第19話 欽之助、虎どもと念問答

 話は、例の赤虎と青虎の二人が、おれのうちのそばで、聞こえよがしにおれの悪口を言っていた時に戻る。


 モンジ老にコテンパンにのされた後のことだったから、よりにもよって、最も機嫌の悪い時だった。


 おれの性格からして、売られた喧嘩は買う主義だ。


 しかもこいつらには、お祭りの時に散々酒を飲まされたうえに、ほったらかしにされたうらみもある。


 怒りに任せて、思いっきり大声で怒鳴りつけてやった。

「この百姓どもめ、何か言いたいことがあるんなら、そんな所でコソコソやってないで、ここまで来て、正々堂々と言ったらどうなんだ」


「何だと?」

 青虎が色をなす。

「おい、お前。今俺たちのことを百姓どもと言ったな」


 そう言うと、土塀つちべいの崩れた所に申し訳程度に立てられていた四つめ垣を、バキバキと押し倒しながら、赤虎が止めるのも構わずに邸内に侵入してきた。


「人の屋敷内に、何を勝手に入ってくるんだ」


 おれと年頃の変わらない青虎の狼藉に、おれの怒りは頂点に達した。踏み石に飛び降りると、草履を履くのももどかしく庭に飛び出した。


「百姓に百姓と言って何が悪い。何度でも言ってやる。何だ、このどん百姓め」


「ふん」

 向こうは、いつでも受けて立つぞという風に、仁王立ちをしている。

「百姓が自分のことを百姓と言うのはいいんだ。百姓をしたこともなく、百姓の苦労も分からない人間が、百姓のことを百姓と呼んだら、それは差別用語ってもんだろうが」


 そう一気呵成いっきかせいにまくしたてる。それにしても、えらく百姓を繰り返したもんだ。


「差別用語だって?」

 おれは急いで頭を巡らせた。


「そうだ。そんなことも分からないのか」

 青虎はますますこちらを睨みつけてくる。


「だったら、さっきおれのことを、ごくつぶしだなんて言ってただろう。それも立派な差別用語じゃないのか?」


「何だと?」

 向こうも急いで言い返そうと、足りない頭を働かせているようだった。


「馬鹿野郎、そんなものが差別用語なもんか。NHKの放送禁止用語辞典でも確かめてみろってんだ」

 青虎の癖に、屁理屈を言う。


 おれもますます向きになる。

「差別用語だろうが何だろうが関係ない。この百姓め。何だ、高い米ばかり食わせやがって」


「何だと、貴様」

 いきなり胸ぐらを掴まれる。青虎の顔が真っ赤になり、赤虎みたいになる。


 続いて庭に入ってきていた本物の赤虎のほうが、慌てて制止する。しかし、次の瞬間、ポカリとやられてしまった。


 おれは惨めに地面に尻もちをついたまま、しばらく放心していた。


 人に殴られるのは、子供の時分に近所のガキ大将にやられて以来だ。親からだって、こんな目に遭わされたことがない。


 おのれ、どうやって反撃しようか。


 おれは短気で喧嘩っ早い割には、腕力のほうは全く駄目である。なにしろ子供の頃から、体育の教師と前に倣えと、それにうさぎ跳びほど嫌いなものはなかったのだから。


 弁舌は苦手でも、悪態ならいくらでも口をついて出る。然し、いざこういうことになると、からっきし意気地をなくしてしまうのである。


 おれが黙っていると、青虎が静かに言った。

「百姓と呼ばれるのはいい。むしろ、俺は百姓であることに誇りを持っているのだから。そんなことよりも、お前が最後に言った言葉、それが俺には許せない」


 おれが最後に言った言葉……?

 咄嗟には思い出せなかった。


 すると、ヤンマーが手を差し出してきた。

「殴ったりして悪かったな。でも聞いてほしいんだ」


 おれはその手を払いのけると、地面に胡坐あぐらをかいて、両腕を組む。


 向こうはこちらを見下ろすようにしながら、

「ふん、意地っ張りな所だけは俺と似ている」

 と呟いたなり、黙り込んだ。


 そっと様子を窺うと、こちらに背中を向けて田んぼの方角を見ている。


 しばらくして口を開いた。

「おい、周囲まわりを見てみろ。何が見える?」


 何が見えるって……? 見渡す限り田んぼと畑しかないじゃないか。あとは、おれのあばら家ほどではないが、見すぼらしい屋根瓦のうちが転々とあるだけだ。


「田んぼと畑と、見すぼらしい屋根瓦のうちが転々とあるだけの向こうには、何がある?」


 何がって、山があるじゃないか。


「じゃあ、山の向こうには何があると思う?」

 山の向こうだって? そんなの分かるもんか。


「分からないのか? いいか、山の向こうには、また山があるんだ。それから谷もある。川もある。そうすると、どうなる?」


 そうすると、どうなるって? 一体何が言いたいんだ、お前は。


「一体何が言いたいんだって? 少しは、想像力を働かせろよ」


 それまで黙っていた赤虎が、ここで口を挟んできた。

「おい、誠。お前、さっきから何を独り言を言っているんだ」


「えっ?」

 青虎がくるりと振り向く。おれの顔を見て目を真ん丸にしている。

「おい、お前。俺が聞いたことに、確かに口に出して答えていたよな」


 しまった。いきなり殴られてしまったものだから、つい気が動転して、念を制御するのをすっかり忘れていた――。


 おれは腕組みをしたまま、知らんぷりを決め込むことにした。


 赤虎と青虎はお互いに顔を見合わせながら、不思議そうな顔をしている。


 制御だ、制御。


「まあ、いいや」

 と青虎が言った。

「お前の頭ではどうせ分からないようだから、俺が教えてやる」


 青虎の癖に、生意気な口を利く。おっと、制御だ、制御。


「いいか、要するに、日本は農地が狭いっていうことだ。そうなると当然、生産費が上がる。お前はさっき言ったな。高い米を食わせやがって、と。その高い米代でも、俺たち百姓は食っていけないんだ」


「そのとおりだ。まあ、こんなお坊っちゃんには分からないだろうけどな」

 赤虎が相槌を打つ。


「だったら、米作りを辞めろって言うんだろう?」

 青虎が、こっちに食ってかかる。


 いや、おれは何も言っていないって。念も、ちゃんと制御できている筈だ。おそらく自分自身の中で、これまで何度も問答してきたことなんだろう。


 青虎は続けた。

「学者や評論家は言う。日本は農地が狭いから、生産コストが高づいて仕方がない。だから、面積を集約してコストを下げろと――」


「馬鹿野郎、こんな中山間地でそんなことができるもんか」

 赤虎が吐き捨てるように言う。


「いや、できる」と青虎。


「何だって?」

 赤虎が目を剥く。どす黒い顔が赤黒くなり、物凄い形相になっている。

「おい、誠。聞き捨てならないぞ。お前、自分が何て言っているのか分かっているのか?」


「山はダイナマイトで吹っ飛ばす。そいつで、川も谷も埋めてしまう。最後にブルドーザーでならしてしまえばいいんだ」

 青虎は挑戦的な目付きで、そう答えた。

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