第5話 ドッペルゲンガーと手、手、手、手、手…
あれは、まだ初夏のことだった。
おれは例の乱れ髪のせいで小説が書けず、座敷に寝転がっていた。
開け放した縁側のほうから爽やかな風が吹き込んできて、床の間の掛け軸をカタカタと揺らす。老子が牛の背で悠然としている画の下には、汚い古備前が端座していた。
老子は、死んだ爺ちゃんに何だか似てきたような気がしたが、まあ、気のせいだろう。
部屋の隅には、寺子屋で使われていたという
あとは空っぽ。
何にもないのが一番いい。今のおれの心の中のように。京子のことも、小説のことも、もうどうでもいいや……。
そんなことをぼんやりと考えながら、うとうとしかけた時だった。
縁側の向こうから人の話し声がする。
物好きにもほどがあるってもんだ……。
きっと変わりもんなんだよ……。
さて、今度の奴はいつまで持つかな……。
根性なさそうに見えるから、
薄目を開けて見ると、近所の農家の人たちだろう、崩れかけた土塀の所に、三四人固まって大声で話をしている。
どうやら、何事かを知っているらしい。今頃になってそんなことを言うんなら、何で最初から教えてくれなかったんだ。
あんまり
すると、ある者は
これだから田舎者は――。そう苦々しく思いながらも、一方では、同じく田舎者の故郷の人たちをおれは懐かしんでいるのだった。
それから二三日も経っただろうか。
閉所恐怖症のおれは、いつものように雨戸という雨戸、障子と言う障子をすべて開け放して座敷に寝転がっていた。
すると、庭のほうで物音がする。
またあいつらか――。
一つ意見をしてやろうと思って起き上がると、なんと、このおれ自身が縁側の向こうに立っているではないか。
無遠慮に家の中を覗き込んでいるので、コラっと怒鳴ったら、ふっといなくなった。
ドッペルゲンガーだ!
こいつはいけないと思った。
相も変わらず、影法師が家の中をうろつき回るし、畳の下からは両手が伸びてくる。払いのけても払いのけても伸びてくる。
ニンニクを塗り付けてやればやったで、今度は女の顔が転がってきて、悩まし気にこちらを見る。
ヤブヘビだ。これ以上手の打ちようがない。
睡眠不足のせいで小説を書くのが止まって、もう何日が過ぎただろうか。
まさか新居を借りたらこんなことになるなんて、いったい世の中でそんな目に遭う人間がどこにいるだろう。
そのうえ生涯特約を結んでいるから、死ぬまで契約破棄できないだって? たとえ
それでとうとう思い余って、弁護士事務所に相談しに行くことにする。
対応した磯崎勉という弁護士は、おれの持参した賃貸契約書を机に置くと、首を振った。
「これは、法律の手が及ばない事案です。こちらでもお手上げですよ」
「えっ? いや、しかし――」
俺がそう言いかけた途端、
「まだ分からないんですか?」
とぴしゃりとやられてしまう。
何だ、イソベンの癖に。
「あなたは
おれは化野なんかよりも、彼に対する反発もあって、
「だからこそ、困ってここに来たんじゃないですか。このまま手ぶらで帰れと言うんですか」と食い下がった。
すると向こうはさも人を馬鹿にするように、両手を左右に広げた。
「実はさきほど別の方が相談に見えたんですが、この世の人ではなかったので、お断りしたばかりなんです。その方が、いまあなたの手をしっかりと握っています。どうぞ、手に手を取り合ってお帰りください」
それを聞いたおれは、思わず左右を振り向き、
何も見えないし、何も感じない。このおれにさえ見えていないものが、こいつには見えているのだ。ひょっとしたらすごい能力の持ち主なのでは――。
すると、化野だけでなくこいつまでもが、おれの心を見透かすように言った。
「なに、こんな能力など何の役にも立ちませんよ。私は弁護士ですから、あくまでも法律に従って行動するのみです。
それより、あなたこそ特殊能力をお持ちのようだ。御自身でもお気づきなのではないですか。何かを引き寄せる能力にね。どうぞ、御自分で解決なさったらいかがでしょうか」
こんなのに口で立ち向かっても叶うわけがない。おれは黙って引き
せっかくあだ名まで付けてやったが、もう二度とイソベンなんかの世話になるものか。
いよいよ万事休すである。
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