俯くと絞り出すように口を開く。

 「ダイト……このお屋敷とは、今日でお別れよ」

 「お母様……どういうこと?」

思いもよらぬ母の一言にダイトは混乱する。同時に使用人の者たちもうろたえた。

 ゴートはオリハを案じた。

 「オリハ様、しかしそれでは……」

 「私はこの選択が正しいと信じている。この先どうなっても後悔はしない」

オリハは使用人に向けた視線を再びダイトの元へ落とす。

 「ダイト、よく聞いてね。私たちはこの瞬間から、貴族という地位を捨てるの。だからもうここには住めない。使用人の皆さんともお別れよ」




 時は昨晩に遡る。ダイトが寝静まった頃、居間では使用人たちとオリハがテーブルを囲んだ。

 ゴートはそこへ手紙を差し出す。それは定例議会の帰り際、黒コートの人影が寄越したものだった。

 「……オリハ様、こ、こちらを」

そこに刻まれた文字は、更なる報復の宣言。紛れもない脅迫文であった。

 『コール=アダマンスティアの不幸に痛み入る。次なる不幸を畏れるのならば、ただちにその身分を放棄し、全ての財を国庫金として上納することをお勧めしよう』

 使用人たちはその横暴な内容に怒りを露わにする。

 「ふざけるな……こんな真似許されてたまるか!」

 「オリハ様、これは明らかな脅迫です。騎士に立件してもらうべきでしょう」

オリハは冷静に応じた。

 「……それはできないわ」

 「オリハ様! どうして!?」

 「この手紙の送り主は保守派貴族で間違いない。彼らは保身の為なら何でもするわ。騎士の買収だろうと、魔導師への暗殺依頼だろうと」

ゴートは粛々と付け加えた。

 「この文書を我々へ渡した男も、恐らくは刺客の人間です。護衛係の使用人曰く、奴が立ち去る際に見せたあの魔法は相当の練度であったと。ここに居る者では、誰も太刀打ち出来ませぬ」

 「な、なら魔導師を雇っては……?」

若い使用人の提案をゴートは一蹴する。

 「なりません。保守派どもの息がかかっていれば、一巻の終わりでしょう。それこそ騎士の買収より起こりうる」

オリハは真剣な面持ちで語った。

 「……家主たる私が決めなければならないことです。明日、私は全てをお話します。だから、考える時間が欲しい」

使用人たちはやるせなさから自然と視線を下に落とす。ゴートはその重たな空気を取っ払った。彼には、オリハの使用人としてすべきことが分かっていた。

 「……使用人の者は皆部屋を出ろ。今すぐにだ」

筆頭使用人の一声に、使用人の者たちは躊躇いつつも居間を後にし始めた。気づけば、部屋にはゴートのオリハの二人。

 「ゴート、ありがとう」

 「主に尽くす。使用人の務めであります」

最後にゴートが部屋を退いた。いまだ風邪が治らぬオリハは、その部屋にたった一人。

 「……コール、安心して。あの子は私が守るから」




 ダイトを守る為。その為だけにオリハは、全てを捨てる決断を選んだ。

ダイトの頬を涙が伝う。それは地位の喪失による虚脱感ではない。父の築き上げてきた全てが失われるという事実に、酷く心に痛んだから。

 「お父様も居なくっちゃったのに、お屋敷も無くなって。それに使用人さんたちも――」

 「ダイト――!」

温厚なオリハの、叱りつけるような呼びかけが部屋に響く。彼女には、ダイトの心情が全て見て取れた。

 「違うの。お父さんは失うんじゃない。一番大事なものを守る為に、それ以外を捨てるだけ。お母さんには分かる。彼はそういう人だから」

ダイトに顔を近づけて優しく語りかけたオリハはそのまま続ける。

 「これからは、生活の全て変わってしまう。それでも、お母さんに任せてみてくれないかな?」

ダイトは黙り込む。オリハはその頭を撫でてやった。

 「……こんなこと言っても、私なんかじゃ不安だよね」

強き母の選択は、脅迫への服従。しかしそれは諦観ではない。愛する子を守るという、一人の母としての挑戦だった。

 オリハはゴートら使用人に向き直ると、そのまま頭を下げた。

 「……私はあなたたちを解雇しなきゃいけない。本当にごめんなさい」

ゴートはオリハに手を差し出す。

 「奥様、あなたは悪くない。どうか坊ちゃんを、よろしくお願いいたします」

オリハは頭を上げると、差し出された手と握手を交わした。やるせなさを噛みしめながらも、ただ真っ直ぐに感謝を述べる。

 「ゴート……ありがとう。あなたには本当に長いことお世話になったわ」

手を解くと、ゴートは数歩背後に下がった。使用人たちはその老人の後ろに整列する。彼らの顔には、微かな笑顔が浮かんでいた。ゴートが頭を下げれば、背後の使用人たちもそれに続く。

 「長きに渡るご愛顧、深く感謝申し上げます。使用人一同、お二人の平穏を祈っております」

使用人たちの整然とした一礼は場を圧巻した。オリハは泣きじゃくるダイトの頭に手を置く。

 「ダイト、お礼はちゃんと言わなきゃね」

少年はそのくしゃくしゃの顔を上げた。

 「……り……がとう……ありがとう……ございました……」

その大粒の涙に、思わず使用人らも釣られた。ゴートは溜まった涙を隠しながら応じる。

 「……坊ちゃん、どうかお元気で」



 

 あまりに突然の出来事。目まぐるしい生活の変化だった。それでも生きるため、二人の営みはすぐに始まる。

 強き親子は、新たな生活の始まる住居へと辿り着いた。もといた貴族街からはずいぶんと離れた土地に佇む年季の入った小さな家だが、近くには王都一の商店街・ピリック通りがある。

 「さ、これで一通り引っ越しは完了。あとは私がお仕事を探さなきゃね」

 「あ、あのお母様。僕にも、できるお仕事……ないかな?」

一〇歳にも満たない少年に、雇い先などあるはずもない。それでもオリハはダイトの優しさが嬉しかった。

 「ふふ。ダイトはそのままお利口にしていてくれればいいの」

オリハは最後の荷物を置くと立ち上がる。

 「さ、せっかく近所に王都で一番大きな商店街があるのよ。いろいろと見て回りましょうか」

母はダイトへ手を差し伸べた。






【玲奈の備忘録】

No.59 貴族街

王都・ギノバスに中心部に位置する、貴族階級の人々が住む豪華な邸宅が集まった地域。リベリア宮殿を取り囲むように分布し、騎士団本部などの拠点も同地域に設置されている。

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