第10話 幽便配達夫は二度咳をする
その後少し不思議なことが起きる。
いくら世をはかなんで隠遁生活をしているからと言って、社会と完全に断絶しているわけではない。こんなおれ宛てにでも、昔の友人や役所などから郵便物が届いたりする。
異変は少しずつ始まった。
最初は文字が少しかすれる程度だったが、そのうち所々欠けたりするようになった。それ位ならたまにあってもおかしくはないだろうが、とうとう全く白紙の郵便物が届くようになる。宛名も差出人もないから、どうにも仕方がない。
もしやと思い、蝋燭で
しかし、もっと深刻だったことは、前の晩にうんうん苦しみながらワープロで打ったはずの原稿が、朝になったら消えていたということである。
ある日の夕方のことだった。
玄関わきの郵便受けを覗いてみると、手紙が数通入っている。案の定、表も裏も白紙である。
首を
紺色の制服を着た男が、赤い自転車に乗ってやってくる。制帽には、赤い文字で「ゆうびん」と書かれていた。
ゆうびんやさーん、はよおいで……などと暢気に歌っている。自分で言ってりゃ世話がない。
「コンバンハ。いやまだ早いコンニチハ。昼と夜、その境目は
また、変なものがやってきたものだ。
日本郵政の職員は、続いて一人でまくし立てた。
「たそがれの他人の背に見る去りし人。これ、あなたどうです? どうです? 中八。ナカハチね。韻を踏まなくて良いなら、他人をひとと読めばいい。去りしを
おれは京子のことを思い出して、少し胸がしくしくと痛んだ。しかし、今はそんな感傷に浸っている場合ではない。
「ちょっとあなた、そんなことはどうでもいいですから、これは何です?」
と言って、届いた郵便物を見せた。
「あっ、これ違います。違いますよ。私が配ったものじゃない」
「あなたが配ったものじゃないって、じゃあ、あなたはいったい何なんですか」
ついイライラしながら言うと、男はゴッホ、ゴッホとまた変な咳をした。
「私? 私はね、日本郵政の職員ではありませんよ。名前、名前ね、名前は
いったい何が悲しくてそんな仕事を始めたんだろう。ぼんやりそう思っていると、それが通じたように、また喋り始めた。
「ノルマ一万枚。一万枚。これ良くないです。良くない。ボーナスみんな無くなっちまう。だから私、一万枚の年賀状持ったまま、自爆しました。自爆ね。
そしたら、この仕事をスカウトされたんです。このほうが私に合っている。合ってますね。何てったってみんながお
述べつ幕無しに口を動かす。口を動かすたびに長い顎鬚が上下する。唾が飛んでこないか、その間中、ひやひやしていた。
おれはこいつに、コイブミというあだ名を付けてやった。
コイブミの長口上は、まだまだ続く。
「年賀状今度会おうと半世紀。毎年毎年、今度会おうの手書きの文字。それで五十年経ちます。でも、五十年も会わなかったら人間死んじゃいます。ええ死にますとも。絶対に死ぬ。とうとう会わないまま死んじゃいます。人間は永遠じゃない。恋は
この男は、どうしてこうもおれの心がズキズキするようなことばかり、次から次に繰り出すのだろうか。
そんなおれの胸の内を知ってか知らずか、児井は続けた。
「永遠じゃない人間が、永遠に存続していくものを生み出す。文字は消えるけれど、文字が表現するものは消えない。永遠です。あなた分かります? 分かりますか?」
その言葉にハッとした。
文字は消えるけれど、文字が表現するものは消えない。永遠に? そんなことは考えたこともなかった。
もともとおれは何が書きたいんだろう。そんなものも何もなく、やみくもに頭の中に浮かんでくることを、ただ興に任せて書き連ねているだけじゃないか。そんなものは自己満足以外の何物でもない。
寝食を忘れ、命を削り、魂を打ち込み、幽鬼のようになってまで、おれは何かを生み出そうとしているだろうか。
おれには到底無理だ。もともとそんな能力も忍耐力もないんだから。
それをおれは、乱れ髪のせいにして誤魔化していたのだ。卑怯者め。
何が芥川賞を取ったら、結婚しようだ。
京子は、こんなおれではなくキンケツと結婚することになって良かったんだと、つくづく思った。
そんなおれをじっと見ながら、児井は言った。
「あのですねえ、恐らくモンジ老さん、モンジ老さんが棲みついたんじゃないですか、お宅に。モンジ老さん」
それでおれは手に持っていた郵便物を改めて見直し、初めて気づいたのだった。
そうか、バスガールの奴、モンジ老さんを召還したんだなと。
「ああ、そうそう、ところで私、今日はこれを配達しに来たんですよ。これね。いいですか? これですよ」
霊界通信使はそう言いながら、長い
出てきたのは、何と巻紙だった。
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