ネームレス

月花

ネームレス


「脈、ないんだけど……」


 日曜の朝六時、アラームよりも先に鳴りだしたスマホ。


 聞こえてきたのは幼馴染の声だ。仕事も休みだというのに早起きするいわれはない。秋人は半分寝ぼけながらスピーカーを押した。


「はた迷惑」

「脈より大事なことってある?」


 間髪入れずに返ってきた言葉に、「そうですね」と棒読みで返した。


 むこう三年恋人がいないと深刻な顔で語った彼女は、それでもクリスマスディナー(幻覚)に向けて勝負服ワンピースを調達したようだが、依然状況はかんばしくないらしい。この前は修羅の顔で舌打ちしていたので、秋人は少し考えてから他人のふりをした。


 十月ともなれば朝はそれなりに冷える。ひんやりする足をもぞもぞ動かしながら大きくあくびをした。


「あー。この前、相席居酒屋で引っかけたやつだっけ……?」

「普通の居酒屋なんですけど」

「普通の居酒屋で男にガン飛ばしてる女はいない」

「こちとら人生かけた大勝負してんのよ。ガンも飛ばすでしょ」

「因果関係は大丈夫そうか?」


 上半身を起こした秋人は、ため息をつきながら髪をかき乱した。


 由香とは長い付き合いで、かれこれ十年以上になる。おたがいの恋人遍歴から中学生時代の黒歴史まで知り尽くしている仲だ。恋愛に関して無益なアドバイスをしあった仲でもある。そのよしみで、秋人は世界の真実を教えてあげることにした。


「脈がないって、そりゃ酒入ってる人間の言うことは八割ノリだろ。残りの二割は下心」

「いや、その人の話じゃなくて」

「もう別の捕まえたのかよ。クリスマスへの妄執が強すぎるな」

「そんな話は最初からしてませんけど!?」


 由香は「あー」と意味のない声を発してから、いたって普段通りの口調で、まるで散歩にいってきたと報告するような軽さで言った。


「今足元にいる人の脈がないの」


 由香は「もう少し詳しく言おうか? カーペットが血まみれで、年末の大掃除のやることリストが増えた。重曹でいけると思う?」と付け加える。


 小鳥の鳴き声がかすかに聞こえていた。


 脳内でゆっくりと噛み砕いて、そして理解する。


 その日、由香は人殺しになった。






 中古で買った軽自動車で国道を走り抜けた。山の中腹で適当に停めて、トランクルームを開ける。絨毯でぐるぐる巻きにされたそれを引きずり出して、担ぎ上げた。


「シャベルどこにやったの?」

「後部座席の下。ビニール袋で包んであるだろ」

「軍手の予備っている?」

「一応持っていくか」


 人殺しの後始末は思っていたよりもすんなりとできた。社会人生活はありとあらゆる行為を効率的にするための訓練なのだ。


 二人で道なき道へと足を踏み入れる。人がいないどころか、鹿とでも出会いそうな山の中で秋人は荷物を下ろした。赤いしみの付いたそれはもうピクリとも動かない。


 スウェットの袖をまくってシャベルを握りしめる。柔らかそうな土にさしこんで、一気に掘り返した。


「土、重……っ!?」


 社会人になってからかれこれ数年、営業しかしていない人間は、マックブックの入ったカバンを持ち歩く以上の運動はできないのである。しかも最近はロッテリアでのサボり方も順調に覚えつつあるので、運動不足は急加速、アクセルは常時べた踏みだ。


 ものの数分でぜえぜえと息を乱し始めた秋人は、来月からジムに通うことを決意した。健康になりたいと強く思った。最近柔らかくなり始めた自分の腹と生活習慣病が心配になった。けれど由香は「キンキンに冷えたビールが飲みたいな」などと真顔で呟いている。


「飲み会明けのカロリー消費によさそうな運動ね……。何カロリー消費されるかググりたい」

「んな物騒なカロリー消費はダイエットサイト側も想定してねえよ」

「新しいダイエット法として広まってもよくない?」

「人類が相当なスピードで絶滅すると思うけどな」

「私が痩せれない世界線なんて滅べばいいのよ」

「傍若無人な神?」


 あとは無心になって穴を掘っていく。効率は落ちるばかりで、二人でもそれなりに時間がかかる。


 汗ばむ額をぬぐって、ぽっかりと空いた空洞を見下ろした。気づけば日は真上まで昇って髪をじりじりと焼いていた。社会人になってからもうずっと地毛の短髪は黒々として、熱を持っている。本当は明るめの茶髪の方が似合うのにな、と鏡を見るたびに思う。


 さて、と呟いた秋人は振り返った。ぐるぐる巻きにしていたはずの絨毯はいつのまにか解けて、くるまれていたものがちらりと見えていた。手足を赤ん坊のように折りたたまれたそれは、しばらく待っても動かなかった。


 秋人はしゃがみこんで、顔をのぞきこむ。


 やっぱり見たくもない顔だった。


「…………馬鹿だな」


 その目には温度が宿らない。


「由香は、あんたが思ってるようなやつじゃないよ」


 ただのひとり言で、ただの哀れみだ。蔑みだったかもしれない。


 スーツ姿の男はネクタイをしていなかった。首に巻いていたはずの上質なそれは、今や手首をくくるのに使われている。うっ血するほどぎゅっと縛られた手首は、その両手がもう二度と余計なことができませんようにという呪いがこめられていた。


 秋人はあの世も輪廻転生も死者の復活もさほど信じていなかったけれど、そうしなければならない気がしていた。


 向こうでシャベルを放り捨てた由香は、ジャージの袖をまくりながら「汗くさ」と呟いた。汗と柔軟剤と防虫剤のにおいが混じりあった服をくんくんとかいで、「秋人の加齢臭がする」と顔をしかめた。


「文句言うなら脱げ。それで公然わいせつ罪で逮捕されろ」

「叫ぶわよ」

「やめてくださいお願いします、俺の人生が崩壊する」

「自分の立場をよく考えることね」

「それは特大ブーメランでは?」


 由香がにこりと笑ったので、秋人はコンマ一秒悩んでから黙ることにした。


「穴掘れたわよ。あんたがサボってる間に」

「しごできだなー」


 ぐーっと伸びをしながら穴をのぞきこんだ。人を埋めるのに適した深さだ。それ以外の用途は考えられない。


 少しだけ考えてみる。これからのことを。


 けれどすぐに無駄だと悟ってやめた。どうせやることは同じで、考えたところで結果は変わらない。後悔も反省もしていないし、それは由香も同じだっただろう。


 足元にあった、人生の荷物を穴へと蹴り落とす。


 ごろごろと転がっていく身体はひどく恨めしそうな顔で秋人を見た。失礼だな、と思ったし、俺だっておまえほど恨めしく思ったやつはいない、とも思った。もっと強めに蹴ればよかったと舌打ちする。


「さて、埋めますか」

「せめて山の養分にでもなって社会貢献しなさいよ。化けてでたら殺す」

「もう死んでるんだけどな」


 うっそうとした山中には白い野菊が咲き誇っていた。死ぬにはとてもいい場所だ。


 とはいえ彼も死後土葬されるとは思っていなかっただろう。海に沈めるのとどっちが良かったか、殺す前に聞いておくべきだった。






 チャイムが鳴ったのは一週間後だった。


 餃子を焼いている由香が「アマゾンかも。この前博多ラーメンセット頼んだ」と言うから扉を開けたら、立っていたのは二人組の男だった。どう見てもブラジルの熱帯雨林からやって来たようには見えない。


 秋人は一瞬目を丸くして、けれどすぐに肩の力を抜き「どちら様ですか」と世界で一番分かりきったことを訊ねた。


「すみませんね、夕飯時に。我々はこういうものでして。少しお話聞かせていただいてもよろしいですか?」


 隠しながら一瞬見せられたのは警察手帳だ。


 秋人が顔写真と見比べるのよりも早く、さっとしまってしまうと、愛想のよさそうな顔で秋人の目をじっと見た。


 五十代くらいの白髪まじりの男だ。目元のしわが濃いが背筋はしゃんと伸びている。彼の背後にいるのはまだ若い、秋人とそう歳の変わらなさそうな男だった。秋人は目を逸らさないように意識しながら、ドアノブを掴む手から力を抜いた。


「はあ……。少しってどれくらいかかりますかね。今から夕飯なんで長くなるのはちょっと」

「本当に少しだけですので。お時間は取らせませんよ」

「それで、何のご用ですか」

「七日前の日曜夜、この男性を見かけませんでしたか?」


 年配の男が写真を取り出した。


 写っていたのは例の彼だ。


 防犯カメラの映像を切り取ったのか、最寄り駅のホームを歩く彼はひとごみを避けるように歩いている。濃紺のスーツを身に付けえんじ色のネクタイをしめている。まだ土まみれになっていないし、もちろん血まみれでもなかった。


 もう捜査が始まっていて、彼の行き先は少しずつ暴かれ始めている。


 秋人はため息をつくようにして詰まった息を吐いた。バクバクと嫌な鼓動の速さも、にじむ手汗も、視線をうろつかせたくなるのも堪えて、薄い愛想笑いを浮かべた。


「さあ。見てませんけどね」


 せいいっぱいの無関心さを演出する。


 男は「そうですか」とだけ言って写真をひっこめた。本当にそれだけだったらしく、「お手数おかけしました。何か思い出したことがあれば署までご連絡を」と会釈した。つられて後ろの男もぺこりと頭を下げる。


「分かりました、そのときはすぐにでも」

「ところで、どなたかと同居されていますか?」


 男は思い出したように言った。


「よければその方にも写真を見ていただきたいのですが」

「…………彼女と同棲してますけど」


 一拍置いて、息継ぎをしてから続ける。


「その日は一日家にいたみたいですよ。だから見てないんじゃないですかね」

「なるほど。では失礼します」


 今度こそ二人組は背を向けたのでアパートの扉をがちゃんと閉めた。鍵もしっかりとかけて、それから冷えた手のひらをぎゅうっと握りしめた。


「……大丈夫……」


 大丈夫、大丈夫、大丈夫。


 言い聞かせても仕方のないことを、言い聞かせるように唱える。まだ大丈夫、問題ない。あいつが長野から出てきたことには気づいているけれど、それが由香と関係しているところまでは、きっとまだバレていない。


 でもいつまで大丈夫でいられる――?


 もし警察が由香との関係に勘づいたら? 家を調べられればきっと血痕がでる。そうしたらまず間違いなく由香は追われるだろう。なら今から由香の部屋を引き払う? そんなことをしたってすぐに調べが付く。大体、こんな時期に不自然すぎる。


 座りこんでしまいたくなったとき、部屋の奥から「ねえ、何だったの?」と由香の声がした。


「餃子、もう焼けたんだけど。わかめスープももうすぐできるから、チャーハン早く炒めてよ。冷めちゃう」

「ああ、うん」

「飲み物、何がいい?」

「レモンサワーかノンアルで」

「それでアマゾンじゃなかったの? 私の博多ラーメンセットはいつ届くのよ」

「おまえ本当に呑気だな」


 呆れたように肩をすくめると、由香は不思議そうに首を傾げた。


「人間、食べてさえいれば万事どうとでもなるのよ」


 肩の上で切りそろえられた髪が揺れる。ちらりと見えた首筋には深い古傷がいくつも刻まれていたから、思わず視線を足元に向けた。由香がそう言うのならきっと正しいのだろう。


 そうだな、とだけ返した秋人はコンロへ向かった。






 人殺しとその共犯の二人暮らしは案外上手くいった。


 由香は今まで通り仕事を続け、夜には秋人のアパートに帰ってきた。家事はなんとなくで分担して、日付が変わる前には眠ってしまう。布団を並べて部屋の電気を消しても、変な気はとてもではないが起らなかった。由香はそういう対象ではない。


 しばらくして由香は「小旅行したくない? シルバーウィークだし」と言い出した。


「前から四国気になってたのよね」


 まったく呑気な女であった。けれど断る理由もなかったので、五連休を使って四国をドライブ旅行した。朝にうどんを食べ、昼にうどんを食べ、夜にもやっぱりうどんを食べる。特にすることもない五日間だった。


 シルバーウィーク最終日、ようやく帰ってきたけれど昼食を作る気にもならない。国道沿いのマクドナルドに寄って、ドライブスルーの列に並んだ。


「私、月見バーガーね。ポテトとシェイクもつけて」

「へいへい。秋になるといつもそれだな。飽きねえの?」

「月見食べないと私の秋が来ないのよ。月見は四季の色どりなの。春はてりたま、秋は月見って歳時記にも書いてるでしょうが」

「それで一句詠めと?」


 車をやや進ませて注文した。助手席に乗っている由香は、スマートフォンでクーポン券を探している。けれどなかなか差し出してこないから、「早くしろって」と急かす。


 ニュースアプリを開いている由香の目は、画面にくぎ付けだ。


「――――あ」


 ぽつりと呟いた彼女は、スマートフォンを手渡してきた。そのままクルーに見せようとして、しかしそれがニュースアプリのままだと気づいて、つい視線を向ける。


『東京・殺人事件 三十代男性殺害容疑で女を指名手配』


 載せられている顔写真は見知った男で、つい最近土に埋めたばかりの間柄だ。もう一度タイトルを見る。何回も見る。女を指名手配と書いてある。


 血の気が引くというより、一瞬頭が真っ白になって何も考えられなくなった。どうすればいいのかさっぱり分からない。けれど確実に良くない方向へ向かっていることだけは分かる。このままではいけない。


 指先が小さく震えて、目の焦点が定まらない。


 怪訝な顔をしたクルーが軽く身を乗り出した。


「あの、ご注文は以上でよろしいでしょうか」

「…………やっぱナゲットもつけてください」


 秋人の昼食が一品増えた。






「やばい、やばい、やばい――」


 ハンドルをぎりぎり握りしめている秋人は、アクセルを強く踏みこんだ。車は時速六十キロで国道を駆け抜ける。


「なんで指名手配なんだよ。段階すっとばしすぎだろ!」

「捜査中に女が逃亡したからっぽいわよ。香川でうどんすすってる間にとんでもないことになっちゃった」

「マックシェイクすするのもやめろ」


 まさか気分転換の四国旅行が仇になるとは思わなかった。普段しないことはするものじゃないと今さら思う。


「情報かなりでてるんですけど……」


 信号で止まった間に記事をスクロールする。


 男性は一晩で長野県から東京に移動。山中で発見された。ハンマーのようなもので殴られた跡。容疑者の女は捜査中に逃亡したため、指名手配に切り替えられた。女は男性の親族とみられ――。


「秋人、青」

「……あ」


 アクセルを踏んで車を走らせる。かたくなにマックシェイクを手放そうとしない由香は、大げさなため息を吐いた。


「家も調べられちゃったかな。血痕が出たでしょうね」

「おまえ冷静すぎるだろ……。ちょっとは焦れよ、指名手配されてるやつの態度かよ」

「じゃあ手本見せなさいよ」

「秋人、発狂して叫びまーす」

「ハンドル握ってるときに余計なことしないでもらえる?」

「急なド正論」


 そうこうしているうちにニュース記事は更新される。最新版では「女の知人とみられる男が関与か」と書かれていた。


「どこからどう見ても俺」

「ヤフコメめっちゃ荒れてるわよ。むしろ主犯は秋人ってことになってるし」

「そこ関しては俺ノータッチなんですけど!?」


 秋人のアパートが最後の砦だったけれど、戻ることもできなさそうだ。「レインコート家に置いてきたのにな……」と呟くけれどもう遅い。車を走らせるしかなくて流れるままに高速に乗った。とにかく今すぐ東京を出なければ間に合わない。


 そうこうしているうちにも情報は出回る。秋人と由香が結託して逃亡していること、二人とも長野の出身で幼馴染であること、由香と被害者の関係――すべてが明るみに出始める。


「私への同情コメントも増えてきたわよ。今さら言われたってね」


 由香は諦めたみたいにへらっと笑った。


「誰も助けてくれなかったくせに」






 秋人の両親はずいぶん早くに亡くなった。


 まだ小学生だった秋人を育ててくれたのは長野の祖母だ。昔気質の厳しい人で、秋人が何かやらかせば竹のものさしで手首をぶつ。けれど身の回りのことはきちんとしてくれたし、授業参観は嫌だ嫌だと言いながらも結局来てくれた。そういうところは嫌いではなかった。


 秋人が小学四年生のとき隣――といっても庭が広いから一軒分は開いていたけれど――に引っ越してきたのが由香の一家だ。


 秋人が引っ越してきたときからある洒落た平屋に、大きなトラックが止まって段ボールを運び入れていた。秋人は二階の窓からずっと見下ろしていた。


 由香は一つ年下で、ひょろっとしたか細い少女だった。しかもなかなかの人見知りだ。秋人が声をかけても黙ったままうつむくのだから困ってしまった。なら話しかけなければいいのだが、秋人は昔から構いたがりで世話焼きだった。


 それに少し気になることもあった。

 夜、時々叫ぶような声が聞こえるのだ。


 秋人の家は築四十年のボロ屋で壁が薄い。部屋で宿題をしていると、かすかに人の声が聞こえてきた。壁に耳をくっつけてよく聞いてみると、何か言い争うような声だった。


 由香には何度か「おまえんち喧嘩とかするの?」と訊いてみたけれど、彼女は小さく首を振るだけだ。


「違うよ」


 舗装もされていない道で、落ち葉を踏んだ由香は淡々と言う。


 彼女がそう言うのならそうなのだろう。

 どこか腑に落ちないまま、それでも納得するしかなかった。


 人の声が聞こえるのは数日に一回くらいだ。耳を澄ませなければ分からないほどの声量で、近所迷惑というわけでもない。耳の遠い祖母は聞こえてもいないだろう。あたりは畑だらけで、あるのは秋人と由香の家だけだ。だから秋人だけが知っていた。






 夜中、秋人がトイレに行こうと起きだしたとき、また声が聞こえた。


 秋人はサンダルを足に引っかけてこっそりと家を抜け出した。由香の家は平屋だから、ブロック塀でよく見えない。穴に足をかけながらよじ登って身を乗り出す。


「――?」


 リビングらしい部屋には明かりがついていた。薄いレースカーテンがかかっているだけで中が透けて見える。


 由香がいた。フローリングに座りこんでいる彼女は、何かをしきりに叫んでいる。


 そのすぐそばには青年がいた。中学生か高校生かは分からない――けれどそのくらいの年齢の青年だ。彼は由香の髪をぎりぎり引っ張って、やっぱり何かを叫んでいた。


 あたりには物が散乱していて、数枚の割れた皿が転がっていた。床にはガラスの破片が飛び散っていた。


 喧嘩、というにはあまりにも一方的だ。


 けれどそれを喧嘩以外の言葉で表すことを、秋人は知らなかった。


 次の日、由香に「あいつ誰?」と尋ねた。


「あいつ?」

「昨日、おまえの髪引っ張ってたやつ!」


 由香は少し視線を泳がせて、静かに答える。


「……私のお兄ちゃん」


 ひっかき傷のあるランドセルを背負いなおした彼女は、足元の小石を蹴飛ばした。


「お兄ちゃん、すぐ怒るから。乱暴なの。私のことすぐ蹴ったりする」

「お母さんとかお父さんは? 怒らないのかよ」

「怒んないよ。そういうときは二人とも部屋から出てこないし……」

「なんでだよ。喧嘩両成敗って言うじゃん」

「さあ、分かんない」

「兄弟喧嘩なら由香もやりかえせばいいのに。なんで何もしないんだよ。殴り返したらおまえの兄ちゃんもやめるんじゃねえの?」

「そんなの駄目だよ」


 立ち止まった由香は少し声を荒げた。思ったより大きかった自分の声に驚いて、はっと目を見開くとすぐにうつむく。


「お兄ちゃんがもっと怒るから」


 祖母にだけは話したけれど、彼女は皺だらけの首を振るだけだった。「人様のことに首を突っこむもんじゃないよ」とだけ言って皿を洗う。古いシンクを水が打って音をたてる。祖母は目を合わせようともしないから、話はそれきりだった。


 それから一年くらいがたって、秋人が五年生になったころNPO法人の出張授業があった。そのとき家族の喧嘩には家庭内暴力という名前がついていることを知った。たとえ親でも兄弟でも、他人を殴ってはいけないのだ。


 授業終わり、配られたマグネットには『まずは匿名で電話相談を!』と書かれている。


 手のひらがじっとりと汗ばんでいた。


 その日の放課後、秋人は受話器をつかんだ。






 しばらくの間、由香の家に数台の車が出入りしていた。一台やってきたかと思えば帰って、すぐに別の車がやってくる。数日くらい続いたかと思えばぴたりとやんだ。車はもう来なくて、その日から由香の叫び声も聞こえなくなった。


 噂で由香の兄がどこかへ連れていかれたことを知った。


 隣町の警察だとか拘置所だとか、大人がそれぞれ違うことを言う。話はめちゃくちゃになりながら広がっていった。それでも由香を傷つける人は遠くへ行ったことだけは真実だ。もうあの家にはいない。


 秋人は心底ほっとしていた。


 ――そんな日が長く続かないことを知らなかったから。


 さらに数週間が過ぎて、突然由香が入院した。学校から歩いて十五分のところにある古い診療所だ。秋人はランドセルを背負ったままで診療所へ走った。


 壊れかけの自動ドアをくぐる。カウンターにいる看護師は「由香ちゃんなら一番奥の部屋よ」と言いながらにこりと笑った。


「由香、なんで入院してるの? なんかの病気?」

「階段から落ちちゃったんだって。怪我は大したことないんだけど、頭を強く打ったみたい。ゴツンって。それでいろいろ検査しなくちゃいけないから入院してもらったの」

「……階段……?」

「そうよお。あちこち打っちゃって痣だらけ! 消毒するの大変だったんだから。秋人くんも気をつけなさいよ、あなたせっかちなんだから」


 息が止まって、両足がすくむ。目の前からじわじわと光が消えて暗くなっていく。


 由香の家は平屋だ。


 ――階段なんてない。


 病室の扉は開けっ放しだった。四台のベッドが向かい合っていて、一番奥のカーテンだけが閉められていた。秋人は足をもつれさせながら走って、カーテンを引っ張る。窓から差しこんでいる夕日が眩しい。


 由香が座っていた。

 狭い額にぐるぐる巻かれた包帯と、身体中に張り付けられたガーゼ。水色のパジャマを着ている彼女はゆっくりと振り返る。茶色がかった大きな瞳が秋人を見つめた。


「……なんで」


 喉が震えた。秋人は言いかけて、やめる。


 そんなこと訊かなくても分かっている。あの男が帰ってきてしまったのだ。もう二度と戻ってこないと思っていたのに、たったの数週間で。そして今までより酷く由香を殴った。ただの八つ当たりで、報復だ。


 よそに誤魔化しようがないくらい怪我をさせてしまったから、親も「階段から落ちた」なんて嘘で医者に見せたのだろう。


 由香の目は淀んでいた。

 悲しみではなく、憎しみで。


「なんで、こんなことしたの?」


 その憎しみは秋人へ向けられていた。


 余計なことをしなければ、こんなことにはならなかったのに――由香は言葉にはしなかったけれど、視線は鋭く秋人を刺していた。


 頼まれたわけではなかった。由香はそうしてほしいなんて一言も言わなかった。それでも秋人は電話をかけた。ただ由香が痛い思いをしなければいいと、そんな気持ちで。優しさで。正義感で。それできっと助けられると信じていた。


 けれど現実は違った。

 誰も由香を助けてくれない。


「ごめん」


 目頭がじわじわと熱くなって、目の前が歪んだ。ぐっと力ませたのに気付いたときには泣いていた。しゃくりあげて嗚咽を飲みこむ。鼻がツンと痛い。秋人はひたすら謝り続けた。床に座りこんでベッドにしがみつく。こんなはずじゃなかったのだ。こんなはずじゃなかったのに。


「ごめん、ごめん、ごめん……」


 黙って聞いていた由香は「許さない」と言った。どんなに謝っても由香は「一生許さないから」と言った。


 だから決めた。


 どんな方法だっていい、由香のためにできることをする。由香の力になる。それが由香への誠意で、謝罪で、唯一の罪滅ぼしだから。






 ニュースは更新される。


 由香の家庭環境。由香が受けてきた暴力。由香を助けてくれなかった現実。同情と好奇と憶測が混じりあって渦を巻いていた。そのどれもが気持ち悪くて、見ているだけで吐き気がしてくる。秋人はスマホを膝の上に置いた。


 由香は大学受験をきっかけに家を出た。親からの金銭的援助はほとんどなかったから、秋人が工面した金額は大きい。毎日アルバイトをして、金を稼いで、由香の卒業まで支え続けた。由香は苦い顔をしていたけれど、秋人が押し付けるように封筒を渡していた。


 地元を離れて、二人で東京を生きた。


 秋人の祖母も亡くなってしまったから、頼れるのはお互いだけだった。


 それでも幸せだった。


「あいつ、最後になんか言ってた?」


 片手でハンドルを握りながら尋ねた。由香はスマホをいじり続けている。


「さあ? その前にはぎゃーぎゃーわめいてたけど。家族を見捨てたとか、責任感がないとか。どの口が言ってんのよって感じじゃない?」

「そんな暇あったら辞世の句とか詠めば良かったのにな」

「詠む前にぶん殴っちゃったわよ。一発で死んだたからなあ、もうちょっと加減してあげればよかったかも」

「にしても玄関に筋トレ用のダンベルは笑うだろ」


 由香がどこに引っ越したかは家族にも言わなかった。あの男には大学名も秘密にするという約束をしていた。なのに今頃になって由香の居場所を突き止めてやってきたのだ。また由香を殴って気持ちよくなるために。


 秋人はこみあげてくるものを必死に抑えた。詰まりそうになる息を細く吐いて、落ち着けと言い聞かせる。落ち着け、あいつはもう死んだ。殺して埋めた。二度と這いだしてこれない。


「……そもそも、なんでバレたんだよ」

「大学関係の書類が実家にいったみたい。で、それの住所見られた」

「でも今の住所と違うじゃん」

「親が吐いたんだって」


 秋人は舌打ちする。どこまでも人の足を引っ張るやつらだ。


「ろくでもない人たちよね。あれで私に親切にしてやってるつもりなのよ。笑える冗談でしょ? ……ふざけんじゃないわよ」

「あいつもしつこいのな」

「私に殺されるために片道八千円は面白すぎるでしょ。霊界のM-1にでも出ればいいのよ」


 あの男に最大の誤算があったとすれば、由香はとっくに吹っ切れていたということだ。もう黙ったまま殴られている少女ではない。今までの恨みをずるずると引きずって、晴らせる日を延々と待っていたのだ。本当は深く深く憎悪するのが得意な人間なのだから。


 由香はぐーっと伸びをした。背筋をぴんと伸ばして、一気に脱力する。だらんと力の抜けた声で「よかった」と呟いた。


「よかった、自分でやれて」


 少し開いた窓から風が吹きこむ。秋人は「ははっ」と笑った。笑うしかない。


「そうだな」

「今さいっこうに気分がいいの、私。言っとくけど何も後悔してないから」

「知ってる」

「秋人を巻きこんだことだって一ミリも悪いと思ってない。私は謝らないからね」

「それでいいよ」


 共犯を望んだのは由香だけじゃない。もし電話をかけてこかったとしても秋人は走っていっただろう。きっと裸足でだって走っていった。あの日できなかったことの続きをするために。


 前を向いたまま、アクセルを強く踏みこむ。


「約束は守るよ。だから由香も一生俺を許さないで」


 彼女の髪が風になびいた。少し長くなった前髪が目元を隠した。髪と髪の隙間からのぞいているブラウンの瞳は、秋人をまっすぐに見つめていた。


「秋人はそれでいいの?」

「自分で決めたことだから」


 役に立たなかった優しさや正義感はもういらない。由香が笑えるならそれでいい。たとえ誰に許されなかったとしても、先に由香を見捨てたのはおまえらだ。由香が俺を許さないなら、俺は由香以外の誰も許しはしない。


 しばらく走っているうちに日は沈んで、空にはいくつかの星がまばたいていた。


 高速をおりた車は見慣れた田舎町を走っていた。


 どこまでも続く田園。ぽつりと点在する古い家。傾いた標識。チカチカと点滅を続ける街灯。舗装もされていないガタガタの細道。


「秋人」

「気づいた?」


 にっと口角をあげる。この村に戻ってきたのは祖母の葬式以来だから七年ぶりだ。由香があはっと笑い声を零した。


「もっとスピードあげてよ」

「そんな急かすなって。猪とか轢いたら夢に出る」


 平屋の前には数台の車が止まっていて、中ではくたびれた服を着た男女が頬杖をつきながら仮眠していた。大小のカメラレンズが向けられたままだ。平屋はカーテンというカーテンが閉められていて、隙間から明かり一つ漏れていなかった。


 けれど、そこにいることは分かっていた。


 娘の擁護一つしてやらず、突き付けられた非難の指先から逃げているあの二人が。


「どうせなら好きに生きてこうぜ」

「いい言葉よね、自由って」


 由香は目を細める。


「みんな自由に生きて、自由に奪っていった」


 奪われた分を返してほしいと思うのは自然の道理で、それがたまたま今日だっただけだ。奪ったままでいられるなんて横暴にもほどがある。奪ったら奪われるのだ。もう由香に残っているものなんて何もない──これからはただ欲しがるだけだ。


 車はゆっくりとスピードを落として停車する。秋人はハンドブレーキを引いて、エンジンを切った。鍵を掴んだままで後ろに身を乗り出す。後部座席に乗せていた荷物を取ってからドアを開ける。由香に片方手渡せば「ありがと」と短く返された。


 パーカーのフードをかぶって、ふらりと踏み出す。


 口元は笑みを描いているのに、どうしてか、少しだけ泣きたくなった。


 最初からこうしていればよかったのかもしれない、と思った。あの日の秋人に必要だったのは電話番号の書かれたマグネットではなく、一本のナイフだったのだ。そんな現実を教えてくれる人は誰もいなかったし、気づきたくもなかったけれど。


 閉ざされた門なんて乗り越えてまっすぐに歩く。まわりのざわめきなんてどうでもよかった。チャイムを鳴らす。返事がない。鳴らす。何度も鳴らす。


「あの、夜は勘弁してくださいと何度も――」


 音をたてながら開いた扉。真っ白なタイルに光の帯が伸びる。


 濃いくまを浮かべた男は、昔よりずいぶん老けた気がした。ドアノブを掴んだまま疲れきった声で非難した男は、二人の顔を見て目を見開いた。後ずさりする。廊下の奥から様子を伺っている女は「由香」と短く叫んだ。


「私だって何度もそう言ったのよ。誰も聞いちゃいなかったけど」


 彼女が腕を振り上げれば、握りしめたナイフが光を反射して鈍く輝いた。きらきらと、何よりもまばゆく。


 発狂。破滅。自棄。悲劇。惨劇。報復。制裁。好きな名前で呼べばいい。


 由香はいっとう美しい顔で笑った。

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