誠実 二〇二〇年 九月十九日 ②

 ノックをすると、通りのいい佳穂さんの声がドア越しに聞こえた。

「お疲れ様でーす」

 バイト先のスタッフルームは、一つの部屋をアイボリー色のカーテンで二つに分け、男女の更衣室になっている。ただ、仕切るためのカーテンが空いていることが多々あり、入るときは一応ノックをするルールがある。

「お疲れ様ー」

 開いたカーテンの向こう側では、着替え終わった佳穂さんがぎしぎし音と鳴る古椅子に座ってスマホをいじっていた。

「佳穂ちゃん、伸行さんからシフト貰ってきたよー」

 俺と一緒に上がった雅也さんが、佳穂さんにシフト表を渡す。スタッフ全員が入っているグループLINEでもシフト表は送られてくるが、前もって欲しい人には二日前あたりからもらえる。紙でもらう人は、純粋に紙でもらいたいというやや変わったこだわりを持つ人か――、

「げ、頼んだ日より二日減ってる。もう少しお願いしてみようかな」

 佳穂さんのように、シフトが決定する前に改めて相談するパターンだ。

「佳穂ちゃん入れすぎ~。何日入れたの?」

「週五よー。当たり前じゃん」

 入れすぎ~と再び苦笑する。店は週六日営業なので、佳穂さんは大島夫妻に続く連勤スタッフになる。佳穂さんは美容代をどうやって捻出しているのだろうと前に一度思ったが、このシフトを見てすぐに納得した。

「だってさ、前は九時半ラストオーダーで十時閉店だったじゃん。単純に労働時間減ってるし、だったらもっと入れたいんだよね」

「たしかにな」

 コロナが他人事ではなくなった三月や、緊急事態宣言が発令された四月から六月にかけては売り上げが七割以上落ち込んだ日が続いた。その影響はシフトにも及び、週四日で入れていたシフトが週三、二日となり、週一日にまで減った週もあった。ゴールデンウィークにまで延長した春休みも、外には出れず、バイトにも行けずで、ひたすら退屈潰しを探していた。佳穂さんのように卒業が近いと、新しいバイト先を探すことも億劫だ。

「バイト代、何に使ってるの?」

「推しのスパチャ」

「え?」

「意外っすね」

 スマホやパソコンの前で色とりどりのスーパーチャットを投げている佳穂さんは、あまり想像できなかった。

「最近はYouTube観た方が楽しいんだよね。まあ、あとは身なり整えたり、旅行もこないだ行ったかな」

「今行けんの?」

「二人ならそこまで問題じゃないでしょ。GOTOキャンペーンだってやってるじゃん。沢山行けって行ってるようなもんでしょ」

 政府が出したGOTOキャンペーンは、旅行会社やオンライン飲食サイトを経由して割引やクーポン券がもらえる政策だ。キャンペーンには『Eat』、『Travel』、『Event』、『商店街』などがあり、佳穂さんが言ったのはおそらく『Travel』の方だろう。

「あーはいはい、彼氏自慢いいから。さっさと別れて」

「こいつぶん殴っていい?」

 まあまあと苦笑しながら、こないだ北海道のお土産で佳穂さんからもらった菓子の味を思い浮かべる。あのフロマージュは舌触りが滑らかで、かなり美味しかった。

「健太郎も来週彼女と旅行でしょ。京都だっけ?」

――どうして……。

「……そうっすね」

 最近、真子のことが心配でたまらなくなるときがある。

「真面目な話さ、旅行だろうが近所の買い物だろうが、マスクして人混み避けて、店入ったらアルコールして室内に入ったら手洗いうがいすれば問題ないじゃん?ていうか、それ以外で個人ができることってないよね?」

 俺と雅也さんは顔を見合わせて、考え出してみた。

「不要不急の外出を控えるとか?」

「今日はラストオーダーまで人並んでたよ」

 そう言われてしまうと、俺たちは唸るしかなくなってしまう。

「働いているあたしが言うのもあれだけどさ、あれだけコロナコロナ言っているのに、よくみんな来るよね。シルバーウィークだから仕方ないけどさ、最近増えすぎ」

「店的には売り上げが戻ってくるわけだから嬉しいじゃん」

「そうだけどさ……、めっちゃ疲れる」

「今日靴擦れしちゃってさ」と佳穂さんは腰を曲げて足に触れる。

「佳穂ちゃんだけじゃないよ。みんな、疲れてるんだよ」

「我慢することに、ですか?」

 雅也さんは肩を竦め、コックコートを衣服カゴに投げ入れた。

 雅也さんの言う通りかもしれない。覚えているのは、三月の辺りからだった。三月の時は、緊急事態宣言が終わったら大丈夫だと思っていた。春学期が始まってからは、夏休みが終わるまでにはと思っていた。今はクリスマスまでにと思っているが、多分難しいだろう。これまで何かを無期限に制限される経験はなかった。近い覚えがあるのは、受験の時。最近だと、就職活動がそれに当たる。

 一週間経って、一カ月経って、三ヶ月経って、半年が経っても、視界を遮る霧はますます濃くなり、全体像を知っている人はほとんどいない。

 終わりが見えない徒労感は、どんなものであっても心身にダメージを蓄積させる。それを自覚するときは、本当に些細なことでだ。

「あたしも、最近ニュース観たくなくて、部屋にあるテレビのコンセント引っこ抜いたんだよね。でもさ、ネット開くと今日の感染者とかTwitterとかで流れてくるじゃん。その顔を弟に見られて喧嘩になった」

 ニュースで感染者が増えたのを観たとき。

「いや、見られたくらいで怒るなよ」

 駅前の飲食店のシャッターがいつもの時間になっても閉まっていたとき。

 ふと大学に行きたいと思ったとき。

 不自由さが嫌になって思わず空を見上げる日は、いつも憎たらしいぐらい青い。

「だってあいつ『生理?生理?生理?』って大学一年生にもなって訊くんだよ。バッカじゃねーの」

「はいはい、大変だね。てか、佳穂ちゃんは店でたくさん働きたいのか、お客さんには来てほしくないのか、結局どっちなの?」

 バイト中に暇を持て余すことなんて、今までほとんどなかったけど、同時に出勤回数も目に見えて減った。

「知らないよ。そんなの、コロナが早く治まれば全部解決するんだから、どっちなんてないでしょ」

「そうっすよね」

「ははっ。たしかに」

 全然客来ないけど大丈夫かなとか、マスクが蒸れて嫌だとか、友達と集まって遊びたいとか、大学に行きたいとか、本当は当たり前にあったはずで、こんな話を今まですることはなかった。だから、一日でも早く頭の中から消えてほしい。

「あんた達さっさと着替えて。雅也がコンビニ行くって言ったのに、早くしないと閉まる」

 はーやーくー、と退屈そうに椅子をぎしぎし揺らしていた。

「コンビニは閉まんないって。ほら、健太郎も早く着替えろ」

雅也さんに急かされ、俺もようやく着替え始めた。

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