第14話 感情の瓶詰


「アステリアス?」


 中庭から廊下へ戻ると、其処にいた筈のアステリアスの姿はなかった。

 頭の天辺から足首まで一気に血の気が引いてくるような心地になったフィーネは、震える息を吐き出すと、急いでその場から走り出していた。

 彼の事は何も知らない。

 名前と、人間としての生き方を知っている。

 たったその程度。

 それすらも本当なのかは、フィーネには確かめようがない。

 けれど、彼はこの屋敷では決して与えられる事のなかった笑顔も、手に触れた時のあたたかさも、自分だけの名前も、簡単に呆気なく手渡してくれた。

 何の見返りもなく、ただ、それが当たり前のように。

 魔物達の住まうこの屋敷の中で、自らが拾ってきた、唯一の同胞。

 それが失われてしまうという事が、堪らなく恐ろしく感じてしまうから、こんなにも焦燥感でいっぱいになってしまうのだろうか……。

 考えが上手く纏まらず、胸底から次々と湧き上がる不安を振り払いたくて、けれどどうする事も出来なくて、フィーネが胸元をぎゅうと握り締めると、左側にある扉がうっすらと開いているのが見えた。

 導かれるようにその扉を開けば、薄暗い部屋の中で、アステリアスの後ろ姿が其処にある。


「アステリアス!」


 呼びかけると、彼はゆっくりと振り返る。

 その顔に表情はなく、中庭に出る前に見た彼の顔つきより、更に酷く呆然としていた。

 まるで彼が彼でなくなっていくような、そんな恐怖感にフィーネが一瞬身を引くと、彼はゆっくりと視線を合わせ、漸く認識出来たらしい、疲れたような笑顔を浮かべている。


「……ああ、フィーネ。おかえり」


 柔らかく細められたその眼差しに、いつもの彼だ、と強張った身体が少しずつほぐれていくのを感じて、フィーネは静かに呼吸を繰り返した。

 不思議そうに首を傾けたアステリアスは、フィーネに近づくと、宥めるように頭を優しく撫でている。


「……、離れないよう、言っただろう」


 まるで自分が叱られているかのような気がして——本当は自らが叱る筈なのに——フィーネは顔を歪めて唇を噛み締めた。

 言いようのない、まだ言葉にはしきれない曖昧で不確かな感情がもどかしく、どう扱って良いのかもわからずに、フィーネが口をはくはくと動かすと、彼は困ったように笑って頰を優しく撫でてくれる。

 彼の手のひらはかさついていて冷たく、触れた頰からゆっくりと体温が移っていた。


「ごめんな、心配かけたんだな」


 これが此処に置いてあったから、気になって。

 そう言って彼が目線の高さにまで持ち上げたのは、手のひらに収まるほどの瓶詰めだ。

 中に入っているのは、淡く光る紫色の花のジャムのようで、側面に白いラベルが貼り付けてある。


「雨露で煮詰めた蜜薔薇だ。きっと、メイシアが用意してくれたのだろう」


 メイシアはいつも午後三時にいつもの部屋にだけ現れるが、時折こうしてどこからともなく必要な物を用意してくれる事がある。

 彼女の優しさに感謝して、後で礼を言わなくては、とフィーネは微笑んだ。


「メイシアとフィーネは仲が良いんだな」

「ああ。他にも良くしてくれる者はいるが、メイシアは、少し違う。そうだな、何と言ったら良いか……、」


 言い淀んでいると、アステリアスが微かに笑う気配がする。

 それは蔑むようなそれでなく、慈しみからくるもののようで、視線を向けたアステリアスは嬉しそうに眼を細めていて。


「そういうの、友達って言うんだよ」

「友達?」


 耳慣れない言葉にフィーネが聞き返すと、彼は頷いている。


「そう。一緒に居て、気が合って、他愛も無いことを話したり、一緒に遊んだり出来る人の事」

「家族、とは違うのだな」

「そうだね。家族はまた別だよ」

「そうか。それは、難しいな」


 人間の生き方をメイシアから聞き及んでいたとしても、自らがまともに人間としての生き方をしているのかも、記憶のないフィーネには分かり得ない。

 彼はそれを知っていて、自分はそれを知らない。

 その溝は埋まる事はないだろうが、彼からそう言った事を聞くのは、とても好ましい、とフィーネは思った。

 そうする事で、少しでも彼に近づけるような気がしたから、なのだろうか。

 アステリアスは静かに瓶詰めの中身を見つめていて、夜明け色の瞳に、淡い紫色の光が反射している。

 フィーネはゆっくりと呼吸を繰り返し、彼に問いかけた。


「アステリアスは、」

「うん?」

「アステリアスと私は友達なのか?」


 問いかけに、アステリアスはぱちぱちと瞬きを繰り返すと、ふわりと笑って答える。


「フィーネがそう思うなら、そうだよ」

「でも、アステリアスとメイシアは違う。それなら、アステリアスと私は家族なのか?」


 更に問いかけると、アステリアスは、益々笑みを深くして答える。


「フィーネがそう思うなら、そうなれるかも」

「からかっているだろう」

「からかってないよ」


 口先を尖らせると、彼は可笑しそうに笑って、フィーネの頰を指先で優しく撫でていて。

 誤魔化されているようにしか見えなくて、フィーネは上気した顔を背けた。

 頑是ない子供のように、何も理解していない事が可笑しいのか、それとも、拗ねたような様子が可笑しかったのか、わからないけれど、アステリアスは柔らかく眼を細めてフィーネに視線を合わせると、その頰にかかった髪を静かにどかしてくれる。


「からかってない」


 そう言って真っ直ぐに見つめてくる彼の瞳に、フィーネは一瞬呼吸を忘れたように感じて、胸元をぎゅうと掴んだ。

 そんな風に彼に見つめられると、頭の奥がじんわりと痺れていくように、酷くぼんやりとする。

 それはとても恐ろしい事のようで、とても心地が良かった。

 甘やかで、苦しくて、振り払ってしまいそうになるのに、もっと近づいてみたい、と思う程に。


「……、よく、わからない」


 呟いて、フィーネは顔を背けた。

 どうしてだろう。

 いつもよりずっと、鼓動が早い。

 アステリアスは、頼まれたものは全部揃ったかどうか、確認しよう、と吐息混じりに笑っている。

 先程までのぼんやりした顔ではなく、そうして笑ってくれている彼の方が、やっぱり良い。

 フィーネはそう思いながら、彼の手を握って、頷いた。

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