第15話 夢見と逆夢
どうしよう。どうしようどうしようどうしよう。
逃げていた際に何処かにいってしまったのか、それすらも気が付かないうちに、晒された足に食い込んだ石や枝が踏み出す度に劈くような痛みを齎すので、目尻に浮かぶ水玉が一層大きくなる。
それでも立ち止まれないのは、此処で止まる事が生命の危機に直結する行為だと、知識ではなく、感覚ではっきりと解るからだ。
足が動かなければ両手で、それでも無理ならこの身体ごと、兎に角、決して止まる事だけはしてはいけない、と。
いつからか降っていた雨は、消耗した身を益々弱らせていて、何で、こんな事に、そう泣きじゃくりたくなるけれど、もうそれすらも出来ずに、薄暗い森の中をただひたすらに、走る。走る。走る。
何処まで行けばいいのかと、考える事も出来ない、ただ、本能のままに駆けるこの暗闇は、月明かりすらも許さない森に覆われていて足元は覚束ず、時折木の幹や大きな枝葉に阻まれ躓いて、みっともなく地面を転がっては、また傷を作っていくのだ。
だれか、たすけて、どうして、なんで、こわい、おねがい、こわい、たすけて、おねがい、そう、何度繰り返したかも解らない言葉を口に含んだまま、また足を取られて両手を地面に叩き付けると、泥が跳ねた頬に鋭く痛みが疾った。
恐らく躓いた拍子に蹴飛ばした小石が飛んできたのだろうが、それすらも得体の知れない何かのせいの気がして、全身がびくり、跳ね上がる。
背後から幾重にも響いてくる足声は、雨音にも搔き消される事も無くはっきりと鼓膜を震わせ、それはまるで覆い被さるように、冷たく体温を奪いながらじわりと恐怖を齎すので、正気を保たせる事さえ難しい。
震える唇を噛みしめながら、痛みがあるのは生きている証拠だ、と搔き集めた知識で消え行きそうな意識をどうにか震え立たせている有様だ。
爪の中に食い込んでいる土が悲鳴を上げそうになる程に痛く、それでも立ち上がる為に爪を立てた地面は、どういう訳か、ぐらりぐらり、揺れていて、嗚呼、とうとう限界がきてしまったのか、でも、まだ、待って、せめて、もう少し、と回転するように、地面にめり込んでいくように、遠退いていく平衡感覚は、やがて、冷たく滑る土の感触と一緒に消えて行く。
このまま、冷たい冷たい泥の中に埋まって、溶けていってしまうのだろうか……、そう考えた時に、響いたのは、声。
「おおい、お前さん、夢を見ているな?」
声にならない悲鳴を上げて、振り返る、が、其処には何も無い。
それどころか、今自分自身が何処にどう立っているのか、それとも横になっているのか、宙に浮いているのかも解らずに、辺りを見回した。
此処が光の届かない程の暗闇である事は、解る。
けれど、たった今感じていた地面のまとわりつくような泥の感触も、その冷たさも、食い込んだ石や枝葉の痛みも、何故だか感じなくて、呆然と虚空を見つめていた。
聞こえた声は男性のもので、間違いなければ、随分と年齢を重ねた者なのだろう。
妙に頭がぼんやりとするのは、此処が彼が言う夢だからなのだろうか。
「夢……、此処が?」
問い掛けると、声の主は、質問に質問で返すのはよくねえなあ、と、行儀の悪そうな言葉遣いで、ぺたりぺたりと音を立てている。
近付いてきている、と理解はしていたけれど、何故か今まで感じていたあれ程感じていた恐怖は一向に訪れる事はなく、更に問い掛けた。
「今までが夢で、こちらが現実ではなく?」
「いやいや、どちらも夢さ」
まるで悪びれた様子も無く、男の声は笑みを含んだ音でそう返したので、喉に詰まっていた息がどっと吐き出され、じわりと滲み出ていた涙が頰を伝っていく。
ゆっくりと呼吸を繰り返し、思考を展開していくと、ぼんやりとした記憶が流れ出してくる。
自分の名前は、フィーネ。
そして自分は、アステリアスの新しい服を手に入れた後、身体を休める為に眠ったのだ、と。
そう一つ一つ確かめるように思い出した記憶の欠片達を寄せ集めていくと、先程のものが自分自身が体験したものなのか、それとも今のように自身が眠りについている間に生み出した夢なのか、全くもって判別がつかなかった。
あの森は、確かに自らが住まうこの国の森だろう。
それならば、グラムストラに拾われる前の記憶なのかだろうか。
考えていると、目の前に指が一つ突き出されていて、首を傾げると、また笑う気配がした。
「ほら、よく見てみろ。まずは手だ。解るか?」
手?
何を言っているのだ、と返そうとして、はたり、思い出して見下ろしてみると、暗闇の中に、細くて頼りない両腕がぶらり、垂れ下がっている。
「手が解るなら、次は足だ。二つあるだろう?」
そう言われると、視線を更に下ろしたその先には棒のように並んだ両脚があって、成る程、これが自分の足なのだ、と、初めて気が付いた。
今までどうやって歩いて、どうやって這っていたのか、何一つ理解していなかったのだ、と今更ながらに思い知って、それから、肩から流れてきた白銀の長い髪に、汚れ一つない真白のワンピース、それらが唐突に血液を循環するように温もりを吹き込んで、いて。
声の主はその様子に満足げに笑い声を上げると、此方に問い掛けてくる。
「さあて、お嬢ちゃん。名前は?」
「私は……、」
フィーネは声の主に名乗ろうとしたが、一向にその姿が見えない。
不思議に思って辺りを見回しても、真っ暗な世界にぽつりぽつりと頼りない光が灯っているだけだ。
あれは蝋燭の灯りだろうか。
ぼんやりとそれに近づこうとすると、足元からまた、声がする。
「おおい、こっちだ、こっち!」
声に導かれて視線を滑らすと、少し離れた光の側に、手のひらに乗りそうな程小さな薄茶色の毛玉が、小さな両手を伸ばして懸命に自身の存在を示している。
今までその存在を視認する事はなかったというのに、まるでずっと其処にいたかのように、其れは居た。
しゃがみ込み、そっと触れようとしたフィーネは、けれど、それに小さな手足と丸い耳、そしてずんぐりとした尻尾がついている事に気がついて、ことりと頭を傾けた。
以前、メイシアが持っていた本で見せて貰ったものに、それはよく似ている。
「犬か、猫か……、それとも、鼠というものか?」
「悪かったな。なりたくてこうなっちまったわけじゃあないんだ」
ふさふさの毛皮を纏っているその生き物は、悪態を吐きながら腰に手を当てて踏ん反り返った。
よく観察してみると、その首には小さいながらも黄色の宝石のついた黒いリボンをつけていて、緑色の丸い瞳がぱちぱちと瞬かせている。
見た目からして人間ではない。それならば魔物なのだろうか。
不思議に思いながらフィーネが頭を傾けると、その生き物は片目を細めて笑っていた。
「状況は把握したか?」
「どうだろうか」
此処が夢だというなら、あまりにも鮮明で、あまりにも覚束ない。
そう告げると、その生き物はからからと笑っている。
話をしてみると、この生き物はどうやら性別があり、それも、男なのだという。名前は“ルトレイイ“というらしい。
魔物じみた姿だが魔物とも言い切れない特殊な存在であり、夢に閉じ込められ夢の中でしか生きられない生き物なのだという。
魔物は夢には現れないそうで、それはそもそも魔物が夢を見ないからで、人の夢と夢の間を渡り歩きながら、時折こうして人間に接触しては、また次の夢へと旅立っていく。
彼は、旅人なのだ。
「しかし、夢に留まるのは良くねえな」
「どうして?」
「俺みたいになっちまうからだよ」
悲しいのか、諦めているのか……、項垂れるように頭を下げ、感傷的な声で彼はそう言った。
その仕草に合わせて揺れた宝石が、灯りに照らされきらきらと輝いている。
フィーネは膝に頰を当て、それをじっと見つめながら、酷く懐かしい気持ちに晒されていた。
どうしてだろう。
このやさしくてあたたかい光を、自分はきっと、知っている。
そっと指先を伸ばそうとすると、ルトレイイは顔を上げてにかりと小さな口の端っこを持ち上げた。
「なあ、待っている奴がいるんだろう?」
きっとお前さんを心配しているよ。
そう、やさしくやわらかな声音で言う彼に、フィーネは視線を俯かせた。
それが、ほんの少しだけ、アステリアスに似ているような気がしていたからだ。
彼は本当に、自分を待っていてくれるだろうか。
時折見せる彼の危うさは、フィーネの心を不安に駆り立てる、のだ。
目の前から彼が消えてしまう事が、彼が傷つけられ消えてしまう事が、恐ろしくて堪らない。
どうしてそれ程に彼に拘るのかを、フィーネは理解出来ず、その事実にさえ、不安を覚えてしまう。
側に居て、いつものように、優しく笑っていて、欲しい。
その為に、自らの全てを失っても構わない、から。
だから、いなくならないで、欲しい。
終わりのない、果てのない、その気持ちは、一体どうしたら収まってくれるのだろう。
「夢は醒めるものさ。いつか、必ず。それなら、思うままに生きた方がいい」
「思うがまま……?」
ルトレイイの言葉に、フィーネは暫し瞬きを繰り返し、目蓋を閉じた。
グラムストラに拾われてから、ずっと、願いや希望を口にした事はなかった。
ただ此処に居られれば良かった。
静かに暮らしていられれば。それだけで。
それなのに、アステリアスが現れてから、ずっと、たくさんの想いがこの身体に溢れている。
その想いに名前すらつけられないのに。
けれど、もしも、思うがままに生きていいと言うのなら。
考えて、眼を開く。
暗闇は続き、ぼんやりとした明かりの中に、小さな生き物と、その首元についた宝石が輝いている。
フィーネは頷いて、立ち上がると、頼りない明かりを辿って歩き出した。
眼を開いた次の瞬間は、どんな景色なのだろう。
薄暗いこの森には、光ひとつ届かないけれど、僅かに暖かくなったような気がする胸には、そっと明かり灯ったようで、微かに唇に笑みが浮かんでいた。
***
ぼんやりとした光を灯した明かりに導かれるように歩いていく、フィーネの姿が見えなくなると、其処はもう、果てのない暗闇だけが続いている。
一体何処に進めば良いのか、それとも後ろに行けば良いのか、分からずに、ルトレイイは息を吐き出して頭を掻いている。
元よりずっとこうして夢の中を彷徨ってきたのだ。
今更、困る事などない。
それに、と考えていると、首元が淡く光っているので、ルトレイイは困ったように耳を伏せ、黄色の宝石をその小さな指先でそっと撫でた。
頼りなげな光を纏う宝石は、まるで彼を非難するかのように、きらきらと輝いている。
「大丈夫さ。彼女は変わった。だから、そう心配するな」
きっと、上手くいく筈だよ。
淋しそうにそう言って、ルトレイイは再び暗闇の中を歩いていった。
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