誠実 二〇二〇年 十月二十八日 ①

    二〇二〇年十月二八日

    東京都感染者数一七一人


 まだ誰もいないだろうと当てをつけて入った自習室には、参考書を広げている元基がパーティション越しに映っていた。元基の前に座ると、四人がけのテーブルが半分埋まった。

「健太郎も拓実に呼ばれて来たのか?」

 元基の声は、マスクと板でいつもより低く、こもごもしている。「まーね」と答えながら俺は脇に抱えたノートパソコンを開く。

 昨夜、拓実から「明日の夕方空いとるんやったら、大樹たち集めてES書くから健太郎も来てな」と突然言われた時は、大学のテスト期間を思い出した。テストの代わりにレポートが大量に出たオンライン講義以前は、大学図書館はおろか寮の自習室も椅子が埋まっていた。前の講義のプリントがない、テスト範囲どこだっけ。自習室のあちこちから阿鼻叫喚の声が聞こえてきて、四人の中で一番成績の悪い(というか、出席率の悪い)拓実の声が一番大きかった。

 こないだの大樹もそうだが、拓実みたいな周囲をえいと巻き込んでしまうやり方は、テスト前じゃなければ俺も見習いたい。

「拓実は一緒じゃないの?」

「あいつは劇団のリハーサルで少し遅れる。っていうか大樹は来てないの?」

「さっきバイト終わったって連絡来たよ」

 パソコンが起動している間、板越しに元基が解いている参考書を覗くが、問題がややこしくてすぐ飽きた。

「元基はさ、公務員試験受けから勉強してるんでしょ。わざわざ俺たちに気を遣わなくてもいいんじゃない?」

「最近は自習室で勉強してるから、気を遣ってるわけじゃないよ。それに、俺は周りに人がいた方が集中できる」

 喋りながらルーズリーフに答を書き込んでいる元基を見ていると、ノートパソコンの画面が明るくなったので、パスワードを打ち込んだ。

「気を遣ってるどうこうの話なら、拓実の方がよっぽどだけどな」

「どういうこと?」

 俺は無意識に曲がった背中を戻すと、元基はペンを置いた。

「最初ES書く集まりやろうって言ったのは大樹なんだよな。昨日俺が昼寝してる間に拓実と話してたの聞いてて。そしたら拓実のやつ、『元基には僕が言い出したって伝えといてな』って大樹に念押ししたんだよ」

「なんで?」

 わけわかんねー、と小さく首を捻った。

「性格読みだと、拓実は大樹が二回続けて集まりをかけるのは、少し気が進まないと思ったんだろ」

「そんなこと気にするか?」

 今まで自分は散々人に『教えて~!』『助けて~!』と言っておいて、人のことを心配するのか。

「ぶっちゃけ俺は気にしない。けど、大樹なら少しは気にしそうだし、拓実なら気を遣いそうってだけ。大樹は真面目だけど気が小せえからな~」

「お節介め」

 たしかに拓実はよく気が回るし、それが一番拓実らしいのだが、たまにうっとおしさがちくりと肌を刺すときがある。

「そもそも拓実は必要なさそうだけど。劇団の先輩に見て貰ってるって、こないだ言ってたから」

 パソコンに触れていない手の方が、全部の熱を吸ったかのように熱くなる。知らなかった。俺だって雅也さんに添削してもらっているけど、拓実にはそのことを話してあった。

「ああ、そうらしいな。こないだインターン行ってたし」

 どうして俺はつかなくていい嘘を吐いたのだろう。ファイルにいくつかあるESの欄がとても小さく見えた。

『志望動機』

『あなたの長所・短所』

『人生で最も苦労したこと』

『学生時代に頑張ったこと』

 これらを繋ぎ合わせた時、俺の目に浮かび上がってくるのは誰なのか。

 前よりも時間をかけて真剣に書いたつもりだった。雅也さんたちに教わった自己分析も採り入れてみると、ESの作成が最初よりずっと簡単にできた。

 同時に、今までの自分の行動はかなり一貫しないというか、いくつものたんこぶができたロープでどうにか繋ぎ合わせているだけに見えた。

「元基はさ、学生時代頑張ったことってある?」

 目だけで反応すると、間を置くようにペンを動かす。元基みたいに直結しやすい就活を見ていると、俺のやっていることが本当に正しいのか、わからなくなる時がある。太った稲穂のような姿勢のまま元基が口を動かす。

「就活うまくいってないの?」

『ええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ』

 気づいたら一行が無駄に埋まっていた。思わぬ方向に元基が話を逸らしたせいで、指に力が入ったんだ。

「えっ。なにいきなり」

 俺は自分の動揺を隠すように誤字を消していく。

「そういう質問するってことは、悩んでるんだろ?」

 元基に頷かされた。意地悪っぽく笑うと、元基は伸びをして背もたれにかかった姿勢で俺と向き合う。

「書くとしたらサークルのことだな。あ、お前が横取りした真子ちゃんのとこな」

「いちいち言うな」

「うちのボランティアサークルは、定期的に近隣の施設に訪問して子供たちと遊んだり、朝食を作れない大学生と学食を繋いで、安く朝食を提供する活動がわかりやすいな。今年だと他大学と合同で、一年生の学習支援を四月からテスト期間までやってたな。ま、オンライン講義は俺たちも初めてだから、試行錯誤だったけど」

「それって何が一番大変だった?」

「課題が大変だったこと、って俺が一年生だったら答えるけど、サークル的にはやっぱ悩みを共有できる大学の友達が、一年生にはほとんどいないことがわかった時だな。大学に受かってキャンパスライフを想像してた三カ月後に、パソコンに一人で向き合ってオンライン授業受けるのって、心理的にかなり辛いんだよ。友達もいない、サークルは新歓がほぼ死んでるからどんなものかわからないし、入ってもコロナのせいで大学からオフラインでの活動が禁止されてるから、大学に入った気がしない。その上テストはない分課題が多いけど、レポートの書き方も上級生に教われないから進みが悪い。でも、辛いってことを伝えられる相手が、周りにはいない。だから、上京してアパートを借りても、結局引き払っちゃって地元にいる人は多いよ。高校の友達はそっちにいるから、そういう人はまだ大丈夫」

 真子も六月頃、そんなことを言っていたな。本来つけていないネクタイを解くように、喉を触りながら顔を上げる。

「元基たちは何したの?」

「同じ大学の一年生同士を繋げる会を、外枠は大学合同で考えて開いたよ。学生委員会とかが四月のガイダンス前にやってるものの、オンライン版って感じだな」

 ほう、と関心を込めて唇を開ける。馬鹿にするつもりはなかったが、以前『真子ちゃんが可愛かったから入った』と冗談のように本音を零した元基が、サークルで何をしているのか、俺はずっと気になっていた。

「もし――」

「だけど」

『もし俺が一年生だったら参加するよ』

言いかけたところで、顔を強張らせた元基が被せ、平らな手に四つの山を作る。

「これが思ったよりうまくいかなくてな」

「どうして?一年生からすれば、友達作れるチャンスじゃん」

「俺もそう思ってたけど……。失敗の要因を挙げるなら、『はじめましての人たち』でするオンライン交流会には、共通項が少なかったんだよ」

 元基は絡めた十本の指を見つめながら話す。

「普通、大学生が友達を作るのって、最初にサークルとかバイトとか、知り合う前から既に強い共通項があって、そこから色々始まるだろ」

 うん、と頷く。俺も元基も、二年前に寮に住むことを決めたから、こうして目の前で話している。

「けど、共通項がなしの状態だと、参加する『はじめましての人たち』が能動的に共通項を探さないといけなくて、それを解消するためにオンラインでできるオリエンテーションをしたんだけど……」

 珍しく、声が尻すぼみしていく。

「どのくらい効果あったんだ?」

「一週間後にやったアンケート調査だと、参加してくれた百十九人のうち、一週間以内に連絡を取り合ったのは二十人で約六分の一。一カ月後には七人だから、十七分の一よ」

 相当気落ちしていたのか、一緒に出てこようとする言葉ごと、髪を掻いているように見えた。

「約分するな。七人はいたんだから、前向きに捉えてもいいだろ」

「ただ俺たちも舐めてたとこがあったのは、本当なんだよ。『一年生は友達が欲しいだろうから、こちらが場を提供すれば大丈夫だろ』ってな。普通に考えれば、会ったこともない奴と関係を築くことがどれだけ難しいかなんて、わかるはずだったんだよな~。俺たちはもっともっとできることがあったんだよ」

 最初だから失敗するのは当然じゃないか、というのは、慰めにもなっていないだろうか。テーブルに置かれた手の中には、この場では語られなかった言葉も、パソコンのデータの中にしまわれたままの考えもあったはずだ。そういった、試行錯誤した語られない部分を、彼らはどうやって観測するのだろう。

「なんてね」、と元基が立ち上がり二人しかいない部屋で椅子の音が鳴ると、さっきまでの雰囲気が嘘みたいに霧散する。

「これで何かわかりましたか?健太郎面接官」

 俺の後ろに回ると肘で肩をぐりぐりほぐす。「大樹に教わったんだ」と得意げに言った割に最初は痛いだけだったマッサージも、今では不快にならないくらいには上達していた。

「ちょっとは」

 元基にした質問は、俺がこないだ面接の時に、学チカで訊かれたのをいくつか絞ったものだった。元基たちがどうして一年生の支援を行ったのか、質問を通して面接官が追っているのは、行動に対する一貫性なのかもしれない。質問を繋いで元基を形作る時、手に伝わる滑らかな曲線には、不自然な凹凸があってはいけないのだと思い知らされる。

 でも、と俺が言葉を紡ごうとすると、ドタバタと大きな足音が近づいてくる。

「おっす、おーっす!お疲れさーん!」

 勢いよくドアが開くと、出先の恰好で大樹と拓実が入ってきた。

「拓実うるせー」

「そんなこと言わへんで。ジュース買ってきたから」

 いくつかのペットボトルが入った袋を、拓実はゆっくりをテーブルに置く。

「最寄り駅で拓実と会ってな、コンビニ寄ったんだよ」

 俺たちにそう言った大樹は、中から一本抜き取る。

「ほな、ぼちぼち始めよか」

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