第13話 幽便配達夫、雷鳴と共に去りぬ
すっかり困惑して、あたりを見回した。稲のだいぶ育った田んぼが、夕闇に沈んでいる。不意にカエルが鳴いた。
あのカエルは、嫁さんが欲しくて鳴いているんでしょかなあ。それとも、もうしもし、雨が降るぞよ、今すぐに。支度はいいか、万全かと鳴いているのか……。
いや、僕にはわからない。分かったとしても、そんなことが何の役に……。
すると、幽便配達夫はそれまで立っていた玄関脇から、開け放しの縁側のほうにおもむろに歩き出した。
踏み石にひょいと飛び乗ると、勝手に縁側に腰かけた。「ふんふん」と聞き耳を立てるようにしている。
「もうしもし、雨が降るぞよ、今すぐに。支度はいいか万全か――。ああ、やっぱりそう鳴いていますなあ。これは
カエルの鳴いた方角を見ながら、今度は声に出して言う。
おれも誘われるように田んぼのほうを振り返った。
低い山々が田んぼを取り囲むように黒く横たわっていて、もう古寺の
近所の民家の明かりがぽつんぽつんとともっているだけで、あたりはすっかり暗闇に包まれていた。カエルがもう一声鳴く。
「雨戸だ。雨戸。雨戸。雨戸を早めに閉めることですな。こんな日は、ほら、あの雨戸荒らし。雨戸荒らしね。さすがの雨戸荒らしも
妖怪。妖怪ね。妖怪なんて、しょせんその程度ですよ。本当に悪さをするのは人間です。いや怖いですなあ、人間は。実に怖い。あなたどう思います? どう思いますか?」
最初の口調に戻りかけている。
コイブミはそのことに自分でも気づいたのか、いきなり自身の頬をひっぱたいた。
それから自分を落ち着かせるように長い顎鬚をもみしだいている。それからまたこちらを振り向いた。
あなたは先程、そんなことが何の役に立つのかと、疑問を抱かれましたが、少なくとも当座の苦境から抜け出すことはできますよ。
ほら、あなたの
しかし問題は、あなたのその能力が役に立つとか絶たないとか、そういう話ではありません。これがあなたの宿命なのです。あなたはそれにしっかりと向き合って生きていくほかありません。
「もういい加減にしてください」
思わず大声を出してしまった。
「何が宿命だ。急にそんなことを言われても、頭が混乱するばかりで、僕にはどうしたらいいのか……」
「いやあ、申し訳ない。本当に申し訳ないことをしました」
コイブミは縁側から腰を上げ、自分の自転車の所まで戻った。
「ああ、あのねえ、あなた初めてそんなことを言われたんでしょう? 初めてね。急にそんなことを言われたんでしたら、無理もありますまい。あなたの気持ち、あなたの気持ちね、私分かりますから。分かりますよ」
そう言いながら、赤い自転車を前に押すと、スタンドがカタンと上がる。
「あっ、いや、こちらこそつい大声を出してしまって……」
相手が突然帰り始めたので、おれは慌てた。
……長居をしてしまったこと、お詫びさせていただきます。そろそろお
コイブミは。帽子を取ると丁寧に頭を下げた。最後にゴッホゴッホと咳をしたかと思うと、自転車にまたがり、あっという間に暗闇の中に消えていった。
ちょっと待ってください。爺ちゃんの手紙も尻切れトンボになってしまったし、もう少しあなたの話が聞きたい……。
おれは急いで門の外に飛び出した。しかし、北を向いても南を向いても、もう幽便配達夫の姿はなかった。
悄然として、また門を潜ったとたん、ゴロゴロっという音が轟いた。稲妻が光り、重く垂れこめた雲をその刹那に映し出す。
すると、頭の上からコイブミの声が聞こえてきた。
謙虚におなりなさい。
いいですか、奢らず高ぶらず、謙虚に耳を傾けるのです。そうすれば、草木や大地、いや地球の声だって聞こえてくるはずです。
その昔、人間は大地とともにあった。大地には、精霊や物の怪の
しかし今の人間は、合理主義の名のもとに大地を征服し、
その結果どうです? 空にはぽっかりと大きな穴が開き、有害な紫外線が降り注いできている。
大地は悲鳴を上げ、精霊や物の怪たちも慌てふためき、右往左往するばかりです。人間は物の怪たちを追っ払ったかもしれないが、代わりにもっと大きな化け物を生み出しました。
穴が開いたのは、空にばかりではありません。人間社会にも大きな深淵がぽっかりと口を開けて、人間を飲み込もうとしています。そこには物の怪どころではない、もっと恐ろしい魔物が潜んでいるのではありませんか?
万物には霊が宿っています。木にも草にも大地にも。ただの石ころにも人形にも――。
この世の生きとし生けるもの全てに、謙虚に耳を傾けるのです。
あなたに地球を救えとまでは言いませんが、少なくとも今のあなたの問題を解決する方法がきっと見つかるはずです。
また稲光がして、空がゴロゴロと鳴った。コイブミの声はそれっきり止んだ。
そうか、コイブミの奴、もう霊界に戻っていたんだなとおれは初めて気づいた。
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