誠実 二〇二一年 二月二十二日 ②
ピンが刺さったプラスチックの車を、ルーレットのマス目に従って進ませる。人生ゲームは最初の一、二巡目で職業が決まるマス目に辿り着くようだ。医者。教師。プログラマー。プロスポーツ選手。自分とは違う生き物だと思っていた人たちの職業が書かれたカードたち。
小さい頃、自分の周囲は同じマス目を進んでいるのだと思っていた。学校に行き、部活で汗だらけになって、宿題をして、同じ場所にまた集まる。その繰り返しだった。
今は自分と歳がそれほど離れていない人たちがその職業に就いていることを、どこか別世界のように考えることはできない。テレビを付ければ、自分より年下の選手が野球中継に映っているし、同じ大学には教師の卵が、まさに教職課程を取得しようと教材に齧り付いて勉強している。
そして職業カードの中で最も魅力のなさそうなサラリーマンに、俺もこれからなるのだ。
「健太郎、はよ回せ」
拓実に急かされ慌ててルーレットを回すと、出た目は九。スタート地点から上のルートを選べば、サラリーマンの職業カードが手に入れることができ、下を選べば交通事故イベントで、早くも所持金の三分の二を失う大惨事に遭う。
「うわ、サラリーマンかよ」
「職業カード取らなければ、ルーレット次第で違う職業選べるよ」
「そう言われてもな……」
職業選択ゾーンは、サラリーマンの次のマスがスポーツ選手しか残ってはおらず、それを越えるとフリーターとなり、早くも人生の路頭に迷いこんでしまう。就職の危機に悩まされるのは、現実だけでうんざりだった。人生ゲームにおいて、職業を持つことが本当のスタートであるならば、大学生の俺はまだスタート地点に立っていない。
「サラリーマンでいいや」
俺はイベント進行役の大樹から職業カードを貰い、職業確定マスまで駒を進める。
他の三人は俺より高給取りの職業カードを手にしており、大きい目を出した割には早くも出遅れた感があった。だが、給料が高い代わりに、バランス調整のためのデメリットが人生ゲームでは綺麗に調整されている。その後のイベントでは、拓実を筆頭にサラリーマンなら被害がゼロ、または軽微な支払いで済んでいたものが、高額な支払いによって手持ち金の大部分を失ったり、海外の僻地に飛ばされ、家を売り払わなければならないような涙もののイベントに巻き込まれていた。
「医師なんてやってられるか!」
元基は安定した給料の中では最も高給取りな職業である医師カードを、メンコのように投げつける。パワハラ→過労→人間関係の悪化→鬱病という負のスパイラルに陥り、休職状態に追い込まれれば当然なのかもしれない。
「お前運悪すぎ」
床に叩きつけられたカードを元基にペっと返し、大樹は他人の不幸を愉しみながらも同情の視線を僅かに向ける。
「医師ってのは普通のルートなら出世して、よほどのことがない限り一番金を稼げるのに。医師トラブルのフルコース喰らう奴は初めて見たよ」
「うるせー」と文句を言いながら、番が来た元基はルーレットを回す。
「次は二度目の職業選択のルートに入るんだ。頼む頼む頼む。医師はもうやだ医師はもうやだ」
「来年の今頃は、最後の春休みを満喫しとるのかな」
ルーレットにお祈りをする元基の横で、拓実が呟く。
「おいそこ、現実の話を持ち込むな。ってああ!また医師じゃねえか!」
度重なる幸運も、この時ばかりは素直に喜べずにいるようだ。泣く泣く駒を進める元基が可哀想になってきた。
「わかんね。引っ越しとか研修の準備で忙しいんじゃねーの?」
「その前に就職できるかだろ」
「やめろ。まじで気が滅入る」
来年の今頃がどうなっているのかなんて、俺はまるで想像できなかった。一カ月後すらどうなっているのか全く見当もつかないのが、今の俺たちなのだ。
「あんまり訊かなかったけどさ、拓実たちは順調に進んでる感じ?」
それは突然だった。
修学旅行の夜、布団に潜り込んでひそひそする話題も、こういった不自然な訊き方をする奴はいたものだ。だが、こういった話はきまって、センシティブな緊張感を生む。昨日、俺は面接を二つ受けており、その内の一つは、通過すれば次が最終面接なのだ。
「今は早期選考もあるけど、説明会とかインターンとかが多いからな。でも、今日受けたところで、演劇が趣味の面接官がおってな。話めっちゃ噛み合ったから、受かったかもしれへん」
「じゃあ結構順調なんだ。健太郎はどう?」
「俺も企業研究とか、OB訪問をオンラインがほとんどかな。二日三日に一回くらい、面接あるけど」
面接官の笑みがふと頭をよぎる。理解しているとばかりに見せる、深く刻まれた皺。
「そうそう。健太郎は十五くらいに数絞って、その分じっくり時間かけてるもんな」
余計なことは言わなくていい、と拓実を小突いたところで、懐の携帯が震える。昨日受けた企業からメールが来ていた。
『面接結果について』というタイトルを見たとき、俺は面接当時とは比べものにならないほど、頬の筋肉がぴくぴく痙攣した。拓実たちから一歩引いたところで、メールボックスを開く。URLから採用サイトにログイン。メールアドレスとパスワードを入力し、マイページに入る。
「健太郎、どないした?」
『厳正なる選考の結果――、』
「受かった」
反射的にするっと言葉が出た。
『――通過致しました。次回は最終面接となります。マイページから日程調整の――、』
「次、最終だ」
黙っていようとか、そういう思考が一切介在することなく喉が動いてしまった。
「おお~。おめでとう!」
大樹たちの手の叩く音で、鼓動が段々と静かになっていった。
「え、じゃあこの最終面接で内定貰ったら、健太郎は就活終わり?」
「第一志望のところまで続けるけど、ぶっちゃけ終わってもいい」
数を減らしたことで、どこに行っても現時点で後悔はない。「はえ~」と息を漏らす元基が、なんだか恥ずかしい。
「僕たちには訊いとったけど、大樹はどうなん?」
「俺?健太郎の後でなんか気まずいけど、選考はまだこれからだよ。インターンもあれば、Webテストもやらなきゃいけないし。面接も一週間くらい先だよ」
「でも、秋落ちたところは、インターン通ったんだろ」
「おい」
「ああ、友達と面接被ったとこか。その子とは今も仲良くしてる?」
「普通だよ。こないだも同級生とAmong usやったし。ただ、面接でもう一度一緒になりたいとは思わねーな」
「もし面接で一緒になったら、今度は『俺も同じサークルで一緒に企画したんですよー』って笑顔で言えばええやん。あ、一万円ゲットー」
盤上を見つめている大樹はお金を催促する拓実に気づかず、何か考えているようだった。
「そういうことじゃねーんだよ」
「全然問題なくね。ダメなの?」
元基が屈託のない笑みで訊く。大樹の様子がさっきと違うと感じているのは、俺だけなのかもしれない。
「俺はさ、そいつと友達だから、就活も成功してほしいと思うんだよ。けど、俺があいつを手伝ったのは、ただボドゲが好きな奴らと集まって、わいわいする日が楽しみで楽しみで仕方がないっていうあいつの話を聞いて、自分もサークルの名前を借りてでも主催したいっていう話だからで。そこには面接官が求める背景も、面接官が聞きたくて仕方がない課題も、結果も実効策も、わかりやすいようなことはなんにもなくて、ただ、初めてやるオフ会で、不器用でルールも途中で忘れるような馬鹿を手伝いたかっただけなんだよ」
言い聞かせるように話す大樹から、目を離すことができなかった。元基たちもきっとそうだろう。俺は先ほどの認識を改めなければいけない。
大樹もずっと前から考えていたのだろう。
学チカも、自己PRも、人生で一番大変だったことも、そもそも彼らに話せるようなものは存在しないのかもしれない。
入り組んだルートを走るこのゲームは、本当によくできている。
俺たちは、面接官の前で語ることを想定していない。
だから、求められるような『課題』も、『課題』となる『背景』も、順序よく時系列順にに整えられた『実効策』も、数値化された明確な『結果』もない。後付けされた『課題』で、後付けされた『背景』で、その場で見れば不合理で幻滅されるような『実効策』で、実行したという『結果』だけが存在した。
「そいつが受かったら、多分おめでとうって言えると思う。でも、それだけだ。選考途中でも、その企業は辞退する。ルーレットの数字の目を誤魔化すことは認められない」
「はあ⁉」と池に石を落とすような声で、拓実は大樹と対立する。前とは逆で、大樹は落ち着いていた。
「例えば、このゲームで一ターンだけ、拓実がルーレットの目を誰にも気づかれずに誤魔化すとする。出した目は全財産を失うアンラッキーイベントで、罰ゲームは確定。でも、前のマスでは大金をゲットできるイベントにとまれる」
「どうしてそんな話になるんや。出目を変えるなんて、言ってへんやん」
「拓実はそう思ってるんだろうけど、俺からすれば一緒だよ。普通に回してゲームに勝つのと、出目を誤魔化すのとでは、もはや別物なんだ」
はい、と通貨を渡した大樹はルーレットを回す。出目は十。上がりだ。
「だから、大樹は自分のやり方でやると。そう言いたいのか」
「俺は否定できるだけの根拠を持ってないから」
就活は、毛糸で編み込まれた自分用のセーターを、一本の真っ直ぐな糸に戻す作業なのだと思う。過去、現在、未来へと続く真っ直ぐな線に。その作業をどれだけ上手くできるかだけなのに、どうしてこの二人の距離は、こんなにも遠いのだろう。
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