第30話 賃貸契約書の謎

「まあまあ、清さん。そのことは大目に見てくれないですか。僕は、欽之助で結構。これでやっと、本来の自分に戻れたんだから」


「坊ちゃんが、そうおっしゃるなら仕方がありません。でも、決してこのに甘い顔をしちゃあ駄目ですよ」


「うん、分かった」


 おれはそう言うと、再びバスガールのほうに向き治った。

「さてと……。僕はあの時、モンジ老さんには大迷惑していると、君にはっきりと伝えたはずだが。だのに、何故いまだに、彼がここに居るんだろう」


「それは……、あなたとの約束があるから」


「僕との約束って?」


「だから、乱れ髪を私が追っ払ってあげる代わりに、ここに住まわせてくれるって約束」


「それはだから、君がモンジ老さんに頼んでくれたお蔭で解決したはずだ。ここの賃貸契約書に書かれてあった問題の箇所を、彼が食べてくれたお陰でね」


 問題の箇所とは、「夜の深き頃に、両腕りょうかいなにて首を絞められることあらんも、異議の申し立てなど、之有間敷候これあるまじくそうろう」とあった一文のことである。


「だから、あんたは甘いって言うんだよ」

 バスガールがそう言うと、きよさんが、すかさずじろっと睨む。


「いや、欽之助……さんは優しすぎる、と言いたくて」

 慌ててそう言い換える。


「うーん、分からないなあ。モンジ老さんが食べてくれたから、万事めでたし、めでたしじゃないか」


「だって、契約書は二通あるんだよ」

 彼女の言葉に、あっと気づいた。


 これは迂闊うかつだった。たしかにバスガールの言うとおり、契約書は正本を二通作成し、二通ともハンコを押したうえで、化野あだしの不動産とおれとでそれぞれ保管していたのだった。


「だから、ここにあるものをモンジ老さんが幾ら食べても、食べたそばから問題の箇所が復元されてしまうの。それで彼に常駐してもらうしかなかった」


「そうだったのか……」


 すると、清さんが口を挟んできた。

「なるほど、そんなことがあったんですか。しかし本当に撃退すべきは、その乱れ髪とやらではなくて、坊ちゃんを騙して、そんなイカサマ契約書を交わした化野不動産とやらではないですか?」


「僕もそう思って、化野あだしのの所に尻を持ち込んでみましたよ。でも、中途解約ができないという条項があるうえに、生涯特約を結んでいるとの一点張りなんだ」


「そんなイカサマ契約書なんて、法律的には無効ですよ。弁護士さんには相談されましたか?」


「無論です。しかし、これも無駄足でした。法律の手が及ばない事案だと言うんです。しかも、化野は不動産仲介業を装ってますが、本当はこの世とあの世との仲介を行っているということでした」


「だったら、この私が乗り込んで――」

 と、清さんがまた印を結ぶ真似をする。


「無駄ですよ」

 今度はバスガールが口を挟んできた。


「どうしてだい?」

 清さんが、睨み付ける。


 しかし、バスガールも今度は怯む様子を見せない。

「あいつは、半妖はんようって言って、人間と妖怪の中間的な存在なんです。しかも、大変な妖力を持っています。

 モンジ老さんが奴の所に行って、例の『之有間敷候これあるまじくそうろう』の一文だけ食べようとしたんですが、手も足も出ませんでした」


 おれは思わず、亀のようにむしろの中に手足を引っ込めているモンジ老さんの姿を想像し、つい吹き出してしまった。


「笑い事じゃありませんよ。それで、あなたのおっしゃっている乱れ髪とやらは、どうなさるおつもりですか?」


「どうするって……? うーん、困ったなあ。清さんがモンジ老さんを追い出しちゃったから、また出てくるようになるかもしれない。困るよ」


「困るって、どう困るんですか?」

 えらく追及してくる。


「だって、夜中に出てくるんですよ。それで、両腕を僕の首に絡め付けてくるんだから。困るにきまってるじゃないですか」

「それで、契約書の条項にあるように、首を絞められたりするんですか?」


「首を……? いや、それはないけど。しかし、夜中に出てきてそんなことをされたんじゃ、寝られないじゃないですか」


「一晩中、両腕を搦め付けてきて寝かせてくれないというんですか?」

 

「ちょっと、清さん。何言ってるんですか」

 彼女の言葉に、おれはつい変なシーンを想像してしまい、狼狽してしまったのだった。ねえ、抱いてと、乱れ髪は言っていたが……。


 するとバスガールが、駄目っと叫んだ。

「欽之助にそんなこと、私が絶対にさせないから」


「あんたは、お黙り」

 清さんが鋭く一喝する。

「それで坊ちゃん。一晩中寝られなかったって言うんですか? どうぞ答えてください。どうなんです?」


 いつもは優しい彼女が、今日はなかなか追及の手を緩めてくれない。

 清さん、一体どうしちゃったんだろう。


 然し、一晩中かと問われれば、そうでもなかったかもしれない。いくら振り払っても、両腕が畳の下から伸びてはくるが、時間にしてみればそんなに長くはなかったであろう。


「そうですよ」

 いきなり切り込んでくる。

「あなたは自分が小説を書けないのを、乱れ髪のせいにしたんです。そうやって、自分を誤魔化してきたんですよ。坊ちゃんは卑怯です」


「そんなことを清さんに言われる筋合いはない」

 おれはついに気色ばんでしまった。彼女の言うのが図星だったからであろう。


「坊ちゃん」

 清さんは正座をしたまま、こちらに向き直った。

「さっきも申し上げましたように、私は一度墓の下をくぐった人間です。ですから、あなたがそんな顔をいくらなさっても、怖いことも何ともありません」


 まるで、こちらに果し合いを挑んでくるばかりの剣幕である。

 それならそれで、こっちだって言い分がある。そもそも、こちらがいいというのを半ば強引に住み込んできたんだから。今日こそ、その訳を聞かなければ。


「分かりました」

 一言そう言うと、おれも清さん面と向かい合った。

「あなたの仰ることを、そのまま信じることと致しましょう。それなら、なぜこの世に戻ってきたんですか? そもそもこの家とあなたとの関係は……?」


 清さんはしばらく俯いたまま黙っていたが、やがて思い切ったように顔を上げると、静かに話し始めた。

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