薬味とカツオと出刃包丁

Planet_Rana

★薬味とカツオと出刃包丁


 突然だが、食の話をしよう。


 そう言われて止まった箸先が、行き場を失って閉じられる。目の前にあった最後の寿司が隣の客の口に吸い込まれて消えた。


 一貫五百円の値打ちものである。


 米粒一つを残して消失したカツオのたたきを求めてさまよう視線は、すぐに真隣に腰掛けた右手側の席に向けられた。そこには誰も座っちゃいない。声は反対側から聞こえてくる。あろうことかこのぶしつけな謎の客は席を立って通りすがりに私の寿司をかすめ取ったということだった。


 怒り心頭で振り向けば、目に入った美しい相貌に瞠目する。彼女は骨ばった細い身体に黒い漆髪を姫カットにして、緑色まざりの秋物ルージュを口紅に目元には灰色のシャドウを落としていた。


 頬の米粒があることが、寿司を食った事実を物語る。それにしたって綺麗な人間だと思った。私は産まれてこの方このような女性を目にしたことがない。出会ったことがない。


 女は私に見られていると知って、愛想笑いに似た会釈を返す。艶めかしい唇が再び、食の話をしよう。と同じ言葉を繰り返した。


「……人の寿司を掠め取っておいて、謝る方が先なのでは」

「あら。それは失礼、謝りました。どうにも私は他人の物が欲しくなる質らしく、周りの方々には酷く迷惑をかけてしまうことこの上ありません――ええと、日本語間違いないかしら」

「旅行の方ですか?」

「旅行の方なら許して下さるので?」

「いいえ。それとこれとは違う話です」

「ですよねぇ。まあ、ここだけの話。この店の寿司を食べて生きたいなと思いまして」


 耳に入った語彙のイントネーションに疑問符が浮かんだが、何だ。食べて行きたいって。


 眉を寄せて聞き返せば、漢字変換されて帰って来た。

 行きたい、ではなく「生」きたい。


「食は血肉の元となり明日への活力となり、ヨークサックを満たす素となれば次世代を紡ぐ手助けにもなる」


 人間の三大欲求は食事、睡眠、性欲と言われている。この中で生命活動に欠かせないのが食事と睡眠で、人は誰しも何かしらを食べたり飲んだりして生きながらえるというわけだ。


「加えて、食事には快楽が伴います。人は生命活動や命を紡ぐ行動にこそ快楽を感じるように作られているわけですが、要は食わねば死ぬので本能によって動機付けされるわけですよね」

「……よく分かりませんが、先程のカツオのたたきと何か関係があるんですか?」

「ありますよ。貴方の寿司下駄に並んだ内の、右から三番目のカツオのたたきを食べることが、私にとって運命に等しかったわけですから」

「もしかして私が注文した時から狙っていたとでもいうんですか」

「もしかしなくても、私はこの店に入った瞬間から貴方の寿司を狙っていましたので」

「……カツオのたたき、好きなんですか?」

「いいえぇ。さほど」

「さほど」


 因みに私はカツオのたたきが好きである。好まなければこの高い店で一貫五百円もするネタばかり選んで並べて食べようとはしていない。


 それが一貫、大して好きでもないといいやがったこの美女に横取りされたのだと思うと思う所がないわけでもないのだが、ここは財布が痛くても再注文するしかなかろう。美しい顔に免じて、である。


 店主に声をかけると、彼は何だか不思議そうな顔をして。すごすごとまな板の方へ歩いて行った。


「貴方はカツオのたたき、好きなんですねぇ」

「ええ」

「こう、とんとんとんとんって。形を失くすほどに刻まれたミンチ魚肉が好きだと」

「言い方」


 それに、カツオのたたきは藁焼きだ。実の所は叩かない。


 他の軍艦巻きにあるように、二刀の魚包丁で白ごまとかネギとか醤油とかを合わせてミンチになるまで叩かれたりはしない。あれはまた別の料理である。


「薬味を混ぜたとか香辛料を足したとか、そんなの魚に失礼だと思いません? トロのように薬味なしで勝負なさったらよろしいのに」

「トロにも薬味は乗りますよ」


 更に言えば、薬味は魚を保存したりより美味しく食べる為に必要なものなのだ。


 私がふてくされて言い返すと、美女は目を丸くして天井に目をやった。綺麗な店なもので天井に染みなどないはずなのだが。


「……ネギは薬味の内に入るんです? 主食じゃあなくて?」

「どう頑張ったらネギが主食の内に入るんですか」

「一時期、ネギを醤油漬けしたものに素麺を絡めて食べるだけの生活をしていたことがあります」

「裕福なのか身銭切ってるのか、よう分からん生活してますね」

「ええまあ、私、器用に生きる方なので」

「不器用の間違いでは」


 外側だけ火を通した、鰹節のような見た目の塊に包丁が入る。赤々とした魚肉はメラメラと虹色に反射して、それが新鮮さを物語っていた。


 お待たせしました。と声掛けと共に差し出されたそれを寿司下駄で受け取って、今度こそ口に運んだ。香ばしさと魚の香りが鼻を突き抜ける。わさびの甘さが口を駆ける。


 目の端に映った女性の瞳が、ゆがむ。


「美味しいですかぁ」

「おいしいですよ」

「そうですか。まあ、そういうことかなと予測はしていましたが。そういうことでしたか」

「?」

「構いませんよ。後は私がどうにかしておきますので」


 電話をしなきゃとか、支払いはしておきますね、とか。

 自分の知らないところであれこれ話が進んでいく気配がする。


 流石に今日出会ったばかりの初対面に支払いをさせるわけにもいかないと、なけなしの社会人気質がここぞとはかりに顔をだふが、身体に力がありららい。


 あえれ、手が握れな。舌がもつら、からだ、かうんたぁに押しふへはれへ、引き寄せられへ、ひはいくらいにかららがおぼい、らんらこれ、らんら。ららららら? 


 ららららららららら?


「ふむ。妙に寿司好きが失踪する事件が起きたと聞いて手あたり次第にあたってみれば。これは大当たりの予感ですよ――え? 別に喜ばしくない? そりゃそうです。食べ物を凶器にするなど言語道断。食べる側を嵌めるなど不届き千万。なので、骨も残さず食べてしまいましょう」


 声が、する。

 令和の時代に繋がるかも怪しい無線機で、会話をする美女が居る。


 店の奥からどたどたと店主が踊り出た。目をぎらぎらと小さくして両手には細身の包丁を二本持っている。何だか鬼気迫った表情で言葉にならない何かを叫んでいるようだったが、徐々に背が縮んだかと思えばカウンター越しに姿を消した。


「けぷ――料理の腕は良かっただけに、勿体無いことだけども」

「?」

「貴方も、くれぐれ気を付けて。美味しいものは命に近しいだけに、本能から心惹かれるのが必然ではありますが。それ故に人を見ることを忘れてはいけませんよ」


 声がして目を開ければ、美女は消え失せて店主の姿があった。両手に持っていた包丁は手放されていて、優しい大人の表情でこちらに笑いかける。


 左の瞳は、緑色。黒と緑のオッドアイ。


「お客さん、今日はもう店じまいなんだ。すまないね」

「へは」

「タクシーを呼んでおいたから、今度また、カツオのたたきを食べに来ておくれよ」

「はひ?」


 話をしていた女性は、どこぞへ姿を消してしまったのか。


 店主があれよあれよと私をタクシーへ押し込んでしまったので、結局真実は分からずじまいだ。というのもあの後、私は一度もその寿司屋を訪れることがなかった。次に見たときにはその店がつぶれて、土地ごと売りに出された旨を示す張り紙が寒空の下ではためいていたものだから。


 藁に包んだカツオの身。舌を通じて感じられる塩味と魚臭さ。

 思えばあのわさび、変な味だったなとも思うけど。


 ともかく、私はカツオのたたきを好きなまま、好きだったカツオのたたきを思い出しながら店の前をうろついて、結局誰とも何とも再開する事叶わず踵を返した。


 冬空の下、あの日食べたカツオの味が舌に染みているが、恐らくはスーパーに並ぶカツオのたたきをしこたま食べたなら上書きできることだろうと、柄にもなく感傷に似た感想を抱く。私にとって、食とはそういうものだった。


 横断歩道が緑になるのを待って、しっかりとした足取りで会社を目指す。だから、その私を何処からか観察している視線には気が付かなかった。


 姫カットの美女は、アイスクリームの安い抹茶味を堪能しながら冬空を拝む。散々音を立てて飲み食いした後で、待ち人に手を振った。


 待たせていたらしい男は訝し気な視線を美女に向け、何かあったのかと声をかける。


 女性はにたりと、緑の瞳を歪めた。


「なんでもありませんよ。確か薬味の話をしたな。とか、そう思っただけです」

「誰かに人生でも説いたのか」

「そんな、知り合ったばかりの善良な一般市民の人生を左右するようなことはしませんよ。人の生に興味はありません。私の目下の関心は貴方という個人の生き様に向いてますし?」


 彼との会話は、薬味のようなものです。

 日々をちょっぴり豪華にするために必要だった、刺激物。


「お蔭で美味しい悪人にありつけたわけですから。人外の私にしてみれば豪華なオードブルに相当でしたね! いやぁー、何人やってたんだろうなぁ、あの人」

「……逮捕する予定だったんだが」

「そうはいっても、あの日私があの店に寄っていなければ、無辜の市民が犠牲になったやも知れませんし。寧ろファインプレーじゃあありません? そんな私に惚れてくれません?」

「いい仕事をしたかもしれないことは認めるが、一番最後のは諦めろ」

「あーもー。つれない人なんですからぁ」


 私、今日はたたかれたカツオの気分です! と美女が言って、男性が悪態を返す。

 たたきの概念を間違えてカツオのブロック肉がミンチと化すまで、あと三時間。


 そんな未来を知る由もなく、彼らはスーパーマーケットに駆けこんだ。


 小口ネギを揺らして帰路を行く。たたかれたカツオ肉にネギを散らすのも乙だったと、彼女が嬉々と語るのはまた別の話。


 刃物二つで人を笑顔にするには、やはり料理をするほかにない。


 今日のところは、ごちそうさまでした。




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