第4話
白く湿った空間には、今は音さえも聞こえない。
ただゆるゆると霧が流れる。
ほのかな光に照らされて、さまざまな木々のシルエットが影を描く。
しんと静まり返ったその空間が、ふいに光り輝いた。
一点からなにかが破裂するかのようなその一閃は、固唾を飲んでいた自然を我に返らせた。鳥の羽ばたきにひずめの大地をえぐる音、肉球が下生えを踏みしだく音、など。霧にまぎれて目視不可能であったものたちが、一斉に動きだす。
音もなくただ光の破裂だけにと思えたそれが瞬時にして消え去ったあと、とさりと軽い音をたて、何者かがその場に倒れ伏した。
それは、まだ幼稚園くらいだろうか、幼い少年だった。
あどけない顔立ちは少女のものとも少年のものともとれる。ただ、濃紺のTシャツにジーンズの半ズボン、白いソックスに戦隊ものだろうキャラクターの模様がついた幼児用スニーカーという格好から、少年だと思われた。
いくばくかの時間が過ぎ、ぼんやりとその場に起き上がった少年の周囲は、まだうっすらと霧が立ち込めている。
なんども目を瞑ったり見開いたりを繰り返し、乱暴に目元を拭う。そうしても視界がクリアにならないことが不安なのか、褐色の大きな瞳を備える瞼に涙がこみ上げてくる。それを薄めのくちびるを噛み締めてこらえるあたりに性根のきつさがうかがえる。
今にも流れ落ちそうな涙をTシャツの袖で拭い、少年は立ち上がった。
大きく深呼吸を繰り返し、声を出す。
弱々しく震えていた声が、やがて何かの歌となった。
一歩を踏み出す。
歌いながら歩き始める。
少年が声を少しずつ大きくし、歌がはっきりとわかるほどになるころ、ようやく霧が消え去った。
少年が選んだのは、まだ幼い彼の持つレパートリーの中でも一番元気が出る、ここ最近のお気に入りの戦隊ものの主題歌だった。掛け声も勇ましく五人組の正義の味方が巨大な敵に立ち向かって行く。その時にバックに流れる曲でもあった。
「おうっ!」
締めの最後のことばとともに、右手を空に向かって振りかざす。そうすることで自分の中の不安も打ち砕こうとするかのようである。
何度もなんども、同じ歌を繰り返す。
飽きることはない。
赤い戦隊服も格好良いリーダーよりも、少年が贔屓しているのは青い戦隊服の少し惚れっぽいヒーローだった。惚れた相手に振られてはずっこけるが、くじけない。彼を振った女の子を応援できるくらい心が強い。それに主人公なだけあって、決める時は格好良く決める。彼の変身シーンを真似ると本当に変身して強くなった気になれるのだ。
だから、歌いながら歩きながら、青い正義の味方の真似を繰り返す。
正義の味方だから、不安なんか追い払う。
強いんだ。
悪い奴なんか、こわくない。
ひとりだって、ここがどこかわからなくたって、こわくなんかない。
そう。
けれど。
湧きあがる弱気の虫を、右手を振って追い払う。
さっきまで確かにあった、母親の手の感触を求めずにいられないけれど。
どうしてという疑問も、不安も、恐怖も確かにあるけれど。
大丈夫。
だって、ぼくは、青いヒーローなんだから。
「おうっ!」
勇ましく掛け声をかけた。
その時、
『ここだな』
しっとりと落ち着いた声が聞こえた。
『おや』
少し高い声。
『ほほう』
低い声。
三つの声とともに、少年の横手にあったらしい細い道から現れたのは、それぞれ背の高い男達だった。
少年は目を丸く見開いた。
ひとりぼっちの不安は、相手が外人だという驚愕に取って代わられる。
金の髪、銀の髪、燃えるような赤い髪。
悪役の幹部が着ている服のようなものを着ている。
悪い奴?
そう思っても仕方ないのかもしれない。
少年の知るテレビの中の悪役は、世界征服が目的なのに、彼とさして歳の違わないような子供達を襲うのだ。
『こどもだな』
『少年のようだ』
『ここになぜ』
三対の緑の瞳が少年を観察する。それさえもが少年に恐怖を抱かせるものだと、彼らが気付いているようすはない。
金の髪の男が、少年に近づく。
大きく震えた少年の下瞼から、いつの間にか溢れそうに盛り上がっていた涙がこぼれ落ちる。
頭に置かれた手の感触に、思わず瞑ってしまった目を見開く。
『黒髪に褐色の目か』
赤い髪の男の緑の目が少年の褐色の目を覗き込む。
『いとけないねぇ』
銀の髪の男の細い指が少年の目元を拭った。
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