第14話 バスローブの女

 それにしても、物の怪に頼らず、自分で解決しろの一言だけとは、孫が困っているというのに、爺ちゃんも呑気なものだ。


 座敷に上がってみると、床の間に例の軸がだらりと垂れ下がっている。


 驚いたことに、すっかり茶褐色にめてしまった紙には、黒い染みが点々とあるばかりで、老子も牛もどこかに遊びに行ってしまったのか、もぬけの殻になっている。


 完璧な無だ、くうだ。


 ひょっとしたら、画の中からおれに追加のアドバイスをくれるんじゃないだろうかと微かに期待もしたが、見事に外れた。


 もっとも霊界通信使にふみを託すぐらいだから、最初からそれは無理だったのかもしれない。


 ところで、この家の二階に上がる木製の階段だが、サイドの部分が箪笥になっていることは、前に書いた。その上のほうの段に賃貸契約書を放り込んだままにしておいたのを、おれは思い出した。


 そいつを取り出し、改めて確認してみる。すると、二行ほど空白になっている部分がある。


 たしかここには、以下のようなことが書かれてあったような記憶がある。


「夜の深き頃に、両腕りょうかいなにて首を絞められたりすることあらんも、異議の申し立てなど、之有間敷候これあるまじくそうろう


 いったい何時代からこの契約書を使っているんだろうと思ったものだが、そっくりその部分がなくなっているようだ。


 なるほど、そういうことだったのか。モンジ老さんに食べてもらったのだな。おれはバスガールの思い付きに舌を巻いてしまった。


 それはそれで良かったのだが、さてどうしたものかとおれは悩んだ。


 そんなおれを、影法師が階段に座り込んでじっと観察するようにしていたが、無視を決め込んだ。


 乱れ髪が何だか可哀想な気もしたし、爺ちゃんからは物の怪には頼るなと言われてしまった。しかし、もうやってしまったものは仕方がない。


 問題は今後のことだ。これからも未来永劫、文字という文字を片っ端から食い尽くされてしまうのでは堪ったものではない。夜中に呻吟しながら打ったワープロ原稿まで食われてしまったのだから。


 ふと気づくと、もうシャワーを流す音が聞こえる。この頃は遠慮も何もあったものじゃない。勝手にガスの栓をひねって、風呂を沸かしている。

 

 おれは洗面室の前まで行くと、大声でバスガールを呼んだ。

「おい、急ぎの用事がある。ちょっと出てきてくれないか」


「何よ、今入ったばかりなのに」

 シャワーの音は一向にやむ気配がない。


「急いでくれ。少し困っているんだ」


 しかし返事はない。仕方なくダイニングテーブルの椅子に腰かけ、彼女が出てくるのをじりじりとしながら待った。


 小半時こはんときも経った頃だろうか。すぐそばで声がした。

「もういったい何だっていうのよ。レディがお風呂に入ってるところに声を掛けるなんて。全くデリカシーの欠片かけらもないんだから」


 バスガールが、テーブルの向こうに腕組みをして立っていた。


 横着にも、おれがデパートで奮発して買った白いバスローブを、さも当たり前のごとく身にまとっている。


 バスローブは、今治産のタオル地を使った贅沢品だ。少し恥ずかしかったので、店員には彼女へのプレゼントだと言いつくろった。


 元恋人の京子がもしこれを着たら、いったいどんなだろうかなどとつい想像して、胸をドキドキさせてしまったが。


 バスガールは怒った顔で、向かい側の椅子に腰かけ、脚を組んだ。両腕も組んだままこちらを睨んでいる。


 不覚にも、これにも胸がドキドキして頬が紅潮するのが自分で分かった。


 向こうは濡れた髪をタオルで拭きながら、のたまった。

「で、いったい何の用?」


 またこの前と同じように、すっかり勝ち誇ったような顔をしている。なぜおれは、こんなやつに、こんなに大きな顔をされなければいけないのだろう。


「あれ? 君――」

 おれは、はっとした。

「君はたしか、鏡の中にしか現れることができなかったんじゃ……」


「だから一番最初に言ったじゃない。相談させていただきますので、白いバスローブを用意してくださいって。これを身につけてさえいれば、人前に出ることができるってえの。電気代とガス代を払えなんて、しみったれたことを言ってきたのは、ど・な・た? あんたさあ、頭鈍いんじゃないの?」


 やれやれ、いったいどこまでおれに高飛車な態度を取り続けるのか。こうなると、かえって腹も立たない。


 ところがどっこい、本当のところは、バスローブ姿に鼻の下を伸ばしていただけなのかもしれない。


 おれはいささか目のやり場に困りながら、大事な要件を切り出した。


「僕はたしかに、乱れ髪が出なくなるように君に頼んだ。しかし、まさかそれを、モンジ老さんにやってもらうとは思ってもみなかった。おかげで、郵便物や新聞はおろか、おれの書いた大事な小説原稿まで食べ尽くされてしまって、ほとほと困っているんだ。何とかしてくれないか」


「へえー」

 向こうは薄ら笑いを顔に浮かべている。

「小説原稿ねえ。なんか面白くも何ともないのを書いてたみたいだけど。あんなのどうだっていいじゃない。何をそんなに真剣な顔をして言い出すのかと思ったら。ああ可笑おかしい」

 そう言って、本当に腹を抱えて笑い出した。


 これが俺の逆鱗に触れた。こいつめ、一番言ってはいけないことを――。


 ついにおれは声を荒げてしまった。

「人を馬鹿にするのもいい加減にしろ。化け物だから人を化かすだけではなく、人を馬鹿にするのも商売なのか? 人を食ったようなことを言うだけでなく、仕舞いには本当に人喰いになるんじゃないのか? お前はしょせん、化け物なんだろう。それならそれで、おれにも考えがある」


 バスガールは、おれの剣幕に驚いたかのように両目を大きく見開いた。組んでいた脚を元に戻し、こちらの顔を一心に見つめている。


 ここだ、と思った。これまで余りにものさばらせ過ぎた。ここらでしっかり意見してやらねば。そして何よりも、モンジ老のこれ以上の狼藉を止めてもらわないといけない。

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