誠実 二〇二〇年 九月十九日 ①

    二〇二〇年 九月十九日

    東京都感染者二一八人


「検温とアルコール消毒にご協力お願いします。お手数ですが、マスクをずらして検温器の画面に顔を近づけて頂きますと、反応しやすくなります」

 暑さが抜けきらない夜の空気と一緒に入ってきた男女四人組の大人たちは、マスクを外すことに一瞬の躊躇いを目で示しながらも応じてくれた。どうせ飯食べるときは外すんだから気にしなくてもいいじゃないですか、と内心で毒づきながら、俺は営業スマイルを続ける。

 四人席を残しておいてよかった。俺は入って右奥にあるソファー席に彼らを案内する。二つ左のテーブルの片付けをする俺と入れ替わりで、ホールスタッフの佳穂さんがお冷やとおしぼりを運ぶ。佳穂さんは俺がここでバイトする前からいる大学四年生で、季節が変わるごとに髪色や髪型、メイクも変わる。最近は明るい茶髪に赤メッシュを入れていた。

 大皿はデザートの提供前に下げたので、片づけるのはドリンクとデザート皿だけだ。トレーに乗せた後にアルコールをテーブルに吹き付け、念入り(と思われるよう)に素早く拭く。拭き残しがないか一瞥して、カウンターに戻る。

 グラスとお皿、紙類のゴミに分けて処理するのはホールの仕事だが、手が汚れるから一々アルコール消毒を行わないといけない。俺は単に面倒くさいだけだが、佳穂さんは「手が荒れるんだよね~」とふわっとさせた髪をゴムでまとめながらぼやいていた。

 以前よりも業務の種類は確実に増えた。それは、客足を増やすために行う業務ではなくまったく別のベクトルだが、怠ることはできない。それが全体の業務効率に影響するかと言われると、元々客足が遠のいたせいもあって最近までは響くことはなかったが、九月に入ってからは席が埋まってきたのもあって、今までなかったミスがぽつぽつ起きている。特にシルバーウィークのランチタイム・ディナータイムは、ずっとホールが動かなくてはいけない。客の数は三月の緊急宣言発令前の八割くらいだが、感覚がずれていたせいで以前よりもどっと疲れる。

「健太郎、デザートとコーヒーのスプーン、出すとこ間違えてるよ。それは皿とかの洗い場ね」

 後ろにいた雅也さんがスプーンをひょいと摘まんで、持っていく。

「あ、すみません」

 ん、と雅也さんは頷くと、さっき案内した客の注文を取りに行った。時計を見ると八時十分前。ラストオーダーまであと三十分だから、足の指に力が入る。

 今のバイト先である下北沢の洋食レストランで、俺が働き始めたのは去年の三月だった。俺にとってゼミをきっかけにして仲良くなった雅也さんは、大学での数少ない先輩だ。雅也さんと飯を食べていた時、当時バイトをしていた居酒屋でシフトが合わないと愚痴をこぼすと、「三月に何人か卒業して人が足りなくなるんだけど、健太郎入る?」とここを誘ってくれた。「行きます!」と二つ返事で入ったバイト先は、まかないが美味しくて、人間関係が良好(なときがほとんど)で、電車の乗り換え無しで行けて、バイト代が前のバイト先と変わらない好条件だった。ちなみに、ごく稀に人間関係が良好でない時は、ここの店を経営している夫婦の仲が悪くなった場合くらいだ。そういう時、俺たちは将来職場が一緒の人とは絶対に結婚しないと思いながら、足を動かしている。

 ホールの業務をする時は、何を優先的に処理するのか、頭の中で整理しながら全体に目を向けなければいけない。優先度が高いのは、料理の給仕、席の案内、会計処理、注文をとる、片づけ、の順だ。料理が冷めてしまうと来てくれた人たちの満足度が下がるし、席の案内も待たせてしまうことが悪になる。片付けのような直接接客とは関係ない業務は自然と優先度が落ちるが、片付けも他の処理速度に関係するので、怠ることはできない。あくまで順番という序列なのだ。注文をとって、料理を運び、会計をした後片付けをして、再び案内をする。スタッフの俺は、店のために回り続ける歯車となることだ。

 最近は店内の会話が増えて、雰囲気も少しずつ以前と変わらなくなってきた。それがいいことだと思いたいけれど、いつ見えない爆弾が爆発するかわからないから怖い。今の店内の雰囲気は、ぎりぎりのところでバランスを保っているのだ。

 検温、消毒、ソーシャルディスタンス、長時間の滞在を控えること。

 本当はテーブルの間に仕切りを引けばいいのかもしれないが、店主の伸行さん含め店の雰囲気を損なうと判断して、テーブル間のスペースを空けることで対策をした。

「ごちそうさまでした」

 今、俺の目の前で財布を開いている中年の夫婦は、以前からの常連だ。今日彼らの顔を見て、最近彼らが来てなかったことを思い出した。馴染みの顔を見てマスクの下で少し口角が緩んだ。

「いつもありがとうございます!」

「久しぶりに来たけど、やっぱり来てよかったね」

 彼らは目元を細める。美味しいものを食べると笑顔になるのは、いつだって変わらない。

「お会計五千五百円になります」

 外に出るとき、彼らの顔に緊張感が張り付く瞬間を目にする。

 自分たちが出かけることで、罹患するんではないか、という怖さが、店を出るときに表れている。今でも程度の差こそあれど、実際に病気に冒されていなくても頭の中の何割かはウイルスのことで埋まっている。

 それでも店に来て、喜んでくれる人がいるなら、伸行さんは時間を短縮してでも店を開けたいと前に俺たちの前で言った。そもそも、収入がなければ生きていけないのだから、間違ってはいない。

 不安定で足元がぐらぐらする。俺はトレーに載せているビーフシチューを溢さないように、足元をしっかり踏みしめた。

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