第2話
「オギャー!オギャー!」
暗闇からゆっくりと意識が汲み取られていく。
「オギャー!オギャー!」
どこからか赤子の泣き声が聞こえてくる。
「オギャー!オギャー!」
やがて、俺はその泣き声が自分の喉から発せられていることを自覚する。
「オギャー!オギャー!」
起きあがろうとしても、体が思うように動かない。
きっとまだ筋肉が発達していないからだ。
「オギャー!オギャー!」
俺はただ泣くことしかできない。
そうか。
俺は本当に転生したのか。
夢だと思っていたあの白い世界での出来事……天使の少女との会話は現実だったのだ。
とするとここはすでにファンタジー世界…?
魔法やモンスターが存在する異世界なのだろうか。
わからない。
ともかく今の俺には…
「オギャー!オギャー!」
泣くことしかできないようだ。
異世界に転生して半年が経った。
赤ん坊の脳みそというのはすごい。
目に入る光景、耳に入る音をどんどん吸収していく。
精神自体は元の世界……25歳の社畜だった頃のものを引きづいているだけに、少し違和感があるが、けれど俺は生まれたての赤ん坊の脳みその柔らかさで、周囲の人間たちの会話からこの世界の言語、知識などをどんどん吸収していった。
おかげで半年が経過した現在、俺はこの世界の言葉を完璧に理解するようになっていた。
「おぎゃあ!!おぎゃあ!!」
「あらあら、どうしたの?アリウス」
アリウスこと俺が泣き声を上げると、すぐにこの屋敷で雇われている使用人……メリダおばさんがやってきた。
すでに言語を習得してはいるが、発音がまだできない。
それに生まれて半年の赤ん坊があんまり喋っても怖がられるため、俺はまだ泣き声しか上げないことにしていた。
うんこ、おしっこも25歳の精神なので我慢できるのだが、わざと漏らしている。
普通の赤ん坊じゃないと疑われるのはまずいからだ。
「はぁい。今おむつを変えますからねぇ」
「おぎゃあ!」
メリダが俺のおむつを変えてくれる。
メリダはこの屋敷に仕えている使用人だった。
屋敷にはメリダを除いても他に十人以上の使用人がいる。
…ここまでいえばお分かりだと思うが、そう、俺は普通の家の子供に赤ん坊として転生したわけじゃない。
それなりの土地を持つ支配階級……領主の元に息子として生まれたのだった。
父親の名前はアイギス・エラトール。
エラトール家は今代で3代目のまだ若い貴族だ。
領地もまだ少ない。
それでも八万人の領民が領地内で暮らしている。
そんなエラトール家の長男坊として俺は生まれた。
順当にいえば、俺はそのままこの家を継ぐことになりそうだ。
「おぎゃあ!」
「はぁい。オムツ替え終わりましたよぉ」
メリダが俺のうんこつきおむつを片付けてくれる。
俺はお礼代わりに一声泣いて、それから目を閉じて寝たふりをする。
「はぁい、おやすみなさい」
メリダが安心したように向こうへ行った。
俺は目を開けてから考えに耽る。
正直いって魔法のあるファンタジー世界に転生すると聞いた時かなり不安だった。
それは、あまりに貧しすぎる家に生まれてしまい、すぐに死んでしまうのではないかという危惧だった。
ファンタジー世界は、魔法がある代わりに科学は発達していない、というのがお約束だ。
俺がイメージしていたのは中世ヨーロッパの世界。
実際そのイメージ違わず、この家の内装も、歴史の教科書で見るような古めかしいものだ。
まだ屋敷の外に出たことないが、おそらくこの世界は前の世界よりも明らかに科学技術の発展という面で遅れている。
庶民たちは前の世界の一般人と比べて遥かに貧しい生活をしていることだろう。
よってもし生まれが悪ければ、前の世界よりも酷い生活を強いられる可能性があった。
だが、幸いなことに俺はこの世界でもかなり裕福な貴族の家の子供に生まれた。
思い出されるのはあの白い世界で出会った天使の少女の言葉。
『私は個人的にあなたが気に入りました』
『なので少しサービスしておきました』
もしかしたらあのサービスしておいたという言葉は、俺が貴族に生まれたことだったのかもしれない。
俺がこの世界で幸せな生活を送れるようにあの天使の少女が比較的裕福な貴族の家の子供にしてくれた可能性は十分にありうる。
「あいあえぇ(ありがてぇ)」
この厚意は生かさないとな。
魔法の存在するこの世界で、俺は幸せな第二の人生を送るんだ!
魔法とかも、早く使ってみたい…!
「おぎゃぁ…」
…うむ。
とりあえず今は歩けるようになるのを待つしかないな。
三歳になった。
「あら、アリウス。また本を読んでいるの」
「はい、そうです。お母様」
俺が今日も今日とて父の書斎に忍び込んで本を読んでいると、母親であるシルヴィア・エラトールが様子を見にきた。
シルヴィアは背が高く、ボンキュッボンの絶世の美女だ。
金髪碧眼、まさにゲームの中に出てきそうな貴族の見た目をしている。
そんなシルヴィアの遺伝子を引き継いだのか、俺自身も金髪碧眼の美少年に育ちつつある。
正直いって父親の方はあんまりいい顔とはいえないから、母親似で本当に良かったと思っている。
「アリウスは賢いわねぇ…まだ三歳なのにこんなに読書家だなんて」
「えへへ〜。アリウス偉い〜?」
「偉い偉い。なでなで〜」
「えへへ〜」
シルヴィアに撫でられ、俺はニコニコと笑った。
年相応の反応ってやつだ。
三歳という言葉を喋っても不思議はない年齢になって、ずいぶん過ごしやすくなった。
それまではうっかりしゃべったり、知らないはずの知識を披露したり、年不相応の振る舞いをしてしまわないようにずっと気を張っていたからな。
おかげで両親や使用人たちには、俺の精神年齢が本当は25歳であることに一切気づかれていない。
今日の今日まで、俺はずっと演技を続けてきたのだ。
「偉い偉いアリウスちゃんは、何の本を読んでいるのかなぁ〜?お母さんに見せてごらん?」
「えっとねぇ、れしき、の本!」
「うふふ。アリウス。れしき、じゃなくてれきし、でしょう?歴史」
「れしき!」
「うふふ。可愛いわねぇ」
俺がわざとしている言い間違いに、シルヴィアがコロコロを笑う。
完全に俺のことを褒められたくて本を広げている三歳児だと思っているな。
まぁ、これでいい。
三歳児があんまりかしこすぎても親としては不気味に思うだけだろうから。
「わあ、アリウス。魔法の歴史なんて読んでいるの?偉いわねぇ。でも難しいでしょ?」
「うーん…よくわかんないけど…でも、面白い!」
「うふふ。そっかそっか。わかんなくても、読んでるだけで偉いでちゅよ〜」
シルヴィアがころころと笑う。
実際にはもちろん俺は本の内容をしっかり理解して読み進めていた。
今読んでいるのはこの世界の魔法の発達に関する本だ。
どのようにして魔法が生み出され、今日まで発展してきたのか、その歴史、軌跡が記されている。
将来魔法を使いたい身としては、こういう知識も大切だ。
この世界にはとにかく娯楽がない。
テレビや漫画はもちろん、子供用のおもちゃすらほとんどないに等しかった。
おかげで俺にできることといえば、本を読み漁ることぐらいだ。
すでに書斎にある本の半分ぐらいは全部読んでしまった。
この世界に関する常識も、だいぶ身についたと思っている。
「あのね、あのね、アリウスはね、将来は魔法使いになるの!」
「あら、そうですか!それは楽しみでちゅね〜」
「うん!すっごい魔法使いになりたい!」
「なれますよ〜。アリウスならきっと」
シルヴィアが無邪気な俺に微笑む。
だが、俺にはちょっとした危惧があった。
それは、大きくなれば俺が確実に魔法を扱えるようになるとは限らないということだった。
この世界において魔法を使えるのは一部の選ばれた才覚のみだ。
魔法の才能の有無を判定するのは、五歳の時に行われる洗礼の儀式。
その儀式は、教会で執り行われ、魔法の素養を押しはかるのだ。
まずは体内の魔力量。
魔法を発動するには、体内の魔力と呼ばれるエネルギーが必要であり、これがある量以上に達していなければそもそも魔法を発動できない。
さらには魔法には属性というものがあり、魔法使いは自分に適性のある属性の魔法しか使えない。
大抵の魔法使いが一属性のみの適正で、まれに二属性に適性のあるダブルと呼ばれる魔法使いも存在するらしい。
ちなみに3属性に適性を持つトリプルに至っては、国に数人いるかいないかというレベル。
4属性以上使える魔法使いは歴史上で数人という規模だった。
そして忘れてはならないのが、魔力量が足りていてもどの属性にも適性が現れない者も多くいるということだ。
つまりは、この世界で魔法を使うには、まず魔力が十分であること。
それから何らかの魔法属性に適性があることが求められる。
この二つの条件を満たすものだけが、魔法使いになれるのだ。
なので俺が魔法を使えるかどうかはまだ未知数。
五歳の洗礼の儀まではわからないのだ。
「魔法使いになったらね!お母様、お母様」
「うんうん、聞いていますよ!」
俺は魔法使いになる条件を知らないふりをしてシルヴィアにあれこれと年相応の妄想話を聞かせる。
シルヴィアはニコニコと笑って、俺の話を聞いていた。
あっという間に五歳になった。
その日、屋敷には緊張した空気が漂っていた。
「いよいよだな…」
朝。
屋敷の玄関の前で緊張した面持ちでそう漏らしたのはこの俺、アリウス……ではなく、父のアイギス・エラトールだ。
今日は待ちに待った洗礼の儀式の日。
今日この日に、俺に魔法の才能があるのかどうか、判定が下るのだ。
「大丈夫、私の子だ…きっと魔法使いの素養があるに違いない…」
「あなた…そんなことを言うとアリウスがプレッシャーを感じてしまいますよ」
「む、そ、そうか…すまない…」
表情をこわばらせるアイギスを、シルヴィアが嗜める。
父であるアイギス自身は、火属性に適性のある魔法使いだった。
また母親のシルヴィアも、光属性に適性のある魔法使いだ。
魔法使い同士の子供は、魔法使いの素養を持って生まれることが多いそうだがしかし確実ではない。
領民から尊敬される領主の条件として、魔法使いかどうかと言うのも大きく関わってくるだけに、アイギスはどうやら俺に一端の魔法使いになってほしいらしかった。
それゆえ、今日この日は、洗礼の儀式を受ける張本人の俺よりもかなり緊張しているようだ。
「お父様。きっと俺には魔法使いの素養があると思います。期待に応えてみせます」
「お、おう…!頼んだぞ、アリウス!」
あまりに緊張していて見ていられなかったため、俺はアイギスにとりあえずそういってみた。
するとアイギスも幾分か安心したような顔になる。
「アリウス。たとえ魔法の才能がなくたって、アリウスは大事な大事な私たちの子供なんですからね?だから…わかるでしょう?」
「…」
シルヴィアの言わんとすることはわかる。
たとえ魔法の才能がなくても落ち込むな。
そう言いたいのだろう。
シルヴィアは薄々俺が父の期待などを抜きにして魔法使いに憧れ、なりたがっていることに気づいている。
だからこそ、魔法使いの素養がないと分かった時に俺が落ち込まないかどうか心配なのだ。
「ありがとうございます、お母様。そういってもらえて、とても光栄です。もし、魔法の才能がなかったときは……県の道に進むことにします」
「ええ、そうね。それがいいわ」
俺が、魔法の才能がなかった時のことも覚悟していることがわかって安心したのか、シルヴィアがため息を吐いた。
「よし、それじゃあ、行くぞ!」
アイギスが待ちきれないといったように歩き出す。
俺とシルヴィアもそれに続いて屋敷の外に出る。
「「「「行ってらっしゃいませ」」」」
背後で数人の使用人たちが、深々とお辞儀をした。
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