誠実 二〇二〇年 十月十九日 ①
二〇二〇年十月十九日
東京都感染者数七十八人
眠くないのに布団から出たくないのは、初めてだった。
今日は講義もなく(そもそもオンライン授業は基本、期限内までに課題を出せばいいだけだからすぐにやる必要もない)、午後四時からバイトがあるだけだ。だから八時までに(今はあれの影響で朝食が学年順になっている)食堂へ行き、午前中はだらだらするのが今年の過ごし方だった。
二度寝して起きたらいつの間にか十二時になっていて、昼食が朝ご飯代わりということはあった。よっぽどの用事がない限り、拓実も俺もお互いを起こすことはなく、たまに目覚ましがうるさいだのどうので小言が飛び交うくらいだ。
スマホをケーブルから引っこ抜き開く。ちょうど朝食の時間だ。部屋に人の気配がないから、拓実はもう食堂に向かったのだろう。
起きたら着替えて、飯食って、近いうちに提出しなければいけないESを二枚ほど書いて――、などと考えていると、どうしても体が動かなかった。
なんとなくスマホを開いたまま、なんとなくソシャゲのログインボーナスを消化していく。体と頭の歯車が噛み合うまでの時間を、頭を使わなくてもいい作業に従事する。
三十分ほど経っただろうか、廊下から近づいてくる足音が室内に侵入する。拓実が食堂から戻ってきたのだろう。いつもならそろそろ起きるかと、うるさくなるタイミングを見越して、二段ベッドから降りるはずだった。
だけど今日は、体の内側がベットに根を張ったまま動けずにいた。鼻を触ると、ねっとりとした皮脂が指につく。前から黒い角質が気になってはいたが、最近はめっきり怠っていた。
寝たふりを続けた。拓実は用事があるのか、歯を磨く音と忙しなく動く足音が同時に鳴る。俺は意味もなく耳をそばたてていた。
自分でも起きられないのが不思議だった。
ただ、ここから出なければ一日の何も始まらないことが、かえって心地いい感触を全身に宿した。何もしたくない時は、たまにある。そんな時は誰かの部屋でゲームをするか、この部屋で映画を観るか出かけるか、いずれにせよ布団から出て動くことはしていた。
昨日乾燥機にかけたばかりの鼠色の寝間着が温もりを吸って、肌身とどんどん同一化していく気がした。
昨日――、
ぺりっと皮がむける。
昨日、乾燥機の前で絶望したことを思い出した。
昨日、パソコンの前で項垂れたことを思い出した。
昨日、また面接がうまくいかなかったことを思い出した。
もし、このまま一つも選考が通らなかったら。もし、来年の本選考で内定が一つも出なかったら。
なんとかなると楽観的になれるほど、世の中甘くないことは世間知らずの俺でもわかる。
落ちていく求人率、中小企業の融資申込件数の上昇率。
通らない選考、新卒採用アプリで増えていく持ち駒と同時に減っていく持ち駒。
選考は一かゼロの二つしかない。例えばESを書いてWebテストを通って、面接をして、そこで落ちたら、違う企業はまたESを書くところから始まる。スタートラインに戻って何も成し遂げていない大学生のその小さな手に残るのは、誰にでもあるちっぽけな経験だけだ。
何もせず、何も考えず、意識を消失させて、夢の中だけが今は救ってくれる気がした。
何者でもないことを全く恥じらうことなく、持て余した時間の残りを数えなくてよかった頃が懐かしい。先のことを考えると必然的に鼓動が早くなる。
考えたくない。考えたくない。
俺はくるまった布団の生地を、大きく鼻を膨らませて吸い込む。
そうすると、とても安心した。
ぐらぐら、ひょい。
「一貫性がない……ですか」
自らの口で呟いたとき、なんとかバランスを保っていた全身の細胞がジェンガのように崩れ落ち、それらを順番もわからずただ無作為に組み立てる動作を連想した。吉川、という画面の向こう側の若い男性面接官は、そのブロックを抜き取ったことに罪悪感を覚えるふりをしてか、それとも原因となった俺の質問に困惑してか、最初に映ったときよりも頬の筋肉が重力に負けていた。
だが、最終日の最終タームに申し込んでも、真摯に耳を傾けてくれる面接官にその分応えたいという思いが不思議と湧いた。それは吉川が今までの面接官より比較的若く、経験の浅さもあってか、面接官としての仮面の下の把握が容易だったからかもしれない。途中から、俺はこの面接官が何を考え質問し評価するのか、訊く機会を窺っていた。というか、面接での逆質問の時間が尽きたことが最大の要因だった。
前の反省を活かし、想定される質問の解答を作ることで、ある程度淀みなく舌を回すことができた。それでも今日の面接ですぐに思い出せなかったものもあったが、今までの中では一番手応えがあった。
だからこそ、吉川の眉が惜しむような形に変化した時、バランスを繋ぎ止めていた木片の塔の重心が崩落した。
「一言で表すと一貫性がない」
それははじめ、公式のように聞こえた。俺の知らない公式。誰かに教わった気がする、けれど使い方がわからずにテストが返却された後、黒板に赤のチョークを使って書かれた記号と教師の説明を反復して、覚えようとした公式。俺が言葉にして、説明されて初めて公式の形を把握したときは、今まで点で見ていた星を星座として繋いだ感覚と似ていた。
「長所の質問で計画性を挙げてくれてて、ゼミ合宿の幹事を主体的に計画したことを成功体験でアピールしてくれたのは凄くよかったんだけど」
吉川の褒め方はエアバッグと一緒だ。次に、必ず衝突が、くる。
「短所が長所を霞ませているのが問題かな」
傷口の周辺をなぞる言い方は、直接触れていなくても痛かった。
また、くる。
青空から視界を溶かすような雨が降り、部屋の窓から色が溶けだしてモノクロになる瞬間、衝撃に備えて、椅子の縁を強く握った。
「話題がゼミ、ゼミで被ってるから長所と短所に一貫性が欠けていて、合宿の幹事もたまたまの成功だったのかと面接でも詳しく質問したんだよね。だから、『計画性と挙げてくれましたが、あなたのアピールポイントとして他の成功例はありますか?』って訊いたときに、最初すぐに出てこなくて部活の練習メニュー改善を挙げてくれたけど、もしかして一過性の長所を挙げたのかなと不安になった」
先ほどまで照明の下でてかてかと照らされていたネイビー色のスーツが、画面越しに黒く染まっていく。
「それで当社のインターンシップテーマを考えた時に――」
吉川の目線がずれた後、画面が切り替わる。ESを提出するためホームページを開くと最初に目につく文字だ。
「今年のインターンシップのテーマは知ってるよね?『誠実』なんだよ」
あの時のような色鮮やかさは、ない。
「もう少し自己分析で一貫性のある強みや弱みに対して、意欲的に見つめて欲しいかな。そうすると他の面接官にも小山くんは何が得意か、何を課題としているのかが伝わりやすいと思う」
ジェットコースターが急降下する直前のふわっとした感覚がしばらく続いた。
と、同時に夢を見ていたのだと気づく。この夢も、本当に夢だったらよかったのにと悪態をついた。
が、俺にとっては、現実こそが夢のようだった。
自分を地上に引っ張ってくれる人はいない。自分の経験が唯一の重石だから。
何を頼りにすればいいのかわからない。数式のような、あてはめるだけの間違いがないものは、既に崩壊しているから。
真っ暗闇で、自分がどこにいるのかわからない。あふれる動画と画像と文字の波に、自分の欲する魚は網の目をするすると抜けていく。代わりに、予想外の毒魚が網にかかって、いつの間にか内臓を傷つけていても、それすら気づかずに再び腹の中に毒を溜め込む。
ずっとずっと、ずっとだ。
たしかなものが欲しい。
公式が欲しい。
重力が欲しい。
自分の方角を教えてくれる北極星のような光が。
自分をある一定の場所に留めてくれる重力が。
思い切り叫びたくなった。虚空に向かって空気を腹から吐き出そうとすると、腰を下にして引っ張られた。下がどこかわかるのならば、それは夢の終わり、なはずだ。
「重力に引っ張られる瞬間が、現実を実感する」
と、真子は海藻の寝息が聞こえてきそうな海の近くのホテルで、そう呟いていた。飛行機が着陸する寸前に起きるような溜めが、体を底から浮かせる。
それは、意識の生誕を抑え込む意志にも感じられた。
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