第16話 白日の往日


 白い壁に、真っ赤な血が滴り落ちる。

 何故、と問いかけるよりも早く、白い手が伸びてきて、急いでそれを引き寄せた。

 頭がおかしくなりそうな程に白い階段を駆け上がり、長い廊下を走り抜け、そしてまた階段を降り、再び長い廊下を駆け抜ける。

 息が苦しくても足がもつれても、この手を離してしまったら、もう二度と繋ぎ直す事は出来ないと知っているし、知っているからこそ、止まってはいけないのだ、と涙で滲む視界で先を見据える。

 震える声で何かを伝えれば、側にいる誰かが小さく頷いて、励ますように声をかけてくれる。

 その信頼感と安心感だけが、拠り所だ。

 逃げれば逃げる程、後ろから聞こえてくる苛立ちを孕んだ足音が増えていく。

 追い詰められているのは、理解していた。

 けれど、止まる事は出来なかった。

 何度も倒れて傷つき、それでも立ち上がり、懸命に走って。

 繋いだ手さえ離れなければいい。

 そう願った瞬間、白い床に、真っ赤な血が滴り落ちる。

 振り向いたその先にある景色が、やけにゆっくりと視界に広がって、いて。

 振り下ろされた何かに気がついた時、伸ばされた白い腕は鈍い光を纏う剣に遮られていた。

 やめてくれ、それだけは、どうか。

 懇願する誰かの声が聞こえている。

 目の前が真っ赤に染まっていく。

 頭が、指先が、足が、かたかたと震えて、上手く息が吸い込めない。

 痛い、よりも、熱い、が、先行して訪れる時には、いつだって耐えがたい苦痛が訪れるのを、知っている。

 そして、頭が真っ白に塗り潰されそうになる時は、大切な何かを壊されてしまった時なのだ、とも。

 目の前が真っ赤に染まり、口からだらしなくみっともない自らの悲鳴が聞こえる。

 あああ、だとか、うああ、だとか、獣のように言葉にならないその声を辺り一面に響かせても、けれど一向に目の前の惨劇を救う手立てを与えてはくれない。

 涙を流す事も出来ず、無様に床に蹲りながら声を上げるだけの、無能な生き物と化した自らの前に、その人は悠然と立っていた。

 あまりの美しさに無機質に見える顔立ち、長く艶のある白銀の髪、穢れなき白い衣、手足を彩る無数の宝石。

 青い瞳はまるで生気を感じられないというのに、奥底まで覗ける程に透き通っている。

 悲鳴を上げ続け、からからになった喉から、どうして、と掠れて音にならない声が零した。

 どうして。どうしてなのですか。

 その声に、彼女は一切感情を表す事はない。

 女王陛下。リーニエンフィ様。

 嗚呼、どうして、私達が苦しまなければならないのですか——!


 

 ***



 抱えていた短剣を握り締めて、アステリアスはゆっくりと眼を開いた。

 床に座り込んで眠っていたので、身体のあちこちが軋んで痛い。

 まだ激しく鳴り響く鼓動を落ち着かせるように、震えた喉から深く長く息を吐き出すと、唇を噛み締めた。

 室内は薄暗く、新しく拵えて貰った白色の服が、やけに浮き出ているかのように感じられる。

 法服のような裾の長い服は、袖に細やかな銀の刺繍が施され、動き易いとは思い難いものではあったけれど、それが、可笑しい程によく身体に馴染む。

 まるでフィーネと揃えたかのようなその衣服に、アステリアスは眉を寄せて立ち上がった。

 辺りを確認すると、背を預けていたベッドに、フィーネがすやすやと眠っている。

 そのあどけなさ、いとけなさに、押し込めていた息をゆっくりと吐き出したアステリアスは、額を押さえて顔を俯かせると、震える喉からゆっくりと息を吐き出した。


「……、どうして」


 呟きは誰に届く事も無く、暗闇の中に消えていく。

 握った拳に力が込められ、ゆっくりと爪が皮膚に食い込んでいく。


「どうして、だよ」


 理不尽だ。理不尽で、不条理で、不合理だ。

 一体、何の為に生きて何の為に戦ってきたというのだろうか。

 どうせ誰も彼も自分の言葉を聞いてはくれない。

 これがおかしい事だと誰も理解はしてくれない。

 正しさなど求めていないのだ。最初から。誰も。

 泣き叫んだって傷つき苦しんだって。誰も。誰も。誰も。

 だから今こそこの手を振り上げるのだ。

 全てが不要なのだ、と。

 自分だけが苦しんで彼女だけが苦しんでそれ以外の誰かが犠牲にならないと言うのならそんな世界はそもそもいらない。必要ない。関係ない。

 助けを呼ぶ声を痛みに喘ぐその身体を絶望に身開かれた眼球を叩き潰して切り刻んで燃やし尽くして確実に正確に的確に苦しめて追い詰めて何も残らずにしてやろうそうだそうだ順番に番号順に呼び出して次はお前だと言って一人ずつそう一人もいや一欠片も残らずに!

 ———どうせ、どうせどうせどうせ今更誰も救われないのだから!


「ああ、そうだよ。これが俺の、覚悟だ」


 もう一度、健やかに眠るフィーネを見たアステリアスは、静かに窓際へと足を向けた。

 ベイウインドウの窓台に腰掛け、鉛で菱形に区切られ硝子を嵌め込んだ窓に触れると、指先から少しずつ、確実に、冷たさが浸透している。

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