第3話



 本当の名前は、矢野脩という。

 そう。

 ヤノーシュなどではないのだ。

 れっきとした日本人だった。

 いや、日本人なのだ。

 あの日、DVDを返しに家を出た。

 ただそれだけだったのだ。

 借りてきたのは彼の父だったが、面倒だから返してこいと言われたのだ。

 ついでにコンビニでなんか買って帰ろうと、自転車にまたがった。

 細い脇道に曲がった時、車のヘッドライトが迫ってきた。

 家はすぐそこで、気を抜いた途端の奇禍だった。

 ぶつかった。

 そんな気がした。

 そうして、気がつけば、ここにいる。

 窓の外は、夜空。

 それも、星を身近に感じるほどの迫力で迫ってくる。

 ここは、この城で一番高い位置にある部屋だということだ。

 三十畳ほどの室内には、やけに繊細できどった家具が配置されている。

 紫紺に金のアクセントの装飾は、まるで外国の城のようだ。天井からぶら下がるシャンデリアや、天井に刻まれ彩色された絵が、ますますその雰囲気を強めている。

「城だけどな」

 苛立ったような声で、嘲るようにつぶやいた。

 なんと言ったか。

宇宙そらの間でございます』

と、彼とさして歳が違わないだろう、立ち襟の軍服めいたお仕着せを着た西洋風の顔立ちをした少年が今日からはこちらを使えと言いながらそうつけ加えた。

「宇宙……か」

 ゆっくりと喋ってくれたため聞き取ることができたが、日本語ではない。英語でもなかった。もちろん、意味はわからなかった。ただ、ここを使えということだろうと仕草を見て思っただけで、それはどうやら勘違いなどではなかったらしい。

 ただ、”宇宙”と発音された言葉が、妙に耳に残って気になったのだ。

 金髪で緑の目のあの男が少しずつことばを教えてくれてはいるが、投げ出したくなる。

 覚えられない。

 判らない。 

 なぜだろう、それに尽きるのだ。覚えてしまえば最後、何かのっぴきならない状態に陥ってしまうのではないか。そんな不安が、心の奥底によどみ、わだかまっている。

 今でもかなりどうにもならない状況にいるのに−−−だ。

 それに。

 なんで今更、赤ん坊みたいに言葉を一から覚えなければならないんだ。

 そう自棄になったのは、つい昨日のことだ。

 通じないのは判っていたが、それでも、苛立たしくてならなかった。

 目の前で穏やかに忍耐強くつきあってくれている男が、実はかなり忙しい立場の人間だと想像がついていても、だからどうしたんだと、叫びだしたくなった。

 泣き叫びたくなった。

 家に帰りたい。

 食って掛かっても、通じない。

 困ったように自分を見下ろしてくる穏やかに整った甘い顔に、腹立たしさばかりが募ってきた。

 訳の分からない状況をどうにか認めて、一週間になるだろうか。

 オーロイレと名乗った金髪の男と、ラドカーンと名乗った銀髪の男が、入れ替わり立ち替わり、言葉を教えてくれていた。

 それでも。

 いや、だからこそかもしれない。

 彼はこれまでに経験したことがないほどに混乱していたのだ。

 そんな自分に彼自身で気づかないほどに。

 キレたのは、外に出ることができなかったからだ。

 たったそれだけの理由がきっかけだった。

 その日はオーロイレもラドカーンもこなかった。

 ああ、ふたりとも忙しいんだな。

 座り心地のいい椅子に座ったまま、執事らしい男が脩のために準備をしたノートや本を、所在無くめくっては閉じてを繰り返していた。

 こちらでーと、指し示されたから座って本を開いてはみたものの、もとより気は乗らない。

 このままでは駄目だと判っていても、だからどうしたというのだと自暴自棄に襲われる。言葉など覚えたくない。覚えてしまえば、元の言葉を忘れてしまいそうな不安があった。そうなれば、自分は、元いたところに戻れなくなるのではないか?

 そう。

 彼、矢野脩は気づいている。

 自分がこの一週間というもの、なにも食べたり飲んだりしていないことを。

 それでも、渇きはおろか、空腹さえも感じずにいることを。

 なにも飲み食いなどしていないことを。

 おそらく、あのふたりもそれをわかっているだろう。わかっていて勧めてくる節がある。何かを食べさせようと。今だとて、この部屋に、見たことがあるようなないような、果物だろうものや菓子類、飲み物がさりげなく置いてある。

 匂いさえも感じないせいで、手が伸びはしないが。

 食べたらどうなるのだろう。

 一口でも飲んでみたら。

 なぜか、背中を怖気おぞけが這い上がってくる。

 赤の他人のことなど、捨てておいてくれれば良かったのだ。

 彼らが悪いわけじゃない。

 彼にも、自分が尋常じゃない何かに巻き込まれたのだということは判っていた。偶然が彼をこんな状況へと追いやったのだと。

 なにひとつ責任もないだろう彼らがとりあえず寄る辺のない彼の身柄を引き受けてくれているのだということも、判っていた。

 だからこそ、彼らに申し訳なくて、ことばを覚えようとはしているのだ。

 本当は、覚えたくないのに。

 結局は覚える振りになってしまっているのだが。

 覚えてしまうことが、恐ろしくてならないからだ。

 それでも、彼らに感謝しなければ。

 しかし。

 だからこそ。

 ここまでしてくれるのだから言葉を覚えなければという義務感と、覚えることに対する抵抗がストレスになって、彼を追いつめていた。

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