誠実 二〇二一年 三月一日 ①
二〇二一年三月一日
東京都感染者数一二一人
就職活動が正式に解禁となり、本来であれば午前零時から最低でも一時間以上は、就職支援サイトと睨めっこをするはずだったが、最終面接の前夜となれば早々に切り上げる他なかった。
俺はクローゼットを静かに開け、前日にアイロンを済ませたワイシャツとスーツ一式を取り出す。オンラインでの即時性に慣れてしまったせいか、今のところ面接練習をしていた昨日よりも緊張はない。
ワイシャツのボタンを外していると、目覚まし音が響く。「早っ……」とベットから出てきた拓実の目は、ほとんど開いてなかった。
「寝てりゃいいのに」
食堂はまだ開き始めたばかりで、少しくらい二度寝しても間に合うはずだ。
「せやな…………。最終面接って今日?」
うっすらと開けた目で拓実が訊く。
「おう。見りゃわかんだろ」
今日が最終面接とは、決まった時点で言っていたはずだ。なのに、「う~ん、そうやったんやな!」と背を逸らしながらわざわざ確認してくるのか。
「だったら天才メイクリストの拓実さんが、バチバチに決めてあげねんとな!」
あまりにわざとらし過ぎる。自称天才は痛々しいが、拓実にやらせれば見た目がよくなるのはたしかだ。十一時の面接まで時間はある。
スイッチが入ってしまったのか、俺の返事を待たずに、目やにがついたまま拓実は道具を準備し始めた。
「遅くても十時前には寮出るぞ。あと、変なことはすんなよ」
「任せなさいって」
髪をセットするために水で少し濡らしてきた後、全身鏡の前に座らされる。ドライヤーのスイッチが切られ、温風と手が後ろから当たった。丁寧にトップを整えてるのを見ると、任せたことは間違いでなかったと思う。特に前髪を上げることには今でも慣れていないので、ドライヤーの当て方などは次やるときの参考になるだろう。
「お客さん、ドライヤー熱くないですか?」
「大丈夫大丈夫」
標準語の営業スマイル。拓実は美容師になりきって、完全に楽しんでいた。
「今日は面接なんですか?」
「最終面接で、はい」
「そうなんすか!じゃあ、僕気合い入れて面接官に『凄い奴がきた』って思わせられるよう頑張りますね!」
「お前マジで余計なことはするなよ」
鏡の前の俺はもうほとんど呆れていたが、拓実はいつにも増してよく喋っていて、緊張をほぐそうとしていた。俺も上げた口角の一ミリくらいは、拓実につられていた。
「髪の方はこんな感じでどうですか?」
タオルで手を拭いながら拓実が訊く。ワックスで動きを付けた髪型は、顔を隠せば自分でやるよりも三割増しで爽やかに見えた。
「……問題ないです」
にっこにこの笑みを浮かべ、スプレーで固め終えると、拓実は机の上に準備してあったメイクセットを手に取る。化粧をする拓実と目を合わせたくなかったので、目だけ明後日の方を向くか悩んだ結果、瞼を閉じて完全無防備状態をとった。今なら財布の中身をこっそり抜かれても、多分気づかない。
温いクリームが額、目の下、頬、顎、などに塗られていくのがわかる。それを薄く伸ばし、染み込ませるようにぺちぺちと叩かれる。俺が何も知らずにやれば手の平でもっと雑に擦ってしまうようなところも、手を抜かない。一度目を開けてみると、下地が整っており、それだけで清潔感がぐっと増した。
「じゃあ次いくよ~」
拓実が太めの鉛筆ほどのコンシーラーを持って、今度はニキビ跡などを隠していく。一度軽くつけてから、指でまたぼかして塗っていく。鏡に目を向けると、下地の段階では点々としていた染みも、軽く塗っただけで隠れてしまっていた。
「すげー」
「せやろ」
これだけでも十分だと思うが、拓実はファンデーションも用意していた。あんまり塗りたくるとかえって厚化粧になってしまうので、かなり控えめにお願いする。指に馴染ませて、先ほどと同じように頬から染み込ませるよう塗っていく。
拓実の手際に感心して目を開けていた俺は、彼の左手の甲に何か書かれていることに気づいた。
『七時目覚まし』
思えば、拓実に助けられたことは一度や二度ではない。個人戦と思われていた就活を、互いに足りない部分を補ってから負担がかなり減った。
最初は自分の力だけでどうにかなると思い込んでいた。でも、目の前のこいつや隣の部屋でまだ寝ている奴らと比べて、自分はそれほど器用でも、真面目でも、将来の目標が定まっているわけでもなかった。
秋が深まってからの、何をするにも億劫になっていた俺があのままだったら、心が先に折れていたかもしれない。そう考えると、こんなに落ち着いて今日を迎えられているのも、協力していた部分が大きい。
「ほいっ。完成!」
拓実が椅子を前進させて、鏡と向かい合わせる。途中経過は確認していたが、すっぴんと比べると、印象がかなり変わっていた。自分で言うのもあれだが、第一印象で落とされることはまずないだろう。初めてワックスを使った時と同じくらい、俺は鏡の前で自分の顔をじろじろ眺めた。
「化粧一つでこんなに違うんだな」
「侮れんもんやろ」
まったくだ。体が昂揚し、背筋がピンと伸びる。力を分けてもらったみたいで、今だったらなんでもできる気がした。
「ありがとう。まずは一つ、決めてくるよ」
道具を片付け始めていた拓実はその手を止め、困った顔を俺に向けた。
「どうした?」
「僕は健太郎がいろいろ悩んでて、就活うまくいくか正直不安だった。それが手伝った理由や。やっぱり同じ部屋で頭抱えているやつ見るのは嫌やったし、こうして最終面接に一番早く行けたのは、僕もめっちゃ嬉しい。納得できる就活ができたら、それが一番ええと思う。だから、礼は受かってからにしときや」
それもそうだが――、
「受かるとか関係なく、感謝してる」
「おう」と返した拓実は、小走りで食堂へと向かって行った。拓実も明後日に最終面接があるから何かしてやれないかと考えたが、言われた通り、まずは今日の面接を乗り越えなければ意味がない。
俺は上着のボタンを留め、忘れ物がないか鞄を開いた。
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