3.初仕事
突然としてこちらへ声を掛けるのは、見知らぬ不審な男。高い背に、死んだ魚のように無気力な瞳。伸びきった赤みがかる髪は、無造作に掻き上げられている。無精髭は、より一層不審な印象を強めた。
危険な予感がした玲奈としては、今すぐ逃げ出したいところだ。しかし彼女は、まだこの世界についてあまりにも無知過ぎる。情報を得る為に人を選ぶ余裕など無いのだ。故に彼女は意を決し、一歩ずつ男の寝そべるベンチへと近付いた。
男は不細工な歩き方でこちらへ歩み寄る玲奈を、ただ呆然と見つめる。意外と胆力のある彼女は、とりあえず先手を打って聞きたいことを尋ねた。
「あ、あのー。ギルド・ギノバスって、どのへんにあるかご存じでしょうかぁ……?」
「なんだ? 姉ちゃん魔導師志望か? 変わってんねぇ」
その職業に憧れすら抱き始めていた彼女は、その思わぬ返答に困惑する。
「え。魔導師になりたいって、変ですか?」
「あのな。魔導師ってのは、そう楽しい仕事じゃねえ。だから俺は、現にこうやって暇を持て余してる訳だ」
「あ、あれ。もしかして、あなた魔導師なの……?」
「まあ籍を置いてはいるが、今は前の仕事の報酬でのんびりしてる感じだな」
「え、まじで?」
「ああ、まじだ」
そこで会話は途切れた。玲奈は現役魔導師との偶然な出会いに幸運を感じつつも、そこから特に語ることは思い浮かばない。
そのとき男はのそのそと半身を起こし始めた。腕をゆっくり上げて頭を掻くと、突拍子も無く口を開く。
「腹減ったわ。飯、行こうぜ?」
妙にフレンドリーな誘いに動揺したが、その男の距離感は好都合だった。利用するほかない。
「私はギルドに行きたいんですけど……ご飯終わったら……良いです?」
「後から案内してやるよ」
男はふらりと歩き始める。玲奈はその男の言葉を信じ、追い掛けるようにして続いた。
男に付いて行けば、繁華街・エルウェ通りのとある出店の前へと至った。玲奈は男の指図通り少し離れた所で待っていると、その男は両手に食べ物を持って帰ってくる。
「ほれ。フォンタール牛のハンバーガー。最近の俺のオキニだ」
「ど、どうも」
密かに異世界の食事がいかようかと関心を抱く玲奈だったが、受け取った食べ物はどこか親しみすら持てるものだった。挟まっているのはパティにチーズだろうか。そしてその上には、またパティとチーズ。栄養バランスに配慮されていないどころか、悪魔的なカロリーを感じる。ジャンクフードとは、まさにこれを指すのだろう。
それでもお腹が空いていた玲奈は、さすがに我慢ならなかった。このときばかりはと、気にせずそれへかぶりつく。
「――うめーだろ? 俺が二日に一回は通う程だからな」
体に悪そうな脂をようやく飲み込んだ玲奈は、突き放すように告げた。
「こんなの二日に一回も食べてたら、体壊しますよ」
「そんなん知らねーよ。まあ早く食っちまえ。ギルド行くんだろ?」
「そうですけど……まあいいか。とにかく、その、ありがとうございます。わざわざご丁寧に、私の分まで」
「そりゃーいいんだ。俺が暇に付き合わせてるだけだし」
「そ、そういうもんですか」
「そーいうもんだ。まあついでに付け足すなら、魔導師を目指す奴は金に困ってるって相場が決まってるから」
食事とも呼べぬ食事を終えた二人は、ついにギルドへと歩を進める。
「ところで姉ちゃん、名前は?」
「氷見野玲奈です」
「ヒミノレーナ? どこまでが名で、どっからが姓だよ? 変な名前だな」
既に異世界へ適応しつつある玲奈は、そのリアクションから改名の必要性を察する。
「なるほどそんな感じか。そういうリアクションされるのね」
フェイバルの質問は続いた。
「王都外の出身か? だとしても、そんな名前初めて聞いたが」
「うーんと……王都外というか異世界というか……」
「意味分からんが、隠したい事情があるのは分かった。もう聞かん。んじゃ、魔法適正は?」
「あー丁度さっき診て貰いましたよ。こ、氷属性だけでしたケド……」
「へえ、一属性か。珍しいな」
「ところで、あなたの名前をお伺いしても?」
「フェイバル。フェイバル=リートハイトだ」
「なるほど、フェイバルさんですか。私からしたらそれのが変な名前ですけど、きっとそうでもないのよね」
このとき玲奈は表情一つ変えず、ただ平凡なリアクションで男の名を聞き流した。彼が世に轟く名声の持ち主であることを、彼女はまだ知らない。
「――ここがお前の目的地だ。さ、入るぞ」
男は大きな木の扉を押して開く。そこへ踏み出す前に漂ってくるのは、鼻を刺激する酒と料理の香り。それと同時に、人々の騒がしい声が耳へと飛び込んだ。玲奈の視界に映るのは、まさに想像通りの”ギルド”の姿。
そんな感動も束の間、ギルドで酒を酌み交わす人々は何やらざわつき始めた。玲奈にはそんな彼らの視線が、自身とその傍の男に向けられている気がしてならない。
ただフェイバルはそんな様子を気にも留めずに玲奈へ呟いた。
「こんな昼間から宴会ムードで、治安悪そうだろ。まあ察してくれ。酒飲んでねーとやってらんねぇような奴らが、ここに集まるんだ」
「いえ……昼飲みは意外とアリなんで……」
「なんだよ、意外と肝据わってんだな」
そしてフェイバルは、そのままずかずかとギルドに踏み入った。玲奈は一呼吸遅れてそれに続く。
フェイバルは突き当たりのカウンターに居る受付嬢らしき女性に話し掛ける。するとその女性は手慣れた様子で手続を始めた。男はどうやら玲奈が加入する手続を取り持ってくれているらしい。
手続きはなんとも簡易的だった。しばしの事務処理が完了すれば、玲奈はフェイバルに従って受付嬢に応対する。
「それでは、この紋章をお受け取りください」
受付嬢からバッジを受け取った。しかしそこからは何の説明も行われない。不親切にも、チュートリアルは無いらしい。
玲奈は早速ながら首にギルド紋章を下げてみた。それでもまだ、彼女には右も左も分からない。だから彼女は、もう少しだけフェイバルへ甘えることにした。厚かましいことは分かっているが、ときにはゴリ押しも大事だ。
「さあ、早速依頼に行きましょう! というか、最初から一人は心配なので付いて来てください! お願いします!!」
「嫌だ。俺今からすることあるし」
あっさりと突き放すフェイバルに玲奈は困惑する。
「ちょま……ここは新人研修とか無いんですか!? そんな企業あってたまるか!!」
「何言ってるかわからんが、俺は今から来月の
正直何を言っているか分からないが、この我儘だけは通しておきたい。玲奈は折れなかった。
「そ、そんなことパパッと終わらせちゃってくださいよ!」
そのとき男は、何か閃いたと言わんばかりの表情で提案する。
「なんか簡単そうな口ぶりだな。ならさ、お前がやってくんね?」
「……エ?」
どういう風の吹き回しだろうか。フェイバルはギルド近くの自宅へ玲奈を招待した。
それは一見かなり立派な建物であり、真昼の公園で惰眠を貪る主人には似合わない。勿論言葉にはしないが、玲奈は傍の男と目の前の家宅のギャップに困惑した。
男は施錠もしていない玄関の扉を開く。無論その防犯意識の無さにも驚いたが、中を覗き込んだ玲奈は更に愕然とした。
飛散したゴミに、廊下の隅でこんもりと溜まった埃の山。ただただ最悪の環境だった。
それでもフェイバルはお構いなしにそこを進む。玲奈はそこへ足を踏み入れればどうにかなってしまいそうだったが、意を決して後ろに続いた。
人の家に上がり込んでいながらも、玲奈はついに耐えきれず愚痴を零す。
「いやいや、何ですこれ? ゴミ屋敷? テレビでしか見たことないですよ、このレベル……」
「何言ってるか分からんが、男の一人暮らしってのはきっとこんなもんだ」
玲奈の愚痴は簡単に片付けられてしまった。それより先に部屋を片付けてほしいところだ。そして何より、まずは全世界の男性に謝罪して欲しい。
フェイバルはおもむろに居間の隅に据えられたデスクを指差す。
「ほーら。お前の初仕事だぞ」
玲奈はそこを覗き込んだ。
「んーと……”王国騎士団・国選魔導師共同作戦会議の日程について”」
(国選魔道師……国が選んだ魔導師……ってこと? この人が?)
仰々しい文字の数々。そして玲奈は、その妙に上質な紙が公文書であると察する。
ここでつい先程の記憶が繋がった。この男とギルドに入った際に場がざわめいたのは、この男が注目を浴びるに足る人物であるということだろう。
フェイバルはそんな玲奈の脳裏を知るはずもなく、ただ淡々と要件を述べる。
「このデスクにある文書、全部今月の仕事なんだわ。国選依頼とか、それの会議とかいろいろ。すげー量だが、まとめてくれね?」
玲奈は書類を一枚手にする。幸いに識字はできるので、ブラック企業で磨き上げられた事務処理能力を発揮してやることにした。ギルドへ案内してくれた恩を返すためにもここは一肌脱ぐべきだろうという、彼女なりの誠意である。
(大学生の頃とりあえずで秘書検定受けといて良かった……! まさか死んでから資格が生きるなんて……死んだとか生きたとかややこしいな)
玲奈はこっそりと在学中の自分を褒めてやった。スケジュール管理など、彼女の手にかかれば朝飯前だ。パソコンがあればもっと楽なのだが、手帳一つあれば十分にまとめることができる。
しかし玲奈は一つの大問題に気が付く。それは単純明快ながら、ここが異世界であるということ。彼女は街の立地を知らないどころか、この世界の文明すらまだまだ未知なのである。
玲奈は探りを入れるように呟いた。
「えーと、ここまで何で行けばいいの? タクシーとか?」
「そんなもん、専属車に決まってんだろ」
「……そ、そ、そうですよね!! それそれ!」
「えーと、時計あります? あと、暦が分かるものも」
「懐中時計はこいつ使え。七曜表は、んーとあそこに貼ってある」
「キタ。時刻も暦もだいたい同じだ。ご都合設定! 分かるぞ!!」
本来なら一人でクールに業務をこなしたいところだったが、彼の意向に添えれば及第点だろう。玲奈はフェイバルに会場の場所や移動手段、所要時間を幾度も尋ねて作業を進めた。
全ての仕事が片付いたときには、既に陽が落ちていた。玲奈は渡された手帳に開き、それをフェイバルへと見せつける。事務処理後の疲労感は前世の仕事と似たものを感じたが、新鮮な業務内容だからか意外にも嫌悪感は感じない。
「ふぅ……や、やっと終わった。これでどうよ……!」
「うお、お前やるじゃん」
時間こそ掛かったが、玲奈は無事に一ヶ月分のスケジュールを整然と書き留めた。フェイバルは手帳を奪い取って勢いよく閉じると、その勢いのまま立ち上がる。
「……よし決めた! お前を雇う。今日からお前は魔導師秘書だ」
そのとき玲奈の疲労は吹き飛んだ。深夜であることを忘れて、思わず大きな声を上げる。
「え、ええぇぇぇぇええええええ!!?」
【玲奈の備忘録】
No.3 ギルド
別称は魔導師組合。魔導師はギルドで手続を経て登録されることで、ギルドに届く依頼を受諾し報酬を得る契約が可能となる。各都市にはそれぞれ一つずつの魔導師ギルドが設立されており、中でもギルド・ギノバスは大陸最大規模を誇る。
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