第25話 水かけ女、登場

 しばらく井戸の周囲まわりをぶらぶらしていた寅さんが、そばにやってきた。


 井戸の跡を顎でしゃくりながら言う。

「おい、大先生。あそこに何か出ることはないか」


「あそこって?」

 大先生と呼ばれたことにむっとしたので、何と言い返そうか迷いながら、漫然とそう呟く。


「だから井戸だよ」


「井戸と言ったって、もうすっかり塞がれているじゃないですか」


「うん……。それは確かにそうなんだが。本当に何も出ないか?」


「知りませんよ、僕は」

 おれはなおも腹を立てていたので、吐き捨てるように答えた。


 しかし、向こうでは全く意に介していないようである。

「俺がガキの時分は、あれはまだ現役で、屋根が付いていた。学校帰りに喉が渇いていた時は、勝手に釣瓶つるべで水を汲み上げてガブガブ飲んだものさ」


「それで寅さん、出るって何がだい?」

 ヤンマーが興味津々なように尋ねる。


「うーん、それがだなあ……」

 寅さんがしぶしぶ話して聞かせてくれたのは、次のようなものだった。



 もう十年も昔のことである。


 ある日、寅さんは晩酌でつい飲みすぎてしまい、とうとう奥さんと喧嘩になってしまった。そのあげくに、家を飛び出す。


 夏の宵のことで、あたりはまだ薄明るい。


「チクショウ、面白くねえなあ」

 とブツブツ言いながら歩いていると、いつの間にかこのあばら家の近くに辿り着いていた。


 どこからかも言われぬようないい匂いが漂ってくる。誘われるままに歩いていくと、夜顔だろうか、生け垣に大きな白い花がたくさん咲いている。


 何となく生け垣の隙間から覗いてみると、井戸のそばで女が片膝をついて、行水をしている。


 女は寅さんに気づくと、

「見てるんじゃないよ」

 と叫んだ。


 それから着物をさっとまとい、釣瓶の縄に掴まると、そのまま井戸の中にスルスルと消えてしまった。底のほうから、ザブンという音が聞こえる。


「おいおい、それじゃあ水浸しじゃねえか。そんなことなら、最初はなっから井戸の外で水浴びすることなんてなかったんじゃねえかなあ」


 寅さんがそうひとちた時だった。いきなり頭から、ザバッと水をぶっかけられた。



「見上げると、カカアがバケツを持って仁王立ちで立っているんだ。水だけでは飽き足りないのか、今度は罵声まで浴びせかけてきやがった。ろくな稼ぎもないくせに、毎日飲んだくれてんじゃないわよ、ってな」


 おれとヤンマーは一瞬顔を見合わせ、それから噴き出した。


 寅さんは頭を掻きながら言った。

「いやあ、世の中にカアチャンほど怖いものはない。妖怪よりもよほど怖いや。しかし、あれは一体、何だったんだろうなあ。やはり夢でも見ていたのか――」


「夢じゃありませんよ。それは水かけ女と言って、たちの悪い妖怪の一つです」

 清さんがいつの間にか座敷に立っていてそう言ったので、三人ともぎょっとした。


「だから、先生も気を付けなければいけませんよ。そうそう、人間の女にもね」

 きよさんがそう言うと、寅さんとヤンマーはおれを見ながらニヤニヤ笑っている。


 彼女のその言葉で、突然おれは思い出した。子供の頃、同じような話を爺ちゃんに聞いたことがある。


「だから、女には気を付けなくちゃいけないよ」

 ひとしきり話を聞かせてくれたあと、お決まりのその台詞せりふで終わるのだった。


 扇風機が首を振って、床の間の掛け軸がカタカタと音を立てる。


「それにしてもこのお人は、いつまで気楽に遊んでいらっしゃるんですかねえ。お孫さんが大変な時だというのに」

 清さんが老子の掛け軸を見てそう独り言を言うのを、二人とも不思議そうに見つめていた。


「それじゃあ、私は夕餉の支度がありますから。どうぞお二人ともゆっくりなさってください」

 清さんはそう言うと、奥に引っ込む。


 寅さんは、すっかり毒気を抜かれたような顔をしている。

「不思議なお婆さんだなあ、あの人は。お前の親戚か何かなのか?」

 ヤンマーと同じことを聞いてきた。


「いや、そうじゃないんですが、何か事情があるみたいで……」

 おれは適当に誤魔化す。


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