第9話 欽之助、化け物と取引をする
以上のようなわけで、おれはほとほとくたびれ果てていた。疲労
ある夜おれは、ダイニングキッチンで貧しい食事を摂ったあと、テーブルでそのままうとうとしていた。
すると、すぐ近所でガラガラという大きな音がする。
やれやれ、今度は雨戸荒らしがお出ましか――。夢うつつにそう思った。
これも子供の頃に爺ちゃんから聞いていて、お
勝手に人の家の雨戸を開けたり閉めたりの悪戯をやらかす。
ここの家でやっていたかと思ったら、あちらの家でやったりと、近隣四方で繰り返す。ひとしきりそれをやったら、やがて満足したようにいなくなる。
しかし、今夜はガラガラがいつまでも終わらない。そのうちおれは、すっかり目を覚ましてしまった。
改めて耳をそばだてててみると、音はすぐ間近である。しかもおれの家のようである。
しばらく待ってみたが、いつまでもやめそうになかったので、行って叱りつけてやろうかと思った。
そこで、はっと気づいた。
慌てて浴室に飛び込むと、地獄の窯の蓋が開いたように、お湯がガラガラと煮えたぎっている。部屋の中はすっかり蒸気が真っ白になっていた。
おれは風呂を沸かしかけたまま、日頃の疲れのせいもあってうたた寝をしていたのだった。
雨戸荒らしはこんなこともあるから、気を付けなければいけない。これも爺ちゃんが言っていたことだった。
ところが、事件はこれにとどまらなかった。
「もお、何やってんのよ。熱くて入れないじゃない」
という声が、すぐ耳元でした。
驚いて振り返ったが、誰もいない。
すると、また声がする。
「それに白いバスローブはどうしたの? ずっと待っていたのに」
声の主は、洗面室の鏡の中にいた。
ショートカットで、目鼻立ちのはっきりとした女だ。
おれが使うために用意しておいたバスタオルを、勝手に身体に巻き付けている。
「お前――」と言いかけたら、
「お前呼ばわりはしないで」とぴしゃりとやられてしまった。
おれはすっかり呆れて言った。
「お前、手紙の印象とは全然違うな」
「だ・か・らあ、お前って呼ばないでって言ってるじゃない。あんた、耳あるの? 耳」
そう言いながら自分の耳を指さした拍子に、バスタオルが胸元の所からほどけかかる。
我知らず、そこに目が釘付けになったら、すかさずまた叱られた。
「見ないでよ、エッチ。このド変態。ドスケベ欽之助」
鏡の中でバスタオルを直しながら、きっとこちらを睨んでいる。
人の家の浴室やバスタオルを勝手に使っておいて、余りの言い様である。
おれは、
「君はひょっとして、イソベンの所から
「憑いてきた……って、人を化け物扱いしないでよ」
いや、人ではなく立派な化け物だろう。
そう思ったが、口には出さなかった。
向こうは勝ち誇ったように鏡の中で腕組みをしながら、にやりと笑う。
「あんたさあ、彼女には相当参っているようだけど、私が何とかしてあげようか」
「えっ?」
「ああ、もう、鈍いなあ。だ・か・らあ、乱れ髪の両手に手を焼いているんじゃないの? 私が追っ払ってあげようか」
「ふん、そんなことか。それでもって、君が代わりにここに居座るっていう魂胆だろう」
「当ったりー。でも私だったら、あんたが睡眠不足になるようなことまではしない。いくら癇性のあんただって、家族の者が湯を使う音ぐらいで眠れないってことはないんじゃないの?」
家族? おれはその言葉の響きに少しくすぐったい思いをしながら、どうしたものか返事をためらっていた。
乱れ髪の、あの何かを訴えたげな濡れた瞳を思い出したからだ。それに影法師だ。あいつも、おれが気が付くと、いつもじっとこちらを見ているが、何か伝えたいことがあるのではないだろうか。
だからと言って、おれに何ができよう。前にも書いたように、あやかしどもが見えたとしても、それ以上の何か特殊な能力がおれに授けられたりしているわけではないのだ。
そんなことよりも喫緊の問題は小説が書けないことだ。あえてこんな所に住むようにしたのは、失恋の痛手ということもあったが、隠遁生活をしながら執筆に専念するためだったのだから。
しばらく逡巡した後、おれは口を開いた。
「わかった。で、条件は何かあるかい?」
すると、鏡の中から即座に返事があった。
「一つ、この家の居住権を保障すること。二つ、水道代とガス代はチャラにすること。三つ、白いバスローブを用意すること。それもお洒落で高級なやつ。四つ、じろじろいやらしい目付きで鏡の中まで覗き込まないこと。これでどう?」
何て言い草だろう。
むむむ、とおれはまた躊躇したが、背に腹は代えられない。
「よし、乗った。早速、君のお手並みを拝見することとしよう」
「取引成立ね。それじゃあ欽之助、ここから出て行ってくれる? 私お風呂に入るから」
それで
そして、その夜以来、乱れ髪は本当にぴったりと出なくなった。
バスガールがどんな手を使ったのか分からなかったが、乱れ髪が少し可哀そうな気がした。
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