第6話




 遠い遠い、いつとも知れぬ時の彼方のいずことも知れぬ場所での出来事だった。


 なにもないただとろとろとねばりつく闇の中、それは生まれた。

 闇の中から生まれたというにふさわしい闇の色をしたそれには三つの頭があった。三つのうち銀と赤のたてがみを持った頭はそれぞれ一対の緑の瞳をあちこちに彷徨わせていたが、中央に位置する金のたてがみは目を閉じたままであった。

 それが一歩を踏み出せばその周囲に渦が生じた。

 打ち振る尾の打擲でも渦が巻きおこる。

 それの動きにつれてそこかしこ、大小さまざまの渦が生まれてゆく。

 渦はゆるゆるとその動きを大きく小さく繰り返し、やがてはひとつひとつの凝った塊へと変じた。

 それが歩を進めるごとに塊は増えてゆく。

 やがてそれらの中に燃え盛るものが現れる。

 ひとつ。

 また、ひとつ。

 燃え尽きるもの、燃え盛るもの、炎が途中で消えるもの。

 それがまた一歩闇を踏みしだく。

 とろりと渦が生まれる。

 炎を反射してどれほどの光が闇の中に生まれただろう。

 それの全身を覆う黒いうろこがその光を反射し輝きはじめる。

 それも知らず、それはただ光の間を気ままに走り抜けてゆく。

 数を増やした塊がその進む場所にあるというだけで、無残にも踏み砕かれ打ち砕かれてゆく。

 ただ、本能のままに。

 意識することもなく。

 それには、自我というものがなかった。

 本能というものがあるという意識もなかった。

 飢えも渇きもなかった。

 ただ、かくあるのみとばかりに、存在していたのだ。

 そうして。

 遥かな時間が流れて過ぎた。



 星々の迷宮の果て、それは眠りについていた。

 どこで眠っているのかなどそれには問題ではなかった。

 どこであろうと、すべてはそれのものであったからだ。

 それが存在することで生まれたもの。

 それが存在することで失われたもの。

 闇の中を気ままに走り抜けた記憶ははるかに遠い。

 光またたく闇の中、ただとろとろとまどろみつづけていた。

 時折、それのまどろみを妨げるものがあったが、尾の一振りで片がついた。

 それでも消えないものは、銀のたてがみ、赤のたてがみの一睨みで消え去った。

 金のたてがみの目を覚まさせるものは、存在しない。

 たとえ邪魔ものがそれよりすらも魁偉な存在であったとしても、かなうものは存在しなかった。



 やがて、眠りつづけるそれの周りに、それをたのむものが現れはじめた。

 永いまどろみのなか、一顧だにされることはなかったが。

 それを寄る辺として集まるものたちは、その周囲に世界を構築した。

 ひららかで広いその世界に小さなものたちは集い、緑を、水を、光と闇とを集めた。

 そうして、再び永い時が流れ去ってゆく。



 目覚めた時、それは周囲の光景に目をすがめた。

 眠る前のそれの知るものとはあまりにかけ離れた光景であった。

 どうと流れ落ちるゆたかな滝も、濃密な木々の緑を透かして降り注ぐ琥珀の光のもとも、それは凡ての名を知ることはなかったが、それらが心地よいものであることは感じ取っていた。

 緑の目をすがめて、周囲を見渡す。

 ふぅと、大きな息を吐く。

 その頭にからだに羽を休めていた鳥や獣や虫が、慌てて逃げ出してゆく。

 気にかけることもなく、それは再びのまどろみへと戻っていった。


 時が過ぎる。

 永遠とも思えるほどの時間が流れて去って行く。


 そうして、それはある時それを滅ぼそうとする存在を知ったのだ。

 それと同時に、それを恃みとするなにかが存在することも知った。


 奇妙ともなんとも思いはしなかった。

 ただ、煩わしいと。

 未だ自我はなかったが、それでも、それが煩わしいという思いは芽生えた。

 その思いに応えるかのように、なにものかがそれの前に膝をついた。そうして、何処ともなく飛び去って行く。おびただしい数のものたちは二度と戻ってくることはなかった。


 それが現れたのは、突然のことだった。

 突然の身を焼く痛みに、それは混乱をきたした。痛みなど感じたのは初めてであったからだ。それを痛みだと認識することもなく、混乱のままに、元凶を睨みつける。

 元凶は初めて見るものだった。

 戻ってくることのなかったものたちよりも小さな、不思議な形をしたもの。それが六騎、雄叫びをあげて襲いかかってくる。

 赤と銀が襲いかかってくるそれらを追い払おうと、うごめいた。

 こんな状況でも、金は目覚めることもない。

 銀に輝く何かがそれのからだを刺すたびに、無視できぬ痛みが襲いかかる。

 煩わしい。

 立ち上がり応戦し始めると、尚更に強い痛みが襲いかかってきた。

 生まれて初めての声を、叫びを、それはあげた。

 嫌悪と憎悪の籠った叫びは、したたかな質量を持って、六騎の小さなものたちに襲いかかる。


 そうしてどれほどの間戦いがつづけられただろう。


 六騎の小さなものたちは満身創痍となっていた。

 それのからだからは血がながれている。血は大地を染め、そこここに生える木や草を枯らしてゆく。

 六対一の対峙が静かにつづいていた。

 どちらが緊張の糸を先に切ったのか。

 それは、わからない。

 不意に六騎が、首を大きくもたげたそれに、一度に襲いかかった。

 それは最後の一撃であったろう。渾身の力を込めてのその一撃を、それは首に受けることとなった。

 そうして、それは同時に、これまで一度として目覚めたことのなかった金のたてがみの頭を目覚めさせる結果となった。

 金の頭が大きく伸び上がり、その一度として見開いたことのなかった瞼を見開く。


 大地が身をよじる。 


 大気が悲鳴を上げた。


 風が吹き抜け、枯れた草や木を大きく動かす。


 正負の感情のいずれもない、その緑の目に、六騎が射すくめられた。

 何もないその緑の瞳のその奥に、何を見たのか。六騎は目に見える大きな後退を繰り返す。


 大きな音を立てて岩が転がり落ちた。

 その衝撃に、六騎は、はじかれるようにしてそれに背中を向けたのだ。

 後は、逃走の一手しか残されてはいなかった。







 その瞬間、世界に生きとし生けるものたちは、鳥肌立って慄きを感じていた。

 それは理屈ではなかった。

 突然乱れた鼓動が、吹き始めた生暖かな風が、彼らの鼓動と連動したかのような大地の喘鳴が。

 空は血のような赤を宿し、黄金の槍を降らせた。

 ゴロゴロと喉鳴りを伴った雷鳴が、大粒の雨や雹を降らせる。

 全てがおかしかった。

 狂っていた。

 ぶくぶくと泡立つ海や川の水。

 大地はひび割れ、木々は葉を散らした。


 終末だ−−−と何某がつぶやいたことばは近くの耳が拾い上げ、広がってゆく。


 まさに、それは終末の光景であったのだろう。


 泣き叫び、なにものとも知れぬものに祈りを捧げるものたちがそこここにあらわれた。




 少年の眼の前で、三つの頭が音を立てて落ちた。

 少年くらいの大きさはあるだろうか、巨大な首が一斉に落ちるさまを、彼は即座には理解できなかった。

 何が起きたのか。

 理解した時には、少年の全身は三つの首ハロムフェイの血にまみれていた。

 不思議とそれを不快だと感じることはなかった。

 あまつさえ何かにそそのかされるかのように、ちろりと舐めてさえいたのだ。

 味はなかった。

 触れたそれには、匂いも温もりもありはしなかった。

 どくどくと断面図から溢れ出す血が、地面を濡らし、足元を溶かしてゆく。

 遂に足元が透明な強化ガラスのようなものへと変じた。

 まるで宇宙空間に突然投げ出されたかのような不安定さに、とっさにハロムフェイにすがりつく。

 熱を無くしつつあるそれに、不意に怖気がこみあげた。

 これは、骸なのだと。

 けれど、どうして手を放せるだろう。

 これしかよすがはない。

 放せば、自分はどこかへ漂い行ってしまうのに違いない。そこから自分は元の場所へと戻ることができるだろうか。そう思い至った時、少年は突然心細さを覚えた。それは、即座に不安から恐怖へと育ってゆく。そうして、いつしか少年は全身を震わせるようになっていた。

 そうなっても少年はしがみつく手を放せない。そんな少年の眼の前に、三つの首が漂っていた。

 濁らない緑の瞳が、少年を凝視してくる。

 しかし、先程までの感情は、今の少年からは失せていた。

 ただひたすらに恐ろしかったのだ。

 恐怖の源はよくよく考えればハロムフェイの首ではなかったろうが、まだ学童にすぎない年頃の少年にとってその差異を確認することはできなかったのだ。

「か、帰るっ! こんなところ、やだっ! 帰るっ!」

 涙をながしながら、少年が叫ぶ。

 涙に歪む視界いっぱい、三つの首がゆらゆらと輪郭をぼやかせてゆく。


 しかし。


 やがて、三つの首がそれぞれたてがみの色をした髪を持つ男へと変貌を遂げた時、少年は、その場所から消え失せていた。


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