誠実 二〇一八年 五月三十一日
二〇一八年 五月三十一日
その日は俺と拓実と大樹で受けていた三限の講義が休講になり、昼食をとった後は寮で麻雀をする予定だった。この頃は大学生活にも慣れてきて、どの服を着ていこうかと悩まなくなり、ある程度の雑さと服装の軽さが心地よかった。
「今日一番負けた奴、明日のラーメン奢りで」
「えー、明日も行くのかよ」
大学寮は渋谷から一つ離れた駅から、住宅街の細い道を右に抜けたところに位置している。寮の前を通る路地の太さは車一台分で、よく宅配のバイクが通るから避けるのに少し苦労する。
「当たり前や。めっちゃ上手くて全メニュー食べたくなるやん。元基も連れてこ」
元基はサークルの同級生とやることがあるらしく、二限が終わった後いそいそと出ていくのを見て、「彼女じゃね?」と大樹が訝かしんでいた。
「俺は正直微妙なんだけど……、何あれ?」
大樹が何かに気づいて指を前に出した先、曲がり角の前で黒猫が横たわっていた。
「……猫だ」
認識したと同時に、嫌な予感がした。頭の中でチリチリと焼けついて足が速まる。それは黒猫が不吉だからではなく、テレビやスマホの動画で観る可愛らしい猫とは明らかに様子がおかしい。近寄ってみると思わず、胃の中が逆流しそうになった。体毛の一部が血で汚れていて、左後ろ足の肉は潰れて鮮やかなピンク色になっていた。
俺が真ん前に膝をつくと、はじめて黒猫が反応した。生きている。だが、震えながらゆっくりと立ち上がっても、後ろ足を怪我しているのでゆっくりとしか動けない。
「バイクか自転車に轢かれたんや」
後ろで顔を歪めた拓実が静かに呟いた。助けなくちゃ。俺だけじゃない。拓実も大樹も同じことを思ったはずだ。猫は今すぐ死ぬ訳ではなさそうだが、傷口の見た目と出血が酷い。病院に行って治療を受けないと、一時間後には冷たくなってしまうかもしれない。人間とは違い、相手の状態を確認するのに意思疎通もできない。
だが、俺たちの誰も、猫の前から動けなかった。助けなくちゃ、という声が内側で反響し続けているのに、ズボンの上から太股にめがけて長いペグを打ち込まれたようだった。拓実も、大樹もそうだ。頭の中をずっと走り続けている焦燥感の本当の正体に気づく。どうしたらいいのかわからないんだ。
動物病院に運ぶ?どこの?まずは止血が先じゃないのか?猫の止血ってどうやってやるんだ?そもそも病院までどうやって行けばいい。徒歩?遅すぎる。自転車?それだと猫を安全に運べない。車?夏休みの免許合宿に、こないだ申し込んだばかりじゃないか。
「どうすんのこれ」と言った大樹の様子は明らかに狼狽していたが、俺も拓実も内心は似たようなものだった。焦ってばかりで何から始めたらいいのか、多すぎて困っている状態だ。だが、今目の前で動いているのかどうかもわからない猫の脚から、血が少しずつ道路に染みだしていた。
「おーい、道路真ん中で何やってるの?」
こんがらがっている三人の間を野太い声が飛び込んできた。振り返ると元基が手を振って俺たちの後ろにいた。その横には俺たちと同じ歳くらいの女子大生が並んでいた。
細い路地の真ん中で大学生三人が道にたむろしていれば、他の通行人が不思議に思うのも無理はない。知り合いでもないその女子大生も、最初は少し困ったように俺たちを見ていた。しかし、俺が立ち上がって元基に説明しようとしたとき、その女の目つきがびっくりするほど変わった。
「何やってんの!」
有無を言わせぬ切迫した態度が、俺たちの体めがけて氷水を一度ぶっかけた。彼女は俺の横を過ぎると、しゃがんで猫の様子を確かめていた。
「俺たちがやったわけじゃ……」
「わかってるよ!そんなことくらい!」
大樹は彼女に猫の怪我を疑われていると思い口を開いたが、ぴしゃりとはね除けられた。
「元基くん、今日寮長さんがいるって言ってたよね?彼は運転できるの?」
そうか。そうればよかったのか。
元基はいきなりのことで何回か瞼をしばたかせていたが、やがて意味を理解したらしく首を縦に振った。
「じゃあ、寮長に車を出してもらえるか確認してきて」
「わかった」
彼女が指示を出した瞬間、すごく安心した。俺の中に渦巻いていた混濁を一気になぎ払った。
俺は下唇を強く噛みしめる。
同時に、空いたそのスペースを今度は後悔の波が頭をいっぱいにした。
――何やってんの!
彼女は俺たちにこう言いたかったんだと思う。
『なんで何もしないの!』
動かなくちゃいけない時に、なにもできなかった。できないなら、スマホでもなんでも調べればよかったんだ。失敗とかそういうレベルの話じゃない。現に彼女だってスマホで地図アプリを開いて、動物病院の場所を探している。
何かしなくちゃ。何かしなくちゃ。
「あの!」
俺は初対面の女の子に出したことのない声量で呼びかける。彼女の肩がびくっとした。
「俺は、何をすればいい……かな?」
言い切ったあとに俺がはっとして目を逸らしたのは「それくらい自分で調べろよバカ!全然反省できてないじゃないか!」と冷静に頭に声が響いたからだ。
「じゃあタオルと、ビニール手袋を持ってきて。さすがに一回は車の前に動かさないと、人も通るだろうし」
俺は何も言わず、寮へと駆け出した。
もし彼女が来なかったら、俺は猫のことがどうなろうが、拓実たちと麻雀しながらサッカーでも観て、二時くらいまでゲームをして次の日になったら今日のことは俺たちの話題にも上ってこないだろう。少しだけ燻っていたとしても、三日も経てば忘れてしまう。だけど、目の前であんなに必死な人の姿を見て、そうじゃない自分との落差が心臓を強く鳴らした。
歯をぎゅっと噛みしめる。
彼女が自分とほとんど変わらない年齢や、医者でも獣医でもなんでもないところ、そういうのを考えると、口の中で血の味がした。
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