誠実 二〇二〇年 十月五日 ③
「それじゃ、発表してもらおうか」
暗くなっていた部屋の一つが明るく切り替わると、さっき打った手の甲の血管がびくびくと反応した。
「とりあえず、Google Sheetsを共有しちゃうか」
全員の画面が上部に映され、真ん中には俺たちで打ち込んだ塊が、そのまま雅也さんの目に晒される。底に土がついたカゴの中で、ごろごろと果物が転がっているみたいだ。
「発表してくれる人は……お、健太郎か。期待してるぞ~」
さっきまでパソコンに食いついていた拓実たちは雅也さんの隣の画面でゆったりと腰を据えていた。こいつら……。
「私たちの考える『社会人の幸せ』は仕事とプライベートの好循環だと考えます」
大樹の言った循環は、仕事が終わってからも、一日の生活が途切れなく続く生活のことだと思った。退社してから、田園都市線に乗って帰り、アパートに着いてから夕食を作らなければいけないこと。残された少ない時間で、自分の勉強をしなければいけないこと。趣味の時間を確保したいこと。
「今回のターゲット層は二十代のインターネットに強い広告代理店で働く男性をターゲットにしました」
体をぐるぐると血液が巡るように、仕事とそれ以外の時間が二十四時間の中で循環していること。
「仕事面では二十代という年齢を考慮し、経験を積み重ねながら、裁量権の大きい仕事を徐々に任されるようになると考えます。自己成長することによって、仕事の生産性や評価が上がることが幸せに繋がると考えています」
二十分という短い時間で、俺たちは自分たちに近い社会人を作ることで、何回も自分の働く姿を想像しようとした。夏休みにあった、何回かの説明会にいた新卒担当社員のスーツ姿を思い出しながら、案を出していた。
けれど、働きに出た経験がない俺たちじゃ中身のあることはほとんど話せなくて、輪っかを作った手の中には何も無い状態だった。こんな根拠もない幸せなんて、一体誰が納得するんだ。全員がきっと内臓の奥底で、こんがり焼き上がるほど思ったに違いない。
「それ以外のプライベートの時間では、友人や恋人と楽しく過ごしたり、ジムに行きつつ休息をとって、仕事に備えます」
それでも全員が口にしなかったのは『こんなの意味が無い』と言うことこそ、意味が無いからだ。
雅也さんが俺たちをどう評価するかは、二十分の間でだけなんだ。だから、俺も、三人も、足りない頭を音が出るくらいフル回転させて話し合った。
「仕事とプライベートに分けたのは、社会人の時間がその二つに分類されるからです。その上で、例えばプライベートが充実しないと、仕事にも影響が出るのではないかと考えました。なので、社会人の幸せを考える上で、両方が充実した生活を送ることが不可欠だと話し合いで決まりました」
一度間を置き、言い忘れていることはないかぐちゃぐちゃの頭で確認していると、三人がうんうんと頷いていた。
「私たちの発表は、以上です」
吐息が漏れないように、言い終えるとマイクをすぐさまミュートにする。
「なるほどね」
雅也さんの声がどの音にも邪魔されず、二人のパソコンから重なって聞こえた。
「じゃあ、これでグルディスを終わりにします。お疲れ様でした」
パン、と雅也さんが手を叩くと、昇っていた血が疲労感に混じって降下する。
「お疲れ様でしたー!」
さっきよりも声が高い拓実が、グルディスの間ずっと落ち着いて喋るよう意識していたことに気づく。雅也さんは俺の発表中、一回も見なかったルーズリーフと画面を見比べながら、口を開く。
「俺からのフィードバックの前に、四人から感想聞こうか。最初は元気が残ってそうな拓実くんからで」
「いやいや僕ほんまにお疲れですよ」とキャップを開きかけたペットボトルを下に置く。
「グルディス初めてだったんですけど、雅也さんに言われたとおり、雰囲気を意識しながら進められてよかったです。オンラインって、二人以上の声が混じるとほんまに聞こえないじゃないですか。それってテンポがものすごく悪くなるし、時間制限あるから一人が集中的に話すわけにもいかなくて。誰が話したそうだなとか、この人今考えてる途中だなとか、勉強になることが沢山ありましたね」
「それ俺も就活中に同じこと考えてたわ。今めっちゃ喋りたいのに口挟めねーって。オンラインだと物理的に分断されてるから、どうしてもきついよな。あとは全体通して拓実くんが仕切ってたから、話し合いがスムーズに進んでるなと思った。そのへん慣れてる感じしたけど、ほんまに初めて?」
「ほんまですよ。それに、やってる最中意識したらいけないから、なるべく考えないようにしてましたけど、身内とこういう話するのはめっちゃ恥ずかしかったですね。喉の奥カァーってなりながら喋ってましたわ。なに話しとるんやー!って」
けらけら笑っている拓実に俺は内心頷く。自分が大真面目に『社会人の幸せ』を話し合っている姿なんて、本来なら雅也さんにはおろか拓実たちだって見られたくない。他人に裸を見られる気分だった。
「他はどうかな?元基くんとか」
元基は一度考えるように上を向くと、さっきと表情をまったく変えずに話す。
「いつもどおりって感じでしたね。雅也さんに言われたとおり、身内じゃなくて初対面の相手と話すつもりでやりましたけど、周りが話をうまく繋いでくれたんで、俺は自分の役割に意識できました」
「うん、多分一番落ち着いていた気がする。タイムキーパーの仕事も自分からやってくれてたしな」
元基は「それなんですけど」と少し背もたれにかかって、時間を計っていた時と同じように視線を落とす。
「実はZoomを起動させる前に、グルディスの役割について調べたんですよ。それでタイムキーパーってのがあって、俺でもこれならできるなと思って、準備してたんですよ。なんで、雅也さんが思ってるのとは少し違うかもしれません」
元基は細かい表情がわからないように、画面から遠ざかったんだなと直感的に思った。
「全然問題ないし、むしろポイント上がるよ。就活は準備が一番大切だからね。大樹くんは?」
大樹が指名されたから、俺は一番最後だ。ここが学校なら、一番最後は経験上悪いことが起きる可能性が大きかったから、雅也さんは何か言いたいことがあるのではないかと邪推してしまう。
「俺は拓実とは逆で、設定はあっても身内だから楽でしたね。ただ、俺が余計なことを喋ったせいで、テーマから少しズレたとこもあったんで、そこは反省してます」
「難しいとこだねー。大樹くんが思ってるほどズレてはないんだけど、今回のテーマは『売り上げを上げる』とか『顧客満足度を上げる』みたいな目的がないから、設定した条件の基での話し合いが前提になるんだよね。設定がもしかして間違っているんじゃないかっていう視点は、状況によって必要だから、気落ちすることでもないよ」
よほど反省しているのだろう。「わかりました」と大樹は難しい顔のまま頷く。さて、と間を置いた。
「健太郎はどうだった?」
大樹たちが話している間、俺も二十分間をもう一度思い返してみた。
「硬かったと思います。三人に比べて発言も少なくて、発表以外に特別目立ったことしてなかったですし」
「たしかに、思考と発言までの距離は三人よりも遠いなとは思った」
やっぱり、と視線を降ろす。自分がどんどん小さくなっていくように感じる。話し方、態度、役割、頭に浮かんでくるのはほとんど三人の誰かの顔だった。
「でも、それは悪いことばかりじゃないよ」
雅也さんの声は、やけにはっきりと聞こえた。顔を上げると、拓実たちが揃って頷いている。
「さっきのグルディスがいい例だけど、健太郎は他の三人と同じかそれ以上にテーマについて考えてた。だから、他の人の意図を素早く汲むことができたし、発表だって一番思考が洗練されていたから任されたんだよ」
一度置いたメモを、もう一度手にして見比べる。
「フィードバックになるけど、健太郎は三人の足りない穴をうまく埋めてたよ。拓実くんが雰囲気を作って話し合いを主導して、他の三人と案を出し合う。元基くんはタイムキーパーを、大樹くんは他の三人が思いつかない案を出して議論を活性化させる。健太郎も話し合いに参加しながら、三人の考えを汲んで足りない言葉を補足する。みんな初めてだったら、これは合格だよ」
合格、という言葉を聞いて、俺たちはほっとする。就活で嬉しいのは、いつだって他人からの評価だ。「何か他に聞きたいことある?」と振られたが、三人応えなかったので俺が手を上げる。どうでもいいことだから最後にしようと思ったが、まあいいだろう。
「このテーマにした意味って、雅也さんにはあるんですか?」
経験のない俺たちが、あえて『社会人の幸せ』を考える理由。雅也さんはこれをきっかけに、俺たちが働くことの何かを考えさせる意図があったのではないかと――、
「いいや、意味はないよ」
…………ないのか。
「意味はないけど、俺も去年同じテーマでグルディスやったから、じゃあ健太郎たちはどうやって進めるんだろうなーって思ったんだ。でも、去年の俺よりずっとまともだったから安心したよ」
いやいや、と俺は内心で否定する。雅也さんが内定をもらった企業は、日本有数のメガバンク、そして大手証券会社だ。イメージ通りのオフィスビルを構える企業の看板を背負っているような人が自虐しても、あまり説得力がない。
「喋ってる間にまとめたフィードバックのファイルを健太郎のLINEに送っといたから、終わったら四人に転送しといて。大樹くん、明日グルディス頑張ってなー!」
「頑張ります!」
大樹は明日だが、俺も明後日の午後には同じようにグルディスに臨まなければいけない。今日のことは忘れないでおこうと思っていると、不意に現れたリンクにマウスが動いた。
ほぼ無意識で開いたファイルには細かく今日のことが書かれていたが、最初に指が反応した部分は、雅也さんが講評中に話さなかった箇所だった。
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