第3話 あばら家は待っていた

 

 ところが、これがおれにとって明暗の分かれ道になるのだった。


 そんなことは思いもよらずに、ここまで考えを漂流させていると、突然おれの背後で、

「中を御覧になりますか」という声がした。


 いや、驚いたのなんの。気配も何もあったもんじゃない。


 黒縁の眼鏡をかけ、くたびれたグレーの背広を着た男が、ふらっとそこに立っていた。


「失礼しました。私は化野あだしの零児と申します」

 そう言って名刺を差し出してくる。


 名刺には、名前のほかに看板と同じ会社名、住所、電話番号が印刷してある。


「いやあ、あなたは運がいい。実は当社の設立百周年記念ということで、この家は出血大サービスの価格でお貸しすることにしたんですよ」


 男の顔は地面に向けられていて、決しておれのほうを見てはいないのだが、どういうわけだか全身隈くまなくこちらの様子を探っているような感じがしてならなかった。すこぶる気持ちの悪い奴だ。


 すると、近所の農家の人たちであろうか、いつの間にか三、四人集まっている。土塀つちべいの上からこちらの様子をうかがいながら、ヒソヒソ話をしている。


 なんだか、やな予感がした。この時、この予感をもう少し尊重していれば、いまのおれの不幸はなかったのだが――。


 しかし、今さら悔やんでも始まらぬ。


「今日はたまたま風を通しに来たんですわ。時々はこうしておかないと、いろんなむし跳梁跋扈ちょうりょうばっこするもんですから。さあ、どうぞお入りになって」


 化野あだしのはそう言いながら、玄関の格子戸をガラガラと開けた。


 屋内のすべてを案内してもらったが、意外なことにキッチンやトイレ、浴室などは全てリフォームされていた。


 しかし、襖と障子は破れ放題だし、畳も色がめているうえに、所々がり切れている。家の外の荒れ方と言い、いったい何なんだろう、この落差は――?


 すると化野が、こちらの心の中を見透かしたかのように言う。


「いやあ、ちょっとその……予算が足りなかったもので」


 これには驚いた。そんな不動産会社で大丈夫なんだろうか。


 すかさず化野が言った。

「うちは大丈夫ですよ。なにしろ百年も続いている老舗しにせなんですから。一時的に、今だけ資金繰りに困っているだけなんで」


 相変わらずこちらを見ているようで見ていない。見ていないようで見ている。


 本当に気持ちの悪い奴だ。


 ところで、おれはせっかちなうえに癇癪かんしゃく持ちときているんで、お喋りなどは大の苦手だ。だから、こんな奴だとしても、いちいち口を開かずに済むから、かえって楽でいいやと思った。


 すると、

「ふふん」と笑う声がした。


 思わず、

「どうかしましたか」と尋ねる。


「いや何、こんな商売をしていると、あなたみたいなお坊ちゃんにまで馬鹿にされていけない。ふとそう思っただけです」


「そんな……。決して馬鹿になんかしてませんよ」


 おれは少し怖くなったせいもあって、相手の言うことをあわてて否定した。


「遠慮しなくたっていいですよ。これも商売と割り切ってますから。いかがでしょう、襖や障子の貼り替えなどは自費で負担していただれば、当方も本気で勉強させていただきますよ」


 提示された家賃は、たしかに破格の値段だった。こんな安い家賃は、日本中のどんな田舎を捜し歩いたって決してあるもんじゃない。いくら多少の財産を親が残してくれているからと言って、やはり質素倹約に努めておくに限る。


 さっきからの化野の態度に多少物騒な気がしないでもなかったが、彼の提示した条件に、おれは一も二もなく飛びついたのだった。


 これが大きな間違いのもとだったとも気づかずに。


「いやあ、良かった。あなたはやはり私の睨んだとおりのお人でしたよ。

 この物件はまさにあなたのためにあるようなものです。いや、と言うよりも、ずっと以前からあなたの来るのを待っていたんですよ、この家はね」


「えっ? いったい、それはどういうことです?」

 おれは思わずそう聞かずにはおれなかった。



「今に分かります、きっと」

 彼はとうとうそれ以上は何も言わなかった。


 こうしておれは、このあばら家に居を構えることになったのだった。

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