誠実 二〇二一年 一月二日 ②

「ちょっと待って!……ください」

 革の鞄を握った鳴海を呼び止めるために、声を上げた。だが、周りは板前二人と女将が一人、客は俺たちだけの空間で、その必要はなかった。途中で気づいた俺は声を絞りながら、体も縮こまった。

「その……帰る前に、訊きたいことがあるんです。時間はそんなに掛らないので」

 俺がびっくりさせてしまった女将に、鳴海はお茶を頼む。

「ばたばたしててごめんな。それで?」

 切り出す前に、乾いた唇を温くなったお茶で濡らす。二人分注いでもらい、女将が立ち去るのを待ってから話した。

 誰にも見せたくない。震える手が、もう一つ震える方の手首を握り締める。

 あの日、決めたんだ。目を背けたくなっても。目の前で決断した人を忘れないためにも。

「もしですよ。……もし、本当の自分とは全く別の、原形を留めていない姿を面接で差し出したら、それは面接官にとって不誠実ですか?」

 先ほど鳴海は大丈夫だと言ったが、その言葉を正面から受け止めきれなかった。

 不安だった。引っぱり上げられた後で、一つの手では足りないということに気づいた。俺たちのやり方は、真剣に見極めようとしている人たちを、ただ騙しているだけなのではないのか。学生ではなく、大人からの精神安定剤が必要だった。

 子供を相手にするときと同じ目で、ふっと鳴海は笑う。

「おかしかったですか?」

「いいや。デジャブかと思って、つい懐かしくてな」

 同じ考えの学生に相談を受けでもしたのか、拓実の顔がすぐさま浮かんだ。

「あれは社会人一年目か二年目だったかな。同じゼミだった後輩に、『面接で仮面を被って相手を騙すことは、そうでない場合と比べて、双方、或いはどちらか一方は得をしないんじゃないか』とか、そんな感じのことを訊かれた」

 就職活動は、自分を相手に差し出すことを前提にしている。ESや履歴書では読み取れない本人の情報を、面接で見極めようとする。

 小さい頃からどのような人生を歩んできたか。スーツを着た学生がどんな価値観で企業を選んでいるのか。その企業と合っているか。入ってすぐ辞めてしまうことはないか。

 他人の仮面を被ることでミスマッチが起きる可能性は、そうでない場合よりも高く思える。お互いの擦り合わせは必要だし、最終的に迷惑を被るのは、企業と、元学生を通過させた社員だ。

 果たして鳴海は後輩に何と答えたのか――、

「実は随分前のことだから、後輩に言ったことは覚えてないんだ」

 覚えてろよ!大事なことなんだから!

 相手が拓実だったら、頭を何発か叩いて思い出させていた。

「だけど、それ以外のことはなぜか頭に焼きついてるんだよな」

 つらつらと鳴海は語る。

「後輩と会った翌日は少し雪が降っていて、いつもより早めに家を出た。手が凍っちまいそうになりながら、職場に辿り着いて、上司とか同僚……あとは職員以外の人とも、書類片手にミーティングする。当時は忙しくない部署だったから、定時に退庁して玄関に辿り着くと、キッチンで嫁が鍋の用意してくれててさ。嫁の腰に手を回した時、後輩の質問と一緒に思ったんだ」

 俺はどこかで信じたかった。偽りのない自分自身を相手に差し出す行為が、信用を得ることに繋がると。就活で得た経験が、どこかで役に立つ時が来ると。

「嫁といる時に、仕事で被っていた仮面を脱ぎ捨てるのと同じように、仕事中に嫁と抱き合う自分を他の人に差し出すことはない、と」

 二度目の崩落。

「仮面を被る行為に違いがないのならば、俺は年がら年中人を騙し続けていることになるけど、同僚も、上司も、お客さんも、多分気にしないし、合意の上なんじゃないかなって。逆に、自分を他人に差し出す瞬間って、ほとんどなかったんじゃないのかな。これまでも、これからも。自分の喉を通して人と喋らない分、俺は楽だけどね」


――弊社のインターンシップを受ける上での志望動機を教えてください。

――小山さんの自己PRをお願いします。

――小山さんは、御家族や御友人からどう思われていますか?

――一言で表すと一貫性がない。


 布団に蹲る時間が延びたのと、就職活動を始めた時期は一致していた。ルーチンワーク以外何も手がつかない日々。出口の方角さえわからない、終わりの見えない迷路に閉じ込められた時、それでも人は走れるのだろうか。

 俺はそうでない人が大きな声でわめくのを、違う場所で声を上げるのを今年に入ってから沢山見てきた。こんな世界は間違っていると声を上げた人物から病魔がひっそりと死の鎌を振るってくれれば、本当に別の世界で別の人生を演じられたかもしれない。

――ほんと、面接官はどこ見てんだよ。

 俺は評価自体に疑問を持ったことは一度もない。だが、どこに評価基準を置いているのか。大樹も同じことを訊いていた。

 繋いできた点を繋ぎ、物語に直す作業。足らないものは、理解していた。

 ただ、削れて、耐えて、残ったものまでを幾人もの秤に載せなくてはならないのか。差し出した挙句、見えないところで捨てられるのか。麻酔が切れるのは、時間の問題だった。

 これ以上は、無理だ。

――バイトリーダーを務めたレストランで、関東エリアのお客様評価一位を達成したことです。

――文化祭の渉外担当として各学年をまとめ、前年以上の働きができたことです。

 ぐらぐら、ひょい。

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